閑話幕間その10「在りし日よ 2009」

  〈十九年前:二〇〇九年 夏〉


「透子、七竈。遅いよ。早く行こう。急がないと、売り切れてしまうかもしれないよ」

 駆けていく、軽快な足音。ステップを踏みながら、こちらを振り返って手を振り、はしゃいだ笑みを見せる。思わずこちらも、苦笑を漏らしてしまうほど。いつもより彼女は明るい。

「おーい、續。そんな慌てなくても、アイスも店も逃げないって。それにいくら人気って言ったって、売り切れるほど人が並ぶわけないだろ?」

 七竈は小さくため息をついて言う。そして、てっきり隣を歩いている透子もそれに同意してくれると思っていたら。

 彼女もまた、楽し気なステップで續に追いついてこちらを振り返る。いたずらっぽい笑み。……こっちもはしゃいでたか。苦笑いが二重になる。

「七竈は呑気すぎ。東京の行列ってやばいんだよ。並ぶときはめっちゃ並ぶんだから。ほら、急いで。七竈の分なくなっちゃうよ」

「私の分は買ってくれないのかよ。わかったって。しょーがないなぁ」

 浮かれた二人に、七竈も走ってついていく。續と透子はこちらに手を差し出して、こっちが両手を伸ばすとその手を掴んで引っ張りこむ。

 二人が揃って同じような顔で笑い声を上げるものだから、ついに七竈もはしゃいだように吹き出してしまった。

 久々の外出許可だった。前日まで予報は雨模様のようだったが、狙いすましたように晴れ渡ってくれた。晴天、澄んだ青がどこまでも空に広がっている。

 夏が始まったばかりの気候が爽やかで、これからの時期が楽しみになる。夏は、大好きだ。こうやって三人で出かけられるのが、七竈は嬉しかった。……やっぱ私も、はしゃいじゃってるかな。柄にもなく。

 最近は、異能者に対する規制がより強まってきたような気がする。ここのところ発症者が増え、そのまま異能が自我ごと暴走して甚大な被害をもたらすことも多いのだ。

 必然的に、唯一それに対抗できる異能適合者である七竈たちの出動回数も増えた。適合者は常に不足している。増えるというより、減る一方かもしれない。それだけ発症者や異物との戦いは、熾烈極まる。七竈たちたちも何度死線をくぐったかわからない。

(……でもあたしたち三人なら。きっとどこまでもいける。そんな気がする)

 七竈は二人に両手を引かれながら、そう思う。根拠はないけれど、本気でそう思っている。そんな歌、小さい頃に聞いた気がする。

 でも、締め付けは強まるばかりだ。七竈たちも外出願を出したのはもう三か月も前だ。それがようやく叶った。正直、もうだめかと思ったけれど。何とか学園側も融通を効かせてくれたようだ。

 世の異能適合者への偏見は、未だに晴れない。それも、発症者の暴走が目立ってしまうが故なのだろう。テレビでも新聞でも、メディアでは頻繁に取り沙汰されている。

 異物になったら。発症した異能は強まり、より被害は酷くなる。同じ力を有し、それを使いこなす適合者は、それ以外の人は同じような。いや、それ以上の脅威に捉えてしまうのかもしれない。

 事実、七竈たちが異物になったとしたら。確かに暴走者の数倍は厄介な存在となるだろうけれど。なると決まったわけじゃない。それなのに。

 自分たちはずっと学園の敷地の外に、許可なしでは出ることも叶わない。ずっと籠の鳥だ。こちらは人々を救うために、学業だって、他の人たちが当たり前のように楽しんでいることだって犠牲にして命をかけているのに。

