第八話「遭難」②


  3


 空っぽになった智尋の身体が、地面に倒れる音で我に返る。

 その場の空間を切り取ったような黒い人型の影は、もう立ち上がっている。いや、沙希たちの前に聳え立っていた。智尋と変わらない体躯だが、あまりにも圧が凄まじい。

 それは空を見上げていた。見上げているのだろうと思う。おそらく顎先と思える影が、突き出していたから。

 沙希たちは動けない。その場に異様な空気が満ちていた。身じろぎでもして、「それ」の気を引けば、始まってしまう。全ての終わりが。そんな重圧が、沙希たちを固まらせていた。

 未来視さえ働かせられない。異能の気配を察知して、今にも影が動き出しそうだからだ。

 ゆっくりと、沙希はえながの方を見た。えながもまた沙希を見て、目を合わせてくれた。お互いにタイミングを探る。共に動き出すタイミングを。

 こういう時の段取りは決めていた。五秒。それで同時に動く。とりあえず回避を優先。全力で逃げる。

 人生の中でもっとも長い五秒。一、二、三……。足のバネを働かせようとした瞬間。

 影の首が、こちらを向いていた。気配もなく、いつ向こうが首を動かしたのかわからなかった。

 真黒な顔は平たく、目などの器官は確認できない。でもわかる。見られていた。視認、された。

 沙希とえながは同時に飛びのく。瞬間その場に鉄柱が生えてきた。何本も無作為に、剣山のように。

 標識だった。様々なシンボルのそれが次々と地面から飛び出して逃げる沙希たちを追ってくる。動くのをやめたら全身を貫かれる。逃げ続けろ。

「蛇足、引っ張り上げろッ!!」

 えながの声が聴こえた。と同時にぐんと腕を引っ張られて沙希の身体は空高く飛び上がっている。

 蛇足の尻尾が巻き付いて沙希を引っ張り上げてくれていた。えながは。もう一匹の蛇足の背に乗っている。沙希も未来介入した自分の腕に引っ張り上げてもらって、蛇足の背中に乗り込む。

「えなが! このまま智尋くんを引き寄せよう! 桃色から離してあげないとッ!」

「わかっておる! 油断するなよ!」

 沙希を乗せた蛇足が、ぐんとスピードを上げて前に飛ぶ。嫌な感じがした。後ろを振り向く。

 影が。浮かび上がって並んで飛ぶ沙希たちを見ていた。腕を。ぐっとこちらに向かって差し向けてくる。

「えなが! 来るッ! 思いっきり右にッ!!」

 未来を視た。沙希が叫ぶ。途端沙希とえながを乗せた蛇足二匹が、舵を切り全速力で右に飛ぶ。

 巨大な影が掛かってきた。急に夜が訪れたのかと思うほど。見上げる。そして息を呑んだ。

「マジか……」

 巨大なビルが。上空で修復されて、今まさに沙希たちの上に落ちようとしていた。蛇足が更に速度を上げる。

 ビルが落ちてきた。その射程の外に。早く早く早く。押しつぶされる。影が濃くなり、今にもつぶされるかと覚悟した時。

 ぎりぎりで沙希を乗せた蛇足がビルの落下する範囲から抜け出してくれた。えながも無事だ。それを確認するとほぼ同時だった。

 凄まじい地響き、轟音。爆撃でも起こったかのような土埃が一瞬でその場を埋め尽くした。

「えなが! これ!」

 隣を飛ぶえながに、対策部隊から密かにパクったゴーグルを放る。彼女もそれを受け取って装着した。これで視界は良好。だけど。

 沙希の未来視、自動危険探知が発動。やばい。思った以上にやばすぎる。智尋の異物は、これまで遭った何よりも規格外だ。

「えなが! 上ッ! すぐ真上に飛んでッ!」

 沙希の声ですぐえながは蛇足を真上に飛ばす。沙希は必死に掴まって振り落とされないようにした。

 土埃が振り払われる。巨大な腕が、手が。振るわれた。凄まじい風圧にさすがの蛇足もバランスを崩しかけた。

 智尋の異能だ。先ほどは智尋と変わらないほどの体躯だったのに、今は手だけで見上げるほどだった。文字通り巨人だ。

(修復か……! 自分自身をデカく作り直したんだ……!)

 修復の異能で、自分自身の体を大きく構築し直したのだ。たぶんどんな形にも大きさにも、無尽蔵に変化できる。数十倍に膨れ上がり、制限もなくなった異能の真価。それがこんな形で発現されてしまうとは。

