第八話「遭難」④
7 ~宝石月桃色~
目の前の巨人は。凄まじい異能の気配を放っていた。赤黒く、夜の気配が交わり始めた世界でも浮き上がるような真黒な巨躯。その禍々しさに、圧倒される。何て存在感。一目しただけでわかる。こいつは、強い。強すぎる異物だ。
「……サッキィ、ツックー。動ける?」
巨人の異物から目を逸らさないまま、桃色は背後にいる沙希とえながに声を掛ける。
ずっと戦闘してきたのだろう。一瞬見ただけで、彼女たちは疲弊しボロボロだった。でも労わっている暇は、申し訳ないがなさそうだ。
桃色一人では、この異物は手に余る。余り過ぎる。このビルの屋上に降り立つまで、街の様子を見てきたが災害が通り過ぎた後のようだった。街も、ボロボロだ。おそらくこの異物一体の仕業だ。こいつだけで、おそらく世界は壊せる。絶対逃げるという選択肢はない。だがやれるか。この状態で。サッキィとツックーに、なるべく無茶はさせたくない。
(……智尋は。智尋はどこ……?)
沙希とえながと一緒にいると思っていた。いない。彼女はどこだ。どこへ。
Mrs.は問題なく召喚出来る。いやそれどころか、異能が漲っている。いつもより昂って昂って、身体から溢れそうなほどに。
それだけに、違和感。疑問。智尋の姿がないのに、どうして。智尋以上に桃色のMrs.と波長が合うパートナーはあり得ない。つまり彼女は傍にいる。なのに姿はない。周辺を探しに探したが、どこにも。
何故。胸に溜まっていくこの不穏の塊のような嫌な予感は、一体何なのだ。
「も、桃色。その異物は……っ」
沙希が声を出し、そして言い淀んだ。だが続きを問う隙はなさそうだ。
巨人の異物が両腕を振りかぶった。虫でも叩き潰すように桃色たちを殺そうとしている。肌がピリつくような殺気。
「Mrs.、阿修羅が如く」
桃色が自分の胸の前で両手を合わせると。
その背中から四本のMrs.の黒腕が現れる。大きさは巨人のそれと同等。手数はこちらの勝ち。何時でも来い。
だが異物は。叩きつけようとした両手を、ぴたりと止めた。強張っていた桃色の身体もがくんとなる。
(何……? ブラフ? 別の攻撃でもしようとしてる?)
警戒は解かない。が、攻撃は来ない。巨人はぴたりと桃色の前で動きを止めていた。
その真っ暗なのっぺらぼうのような顔が、じっと桃色を見下ろしている。邪気は止まないが、その視線。目などないはずなのに感じたそれは、覚えがあった。ありすぎた。
「え……?」
目の前の異物。いつもより溢れる自分の異能。そして禍々しさに入り混じった、馴染みのある雰囲気。ずっと傍で、ずっと感じていた。間違えるはずがない。
「……智尋?」
呼ぶ。異物に対して呼びかける。正直巨大な影のその姿に、愛しいその名前の面影はまったくない。でも間違いない。
これは。この子は、智尋だ。
名前を聞いて、動きを止めていた異物は微かに身じろいだ気がした。確信。認めたくなかったが、認めざるを得ない。
異物は桃色たちを叩き潰そうとした、その手をゆっくりと引っ込めた。そしてその姿は、少しずつ灰が散っていくように頭の先から崩れていく。
身体が消失していくわけじゃない。智尋の異能の気配は消えていない。おそらく身体を再構築している。ずっと隣で彼女の異能を見て感じてきた。
「智尋ッ! 待って……!」
彼女の異能が移動している気配がする。その方向も位置も感じ取れる。共鳴しているのだ。彼女は逃げたのか。
桃色のことに気づいたのかもしれない。異物になっても彼女の意識がある。それが激しく桃色の感情を揺さぶった。
Mrs.の手。いくつも召喚して飛び移る雲梯のように桃色は素早く智尋の気配を追いかけた。
「桃色!」
沙希の声が後ろから聞こえたが、止まれない。……ごめんね、サッキィ。ツックー。今は智尋と、会いたい。会わなければ。
どうするつもりなのだろう、彼女は。どうしたらいいのだろう、私は。彼女は異物と化した。それは曲がりようのない事実。
(……何で。何があったの、智尋……っ)
智尋を追いかけながら、桃色はもどかしい焦燥感に駆られている。思い出せないのだ。何があったのか。
私たちは双子の異能者と戦っていた。そして彼女たちを戦闘不能にした。……それから? それからどうしたんだ。
「ッ……!」
頭が痛んだ。記憶が過る。欠けていた空白に、怒涛の勢いで流れ込んでくる。
(……私が殺した。あの子たちを)
思い出す。その瞬間を鮮明に。叩き潰したMrs.の手から伝わる、柔らかなあの不快な感触まで。
それから、私はその後。記憶が数珠繫ぎになっていく。
助けようとした人達に、私は殺された。囲い込んで武器で殴られ、頭を思い切り踏み潰された。ひゅっ、とその瞬間が過って息を呑む。