 誰だって、異能は発症するリスクはあるというのに。……せっかく楽しい時間なのに、こんなことが頭にちらつく私は。やっぱり頭が固いのだろうか。

「いてっ!」

 不意に、ぴんと額を弾かれた。悪ガキのようににやけた續が、デコピンの後の指を構えている。

「七竈はすぐしかめっ面をするね。笑顔の方が似合うんだから、もっと笑いなよ。他の人が怖がるよ?」

「そうそう。この前だって出動の時、警察の人びびらせてたじゃん。私たちだからいいけど、意外と怖い顔してるからねぇ、七竈は」

「悪かったな、透子。生まれつき顔つきが悪くて。それに、悪態ついてきたあのバカポリ公を脅してたのはお前だろ。おかげであの後めちゃめちゃ説教されたじゃねぇか」

「ふふっ。三人で仲良く怒られたねぇ。まあでも、私はすっきりしたよ。ああいう透子の激情的なところ、結構好きだ。七竈のしかめっ面もね」

「言ってろ、續。ほら、アイスが逃げるぞ」

 そうやって三人でやり合っていると、ついさっきまで心の底でわだかまっていた澱のようなものが晴れていく気がする。……そうだな。今は楽しもう。例え自由が、つかの間だとしても。三人だけの貴重な自由時間だ。

「……やっぱりすごい行列じゃないか。言っただろう、七竈ぉ」

「いや、この感じだとだいぶ前からこんなんだっただろ。私のせいじゃねぇやいっ」

 目的のアイス店に辿り着くと、店先にだいぶ行列が出来ていた。續がむくれた子供のように七竈を見る。今日がオープン日で、それなりに話題にはなっていたようだけれども。まさかここまで人気だとは思っていなかった。テーマパークのアトラクションかよ。

 ……そういうところも、こいつらと行きたいな。無理か。今だって許された外出時間は三時間ほどだ。もうちょい余裕くらい持たせてほしい。

「どうする? 並ぶ?」

「……そうだね。時間は限られているし。東京は楽しいところ、いっぱいあるんだろう?」

 少し尻込みしたらしい透子に、續もあからさまに肩を落としてそう答えた。

 がっかりした様子を隠せていない。いつも大人びた態度で飄々としているくせに、こういう時は子供らしさが滲んでしまっている。

 ここに来るのを提案したのは續で、彼女は数か月前からずっと楽しみにしていたのを七竈は知っている。だから、迷わず言った。

「いや、せっかく来たし並ぼうぜ。いいじゃねえか、行列上等。時間はあるだろ?」

「……いいのかい。七竈、待つの嫌いだろう? 我慢強いの見たことないよ?」

「おい。たった今待つの好きになったんだよ。悪いか? 付き合ってもらうぞ」

「そだね。せっかくだもんね。行こうよ、續。きっと絶品アイスが私たちのこと待ってるはず!」

 透子も笑顔を作り、今度は七竈と二人で續の手を引いて行列の最後尾に向かう。

「……ありがと。七竈、透子」

 小さくぼそりと、照れくさそうにお礼を言う續が。愛おしくて髪をわしゃわしゃを撫でてやる。「こら。私は子犬じゃないぞ」と便乗して撫でる透子にも、續は言いながらも嬉しそうに頬を緩めていた。

 もちろんそれなりの行列だったので、それなりの時間待たされることになる。

 海の近くの片田舎出身の七竈からすると食べ物のために並ぶなんて理解不能という感じだったが、今なら何となくわかる。

 それを食べたという経験を、誰かと共有したい。例えば今、並びながら談笑している二人と。

 随分と話が弾んだせいか、思ったより体感は並んだ感じもせず、自分たちの番が回ってきた。思い思いのフレーバーを頼んで、和気藹々と店を後にする。みんな奮発して、三段の絶妙なバランスで成り立ったコーンアイスにした。

 行列に並ぶのも、たまには悪くないかもしれない。

「せっかくいい天気だし、近くの自然公園でアイスをいただこう。こういう日の日光浴は最高なんだ」

「續って、何か猫みたい」

「こら。私は猫じゃないぞ」

 また透子に頭を撫でられるのを、續は拒否せずあえてされるがままにしていた。そしてくすぐったそうに目を細める。いや、猫じゃねえか。子犬だったり猫だったり、本当に忙しなく愛いやつ。