 これは、何とかしないと。本気で世界が壊れる。でも殺せるのか、あたしたちは。智尋くんを。共に時間を共有した仲間を、親友を。

「沙希! これはもう智尋じゃない! こいつは異物じゃ! 割り切れ! 無理だろうが、そう割り切るしかないんじゃ!」

 えながの叫びが聞こえる。言った彼女が一番揺らいでいる気がした。でも自分にも言い聞かせるために、彼女は言ってくれたのだ。

 智尋は自分を止めてくれと言った。誰かを傷つける前に。誰かの生活を脅かしてしまう前に。

 このままでは彼女は、最愛の人でさえ殺してしまう。から、止めないと。彼女自身が、そう望んでいるんだから。必死に沙希は言い聞かせる。

「蛇足⁉ どうした⁉」

 えながの声。途端、がくんと視界がぶれた。

 落ちる。落下する。沙希たちの乗っていた蛇足が、突然消えた。高く舞い上がっていた沙希たちはそのまま落ちていく。

「沙希ッ! やばい蛇足が出ないッ! どうなっとる⁉」

「……智尋くんだ! 智尋くんの異能が蛇足に干渉してるッ!」

 異能の波長さえ、作り変えられる修復。それでえながの異能に干渉して搔き乱し、蛇足の召喚を阻害してきたのだ。

「くそッ、落ちるぞ! どうする⁉」

「待って! 介入する!」

 沙希は目を閉じ意識を研ぎ澄ます。掛かる重力に乱されるな。集中。

 さすがに一度に二つの異能には干渉出来ないようだ。沙希の未来視は鮮明になっていた。十五分。いやもっと先。

 自分たちは地面に叩きつけられている。無視。探れ。何かないか。何か。未来を、変えろ。掴み取れ。

「……あったッ!」

 沙希は手を伸ばす。その腕が第一関節のところで消える。何かを掴む確かな手ごたえ。引っ張り出す。

 未来介入。自分たちが地面に叩きつけられる数秒前に。異能対策部隊の遺体があった。そこから背負っていた装備を借り出したのだ。

「えなが、あたしの体にしっかり掴まって!」

「お、おう……! おいそれは……!」

「未来から貰ってきた。今に引っ張ってこれるようになったの」

 沙希は落ちながらそれを背負い、ベルトをちゃんと装着する。使ったのは過去に一度だけだが、身体が覚えていてくれて助かった。

 ぎゅっと身体にしがみついてきたえながを、ぎゅっと抱きしめ返す。そして背負ったリュックのようなそれの、紐を思いっきり引っ張った。

 ぱっと沙希の頭上に開く、大きな傘。途端にぐんと沙希たちの身体が減速した。パラシュートだ。

「助かった。すまん、沙希。だが今に持ち出すその力、あまり多用はできんのじゃろう?」

「ん。さすがに今はやばい。結構負担デカいし、今全然異能補給とか出来ないもんね。……でも、あんまり出し惜しみもしてられないかも」

 次の攻撃が来る。出来るだけ時間を稼ぎたいが、それすらもきつそうだ。

「えなが。衝撃に備えて」

「……おい、マジか。やばいぞ!」

 沙希たちから離れた土埃の濃いところから。こちらに向かって何かが飛んでくる。

 道路標識だ。鉄のポールが何百本も槍のように突っ込んできている。まるで槍の嵐だ。

「耳塞いでッ!」

 背中に背負っていた自動小銃を取り出し、レバーを引いて引き金を引く。撃つ、撃つ、撃つ。全部数秒先に送り込んだ。

 不快な金属音を打ち鳴らしながら、標識たちが未来介入した銃弾で弾かれて軌道を変える。だがさすがに全部は無理だ。空中じゃ正確な射撃は出来ない。

「しっかり掴まっててよ、えなが。落ちるからね!」

「わかったッ!」

 ぎゅっとこちらに身を寄せたえながは、一心に沙希を信じてくれているようだ。助かる。

 標識たちが沙希たちの身体ぎりぎりを通り抜けていく。しかしパラシュートは穴を開けられた。その時には沙希はベルトを外し、パラシュートを脱いでいた。

 落ちる。重力が急速に地面へと引き寄せてくる。もう少し。もう少し。

 背の高いビルが見えた。その屋上僅か下くらいまで来た時、沙希は撃ち放つ。フックショット。パラシュートと一緒に貰っておいてよかった。

 杭が上手く刺さり、沙希たちは何とかその屋上に着地する。お互いに顔を見合わせて息をつく。無傷なのが奇跡だ。

 だが二息はついている暇はなさそうだった。凄まじい風圧。土埃と一緒に吹き飛んでくる。沙希はそれに巻き込まれ身体が浮いた。やばい。

「沙希ッ!」

 屋上の入り口を掴んだえながが、沙希の手を捕まえてくれた。そのまま建物の陰に連れ出してくれる。そこで風が通り過ぎるのを身を低くして必死に待った。空調設備の室外機などが軋んだ音を立てて剥がれ飛んでいく。何が起こったのだ。