では何で、死んだはずの自分が五体満足で生き残っていて。智尋は、異物になったのか。答えなど、明白だった。
(私のために、智尋は……っ)
唇を噛みしめる。智尋の異能の気配を追う。追い続ける。彼女と会う。会わなくては。
もしかしたら。まだ彼女の中に自我がほんの少しでも残っていたのなら。桃色に対する攻撃をやめて逃げたのは、その可能性があるからじゃないのか。
――何とかして、神様。奇跡なら、今この場で起こして。私達はずっと、頑張ったんだから。救われる権利くらい、あるはずだろう。
Mrs.の手に掴まったまま、ぴたりと桃色は止まる。
背の低い雑貨ビルが立ち並ぶエリア。その中心に、浮かぶ黒い人型の影。智尋と同じ背格好。もう疑いようもない。
桃色はMrs.の大きな掌に乗り、彼女と同じ視線に立ちつつ近づいていく。
待ち伏せされていたとか、油断させるための罠などの可能性だって過ぎらなかったわけじゃない。彼女はもう、異物なのだ。そうなった人達は何十人も見てきた。
でも、それでもいい。彼女に拾ってもらった命だ。彼女になら、奪われたって構わない。それに今は、信じたかった。彼女を。
「ねえ。……智尋、なんだよね……?」
間近な距離。手を伸ばせば届くほど近く。傍まで言って、異物に問いかける。
彼女はじっと、桃色を見ていた。目はないが、わかる。その視線はやっぱり智尋だった。
わかるに決まっている。まだ少ししか生きていない人生の半分以上。彼女と一緒なのだ。自分のこと以上に彼女を、知りつくしていると自惚れている。自惚れて何が悪い。
彼女は目の前の桃色を認知しているのに、攻撃してこない。静止している。ただこちらを見つめている。
今の彼女なら、指一本動かせば桃色など簡単に殺せるはずなのに。そうしない理由。わかり切ってるだろう、そんなの。
この異物にはまだ、智尋の意識がある。桃色を目の当たりにしたことでそれが少しでも、目覚めたのかもしれない。
それなら今の彼女も、治せるかもしれない。失わずに済むかもしれない。もう今の姿に彼女の面影はなくとも。傍にいられるなら何だっていい。生きていて、欲しい。
(そんな些細な希望くらい。抱かせてくれてもいいだろ、神様)
祈るような気持ちで、彼女の傍に。歩み寄る。もう手を伸ばさなくても触れられる。彼女は動かない。禍々しかった異能の気配さえ、今は感じなかった。彼女に敵意はない。ただ桃色だけを見つめている。
「……智尋。ごめんね。ずっと一緒に、いてくれる……?」
──ずっと一緒にいて。震える声。堪えきれず涙が溢れた。マスカラの混じった、黒い涙。もういいんだ。泣いていいんだ、私。彼女と一緒にいられるなら。
「……モモイロ」
彼女を抱きしめようと更に傍に寄り添った時。確かに声が、聞こえた。歪んでいたけれど、確かに彼女の声だった。驚いて、動きを止め、彼女を見上げる。
「……ゴメンネ」
そう声を発した彼女は、優しくこちらに腕を伸ばして。
桃色を突き飛ばした。消えるMrs.の手。桃色の身体は宙を舞い、落ちていく。
「智尋……?」
上へと遠ざかっていく彼女。それでも手を伸ばそうとした瞬間。
智尋が撃ち抜かれる。四方八方から。弾丸が注ぐ。注ぐ。注ぐ。弾丸の雨、雨、雨。銃声銃声銃声。鳴り止まない。うるさい。耳が痺れる。
目を見開いた桃色の背中は、固くて柔らかなものに受け止められた。えながの蛇足だ。その背に受け止められた。
だが桃色の目は上空の智尋に釘付けになっている。
数多の銃弾を受けた彼女の身体は、腕も、足も、バラバラと崩れて灰のように崩れていく。
そして彼女の風穴だらけの頭も胴体も、ひび割れた赤黒いコアと共に崩れて風に攫われていく。
修復の異能が発動しない。彼女は。智尋は、自分の身体が壊れていくのに身を任せているのだ。
「……なんで……?」
桃色は呟く。智尋の異物は、完全に塵と消えて跡形もない。彼女の気配も、消えた。この世界から。もう二度と、彼女は修復されることはない。
桃色にもわかっていた。周りの雑貨ビル。こちらを取り囲むように配置されていた、異能対策部隊の連中。
今智尋を屠ったのは、奴らの弾丸だ。そして今それは桃色を標的にしている。おそらく、下にいるであろう沙希と、えながのことも。
智尋は庇ったのだ。桃色を。巻き込まないように。最後の最後まで。
「なんで私たちばっかり、傷つけるの……?」
涙は枯れていた。ただ、ただ、虚空が広がっていく桃色の胸の内側には。
研ぎ澄まされたような鋭い怒り。殺意が、ひび割れていくように満ち溢れていった。
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