「あ、ごめん七竈。ちょっと持ってて」

 自分のコーンアイスを七竈に手渡した續が駆け出す。そちらを見ると、どうやら重い荷物を持っておぼつかなく信号を渡っている高齢の女性を見つけたらしい。荷物を持ってあげて、手を引いて渡るのを手伝ってやっていた。しきりに礼を言われて恐縮しながら、彼女は帰ってくる。

「ありがと、七竈。ごめんね、透子も待たせちゃって」

「お前ってさ、もしかして道徳の教科書の擬人化か? 良いやつすぎるだろ」

「續は困っている人を放っておけないんだもんねぇ。いい子いい子」

「透子、また子猫みたいに私を撫でないでおくれ。……こういうのもまた、人の縁だよ。こういう小さな繋がりが、この世界をより良いものに変えていくんだ。だから、大切にしないとね」

 照れたように續が笑う。善性の塊か、こいつ。自分が何かしたわけでもないのに、七竈まで誇らしい気持ちになる。すげーだろ、これが私の親友。みたいな。

 自然公園へ。休日だからか、穏やかな日差しが注ぐその場所は親子連れや友人同士の戯れ、恋人同士の逢瀬などで賑わっている。

 異能学園の所属者は外出中も制服の着用を義務付けられている。休日なのに学校の制服を着ている自分たちは少し浮いているように思えたが、それでもこの賑わいの場は七竈たちを受け入れてくれたように感じた。

 ちょうど日陰になっているベンチが空いているのを見つけ、三人で並んでアイスを舌鼓。七竈は口に含んだとたん、「んんっ⁉」と目を見張った。コンビニで買うアイスも美味しいが、濃厚さが違う。アイスのクリームのとろみが、絡みつくほどに存在感がある。ストロベリーを選んだけれど、ちゃんと果実感があって、ついでに果肉も入っていてびっくりした。

「おい、透子っ、續! これめっちゃくちゃ美味いぞ! ちょっと食ってみろって! ぶっ飛ぶぞこれ」

「こっちのチョコミントも美味しいよ、七竈。ほら、一口どうぞ」

「えぇ……。ミントって歯磨き粉みたいな味しねぇか……?」

「それ以上言ったらぶっ飛ばす。いいからほら、口開ける!」

 何故か激昂した様子の透子に、スプーンを口の中に突っ込まれた。途端、味覚に衝撃。ミントの爽やかさと、チョコレートのほろ苦い甘みの調和。舌を甘やかす。

 七竈はすぐさま透子に頭を下げた。

「すんませんでしたァっ! うっま、これうっまぁ! 續も食ってみろってこれ。やばいぞこれ!」

「ふふっ、じゃあ私もいただこうかな。こっちのレモンとリンゴのフレーバーも美味しいよ。ぜひ食べてみて」

 三人で自分たちのアイスを交換しあいながら、お互いに感想会。これがまた盛り上がる盛り上がる。普段は自分が選ばないようなフレーバーだからか、新鮮な気持ちがして楽しかったし、自分の好きな味を褒めてもらえるのもいい。

 そうこうしている内に暖かくなってきた気候でアイスが溶け始め、慌てて三人で食べる。そんな焦りっぷりに、お互い苦笑いがこぼれた。

(……そうか。私、この三人で過ごすの。好きなんだ)

 木漏れ日の中、續と透子の花開くような笑みが、より鮮やかに七竈の眼を照らした。

 改めてそんなことを自覚するほどに。どうやら私は今この瞬間に、浮かれてしまっているらしい。それもしょうがないと思う。だってすごく、楽しいから。

「……透子、七竈。君たちと出会えて、本当に良かった。こんなに楽しい日々があるなんて、想像も出来なかったな」

 透子に押し付けられたチョコミントを口につけながら。どこまでも優しく、朗らかに。續が微笑んだ。その表情が何故か、七竈の胸を切なく打った。

「んだよ、續。今更どうした? はずいだろ、急にそんなに褒められたら」

「ま、嬉しいけれどね。續が楽しんでくれて、ほんとよかった」

 透子と揃ってそう言ってやると、續も照れたように含み笑う。そういう表情は子供っぽくて、普段大人びた彼女らしからぬ感じにどきりとさせられた。

「……私は、ずっと一人だったからね。この先もずっとそうだと思っていた。だけれど学園に来て、君たちと出会えた。この瞬間も、君たちと過ごすこれからの日々も。きっと私の人生にとってはかけがえのない宝物なんだ。……私は、恵まれてるね」

 少し遠い目をして、續は言う。ああ、と七竈も少し気が滅入る。透子も同じ気持ちだろう。

 續は。七竈たちとは違い、生まれた時から異能に目覚めていた。續の家は、天城家は。由緒正しいを重んじる代々続く名家だった。

 そしてそんな天城家では、摩訶不思議な力を持つ續は、ずっと冷遇されて過ごしていたのだ。外に自由に出るのも叶わないような状況だったらしい。妙な噂を建てられぬようにと。小学校にすらまともに通わされず、まともな教育もなかった。

 ただ、書庫にある本が。そこにある数多もの知識だけが續の唯一の友達だった。彼女の賢さは、独学で培われたのだ。今でも成績は一年の中では續が一番トップ。これも彼女の才能と努力の賜物なのだろう。

 齢十二になり、学園に入れられたのも、本人の意思は関係なかった。厄介払いだったのだろう。だがあの家を出られるなら、何でも良かったと續は言った。

 そして、七竈と透子に出会った。最初は續の放つ雰囲気があまりにも異質で、とっつきにくいと感じていたのは否めないけれど。接するにつれて徐々に態度が軟化していく彼女は、やっぱり愛おしかった。今は、こんなにも懐いてくれている。……愛いやつめ。

「あ、あの。異能特別学園の子たち、だよね……?」

 ふと声を掛けられて、反射的に七竈たちは身構えてしまう。こういう時飛んでくるのは大抵罵倒や罵詈雑言だからだ。

 だが顔を上げた先にいたのは、小さな男の子を抱いた母親らしき女性だった。こちらに向ける視線も、どこか遠慮がちで優しい。

「そうですが……どうかしましたか?」

「えと……この前、商店街で刃物を持った人が暴れていた事件、覚えてる? 私とこの子、あの場にいて。本当に危ないところだったの。それで、あなたに助けてもらった」

 女性の視線が續を見る。はっと續が目を見開いた。

「あ、いやあれは……出動要請があったから。私たちにとっては当たり前のことというか」

「そうなの。でも、ありがとう。本当にありがとう。一言お礼が言いたかったの。邪魔しちゃって、ごめんなさいね」

 女性は頭を下げ、そそくさとその場を後にしてしまう。腕に抱かれた子供が、續に向かって手を振っていた。

 續は。少しぼんやりした様子でそれに手を振り返している。

「褒められたじゃん。やったね續。お手柄お手柄」

「ちょっと前の出動の時だったよな。あん時お前めっちゃ大活躍だったもんなぁ」

 わしゃわしゃと間に挟んだ續の頭を、透子と一緒に撫で回してやる。續はまだぽかんとした様子で、それでもほんのりと小さく微笑んだ。まるでようやく浮かんできた喜びを、ゆっくりと噛み締めるみたいに。

「……そうだね。でもやっぱりそれも、透子と七竈が一緒にいてくれたからだ。やっぱり二人と出会えて、本当に良かった」

 彼女はしみじみとそう言うものだから。七竈は透子と顔を見合わせて、それから二人で照れ隠しにまたわしゃわしゃと續の頭を撫でてやるのだった。


  〈二〇〇九年 八月一日 新宿事件〉


「……何だ、これは……」

 續が。絶句して絞り出すようにそう呟くのが聴こえた。

 七竈も、隣に立つ透子も同じような顔をしていただろう。目の前の光景が、信じられない。

 七竈たちはビルの裏路地、物陰に隠れて表通りを窺っている。目の前で異物や暴走した発症者が暴れて誰かを狙っていたら、すぐにでも飛び出していた。だが思っていた状況と違う。想定していたものより、目を疑うような光景がそこにはあった。

 新宿駅で、多数の発症者が出た。適合者はゼロ。近年、いや異能発症者が最初に現れて史上最悪な展開だと聞かされていた。

 だが今目の当たりにしているのは。これは、何だ。

 車がひっくり返っている。道路が陥没し、そこに信号機が倒れ込んでいる。駅前の広場は人の形を留めてない遺体が散らばっている。地獄だ。だけど。

 発症者はいない。先に出動していた異能適合者たちが、対処したのだろう。

 そして出動要請を受けたであろう異能者たちは。今、銃器で武装した傭兵のような集団に取り囲まれ、跪かされていた。銃口が、全て彼女らに向けられている。

「やめて! 私達は人間だよ! 暴走してない! 出動要請を受けただけだ!」

 異能者のうち誰かが立ち上がって叫ぶと、銃底で殴られて倒れさせられていた。

 異能対策部隊。七竈も聞いたことはあった。政府が秘密裏に組織した、非異能者で構成された武装集団。異能者の人手が足りない時、彼らも出動してその手助けをするもの。そんな風に考えていたのに。

 今その対策部隊は、適合者たちを一箇所に纏めて銃口を向けている。出動要請に従っただけで、異物化の傾向もない女性たちを。中には、泣きじゃくる七竈たちと同じくらいの少女も複数いた。

 明らかに異常だ。発症者はもう対処されているはずなのに。何故適合した異能者たちに銃を向ける?

「あいつら、何する気……?」

 透子が上擦った声で呟く。いや、彼女も七竈と一緒で、この先の展開を予期していた。でも信じたくない。そんなことが、起こるなんて。

 續は、微動だにせずじっとその光景を見つめている。

「殺せ! そいつら化け物だ! 殺しちまえ!」

 声が上がる。男は、この騒ぎに巻き込まれた一般人のようだ。その周りに、他の人達も集まり始めている。

「殺して! 私達が殺されちゃう!」

「殺せ! 化け物は殺せ!」

 折り重なる声。七竈は目眩を覚えた。

 違う。彼女たちは異能に適応出来ている。化け物じゃない、人間だ。

 でもすぐには飛び出せない異様な空気がその場に満ちていた。おそらく姿を見せれば、自分たちもやられる。葛藤していた。どうしたらいい。どうしたら。

「撃て!」

 対策部隊の誰かが叫ぶ。そして。

 銃声。銃声銃声銃声銃声銃声。耳を塞ぐほどにけたたましいそれは、耳障りな獣の叫びのようだった。長く長く、それはいつまでもその場に重く反響し続けた。

 七竈は閉じていた目を開ける。息を呑んだ。

「ウソだろ……」

 その場に集められていた異能者の人たちは。血の海になった地面に伏していた。火薬の匂い、血の匂い、腐臭。目が眩む。眼の前の現実を受け入れられそうにない。

 集まっていた一般人たちからは歓喜にも似た声が上がった。イかれてる。本気でそう思った。

 不意に。対策部隊は、次に銃口を一般人たちの方に向けた。呆気にとられた彼らに、乾いた声が掛けられる。

「目撃者は残すな」

 再び銃声。もう七竈は目を向けられなかった。地獄だ。今すぐこの場から逃げ去りたいのに、足が竦んでしまっていた。

「……ふざけるな」

 聴こえた声。じっと正面を向いていた續だ。握りしめられる手。彼女の背中から、鋭い怒りのようなものが伝わってきた。

「ふざけるなふざけるなふざけるな。……ふざけるなァ!!」

「續! だめだ!」

 續は飛び出す。手を伸ばした七竈と透子のも止める間はなかった。

 対策部隊の一人が續に気づいた途端、彼女は手を薙ぎ払うように動かしている。

 瞬間、その場にいた兵たちが弾き飛ばされるようにぐちゃぐちゃになった。遅れて残された手や足が、地面に落ちて転がる。血飛沫が、まるで土砂降りの雨のように地面を叩く音。その粘着質な水音が、ひどく乾いて周りに響いた。

 列車の汽笛の音が、けたたましく鳴って遠ざかりぷっつりと途切れる。幽霊列車。この前の暴走発症者から、續がコピーした異能だ。彼女はそうやって誰かの異能を蓄え、使うことが出来る。

 今の騒ぎを聞きつけて、他の対策部隊の連中もやってきた。續と、その前に広がる惨状を確認すると、迷うことなく銃を彼女に向けた。

 續は。その方向も見もせずに、両手を構えている。獣が牙を剥いた顔のフォルム。

「獅子」

 銃を構えた兵たちに、獣の群れが襲い掛かる。半透明の、雌ライオンの具現化。一転してその場に悲鳴が満ち溢れていく。

「噛み屠れ」

 冷めた声で容赦なく、續は言う。途端兵たちはライオンたちの鋭い爪や牙でずたずたに引き裂かれていく。断末魔、肉の裂ける音、血が、アスファルトに降りかかる音。

 七竈は目を逸らしている。震えたまま固まっている透子を抱き寄せ、同じように震えていた。

 續のところに行かねばならない。止めなければ。わかっている。わかっているけれど、竦んでいた。恐れていた。

 今の彼女は、七竈たちが知っている彼女とはひどくかけ離れていた。顔色も変えず、人を殺している。そして新たな血を求めている。そんな風に見えた。どんな状況よりも、対策部隊の連中よりも。

 今はただ、彼女自身が七竈には恐ろしかった。

「獅子、武装した連中は容赦なく殺していいよ」

 續の乾いた声が響く。半透明のライオンたちが応えるように吠えた瞬間。

 バシュッ、と弾けるような音が聴こえた。續の身体が揺らぐ。全部スローモーションのように見えた。彼女が突き飛ばされたように地面に倒れていく。

 そして一瞬だけ消えた音が戻ってくる。まるで現実に引き戻されるみたいに。

 銃声、銃声銃声銃声。雨風吹き荒れる嵐のど真ん中に突っ込んだみたいな、銃声の反響。

 續は複数の銃弾に撃ち抜かれていた。それに揺らがされて、身体の至る所から血を吹き出しながら。彼女は地面にぐしゃりと叩きつけられた。

「續……?」

 透子の震えた声。駆け寄ろうとしかけた彼女を、七竈は必死に自分の腕の中に留めた。

 彼女が涙を溜めた眼差しでこちらを見上げたので、七竈は小さく首を振った。

 裏路地の先に目を向ける。倒れた續のところに、銃を構えた対策部隊の兵たちが集まってくる。

「死亡を確認。脅威の排除完了」

 無意識な声で、兵の一人が無線に告げていた。──死亡。續は。

「……透子。逃げるぞ。私たちもやばい」

 掠れた声で、慎重に何とかそう発することが出来た。ぎゅっと目を絞った透子の瞳から涙がこぼれる。ぎゅっとその手を握ってやった。

(……わかってる。私だっておんなじ気持ちだ。だけど)

 續を置き去りにしたくない。ましてやあんな奴らのところに。でも。七竈は何とか自分を冷静に保とうとする。そうしなければ、自分たちも死ぬ。その事実が、七竈の理性を何とか保たせてくれていた。

 七竈は透子としっかり手を繋いだまま。音を立てぬようにその場を後にした。

 おぼつかない足取りで静かに駆けながら。續の声と姿が、頭を過る。まるで置いていかないでと、彼女が追い縋ってきているかのように。

(……でもお前は。そんなこと、言わないもんな)

 わかっていた。これは罪悪感。彼女を見殺しにした上、置き去りにしたという自分を責めているだけだ。

 續ならきっと言う。「置いていけ。君たちは生き残れ」と。

 ……でもそう思い込むことすら、自責の念を断つための自己防衛に過ぎないのか。七竈は、何もわからなくなりそうだった。


  〈二〇〇九年 八月二日〉


 續の遺体は。学園へと返された。まるで物みたいに。

 「天国の扉」の中にある遺体安置室。検死台の内の一つ。白い布を掛けられた状態の彼女と、七竈と透子は再会した。

 全身を覆われている。が、わかった。彼女の身体はどこも、繋がっていない。きっとない部分もあるだろう。きっとあの後、仇討とばかりに痛めつけられたのだ。

 胸の内側で反吐が湧くような、込み上げるどす黒い感情。それを七竈は、必死に拳を握って抑えていた。指の下から、爪が皮膚を突き破った血が滴る。

 透子も、茫然とその白い布を眺めている。もう泣いてはいなかったが、濃い隈が浮かぶ目元は赤く腫れていた。きっと七竈も同じような顔をしている。昨日は、一睡も出来なかった。出来るわけもなかった。七竈はただ、一人震えて泣きじゃくる透子の肩を抱き、二人でシーツに包まって震えながら朝を待っていた。

 朝。早起きだった續が一番先に食堂に来ていた。その姿がないのを確認して、じわじわと現実が七竈の頭に沁みていくのがわかった。あれは、夢じゃなかった。

 昨日、七竈たちが目撃した光景。出動要請に応えて人々を守るために駆けつけただけの異能者たちを、異能対策部隊の連中が囲んで虐殺していた。

 学園側に訴えかけたが、反応は微妙だった。おそらく揉み消されるのだろう。対策部隊は政府お抱えだが、表向きは存在しないことになっている。

 つまりあの場にはいなかった。大量に死んだ異能者たちは、発症暴走者たちとの戦いの末に亡くなった。そういう扱いになる。

(……續も。そうなるのか)

 彼女は。殺された異能者のために、対策部隊に単身で制裁を加えたのだ。ずっと怯えていただけの七竈より、ずっと勇敢だった。対策部隊の奴らなんて、死んで当然だ。

 だからこそ。不都合な真実はなかったことにされる理不尽なこの世界に。七竈は憤らずには、いられない。

 遺体安置所を出る。まだ薬品の匂いが鼻に残っていて不快だった。七竈も透子も。通路のその場から動けずに黙り込んでいた。お互い、立っているがやっとなほど疲れ切っていた。それでも今夜も、眠ることは出来そうにない。

「……七竈。私、先生になる」

 ふと透子がそう呟いた。小さな声だったけれど、強い意志を感じられて、七竈は彼女と向き直る。

「これからの子たちを、私達と同じ目に遭わせないように。守って、導けるように。私、先生になるよ。この学校の」

 彼女の眼差しは、もう未来を見据えていた。これからのために。續の、ために。彼女の死を、絶対無駄にしない。彼女はそう、固く誓ったのだ。

「……じゃあ、私の進路も決まりだな」

 頭を掻いて、七竈はそれに答える。そして彼女に手を差し出した。

「守るぞ。私達の、他の異能者の人たちのこれからの未来を。――續の、ために」

「そうだね。續のために」

 透子が差し出された手を握り返してくれる。二人はそのまま、真新しい朝日に照らされた外の世界へと、歩み出していった。

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