 風が収まる。土埃は完全に吹き飛ばされていた。沙希たちは屋上の入り口の陰から、風の来た方角を覗き見た。

 巨大な影。周りのどの建物より背の高い今いるビルよりも、更に大きくなった影が見えた。今の風圧は。奴が腕を振るって土埃を晴らしたのだ。何て力。

「えなが、耳塞いで。鼓膜やばい」

 二人で素早く耳をガード。途端に、影が大きく吠えた。咆哮でびりびりと空気が痺れ、地面が揺れガラスが砕ける音が折り重なる。

 怪獣だ。怪獣そのものだ。もうそれは智尋ではない。面影すらない。桃色とはかなり距離が取れているみたいだ。巻き込まずに済んでよかったが、それも時間の問題。

「……どうすりゃいいの」

 沙希は途方に暮れてしまう。智尋だからと躊躇している暇はない。だが、どうしたら彼女を止められる。自分たちの身を彼女の攻撃から守るので精いっぱいだった。

「……策はある。だが、めちゃくちゃ賭けじゃ。悪いな、沙希。かなり無茶をするぞ。蛇足が使えそうじゃ」

 えながが立ち上がって言う。沙希の未来視は妨害されていた。だがそのおかげで、彼女は蛇足は召喚できる。

 そしてえながは、手を構える。小指を折り畳み、微かに折り曲げた八本の指を合わせた初めて見た印だった。

「──八岐大蛇(やまたのおろち)」

 巨大な人影の前。空間を切り取って現れた複数の蛇足。

 まずは腕。素早く絡みつく。引き剥がそうとしたもう片方も、別の個体がとぐろを巻いて拘束。

 そうやって磔のように腕を広げた影、その身体。残り六体の蛇足が、至るところに牙を立てた。

 頭部。噛み砕く。えながに迷いはなかった。だが。

 まだ終わらない。こちらを威圧するような鋭い智尋の異能の気配が、消えていない。

 頭部のない異物が動いた。腕に絡みついた蛇足を振り払い、もう片方の腕の蛇足も纏めて引き千切った。

「っ……!」

「えなが……!」

「平気じゃ。ちょっと痛いだけ。この術は私のとっておき。知っとるか。神話の八岐大蛇は、いくら首を引き抜こうが生えてくる」

 えながが小指以外の指を、前に突き出すように蠢かせた。

 蛇足の尻尾は見えていなかった。そしてそれが今、空間を突き破って現れる。

 八つの首、八つの尻尾を持つ、規格外なスケールの蛇。その全長は、巨人の影すらも圧倒する大きさだった。高いビルにいる沙希たちさえも見上げてしまう。

 だが、智尋の異物もまた規格外。噛み砕かれた頭部が瞬時に修復する。

 そしてえながの八岐大蛇と同じ大きさに。瞬く間に自分の身体を巨大化させる。一秒の隙もなく、八岐大蛇に掴みかかる。

「ちっ、まるで怪獣大戦じゃの……! 出し惜しみできん、全力で行くぞッ!」

 えながが複雑に両手の指を動かし、蛇の首たちに異物の腕をかわさせる。そして突き破るように牙を剥き突進して、影の身体に風穴を開けた。

 だがそれも、すぐ修復される。不死身なのか。ならば心臓の部分にあるコアを。えながも狙ったようだ。指が動く。

「なっ……⁉」

 消えた。異物が。突進した大蛇の八本首が空を噛む。

「来てるッ! えなが!」

 未来視。異能阻害を何とか破れた。えながを庇うように沙希は彼女の前に立つ。

 ビルの下から。吊り上がるように素早く。人のサイズに戻った異物が浮かび上がってきた。それが腕を突き出す。

 途端沙希たちは。ガラス片に囲まれている。まるで尖った透明な牙。大きな怪物の口に放りこまれたみたいだ。そしてガラス片が迫る。

 沙希はもう撃っている。自動小銃。未来介入で、全部撃ち落とした。

「……ごめんね、智尋くん……っ」

 ノイズまみれの中、必死に探ったもの。未来から持ち出したもの。

 ロケットランチャー。構えて沙希は、異物に向かって撃ち放つ。

 確かに着弾した。ロケット弾は炸裂した。煙が晴れて、異物はそこから跡形もなくいなくなっていた。

「沙希、まだじゃ……!」

 えながが言う。そう。まだ智尋の異物の異様な気配が消えてない。そして。

 ぬっと下から姿を見せたのは、異物の巨大な頭。屋上の縁を大きすぎる手で掴んで、立ち上がってきた。

「どうしたら、止められるの……?」

 初めて沙希は臆した。本当に無敵かもしれない。今まで戦った異物の戦闘経験は何も役に立たない。智尋の異物は、もう沙希の想定の範囲を超えすぎている。

 今にもこちらに掴みかかりかけた異物。それを、何かがぶっ飛ばした。

 八岐大蛇。えながが全身で体当たりさせたのだ。

 影が横倒しになる衝撃。地震だ。倒れかけた沙希を、えながが抱き留めてくれた。

「止めるんじゃ沙希。約束したぞ、智尋と。私たちで、止めるんじゃ」

 迷いながらも、戸惑いながらも。えながはそう言って沙希を支えてくれる。

 沙希はお礼を言ってから、自分の足で立ち上がった。自動小銃を。空のマガジンをぶん投げて、リロードする。レバーを引いて装填。

「……うん。止めよう。私たち二人で」

 異物が起き上がる気配がした。


  4


 どこかで誰かが叫んでいるような気がした。

 それはよく親しんだ声。智尋のもののようにも思える。必死にこちらに呼びかけている。呼んでいるんだ、私を。

「智尋……?」

 目を開く。ビルとビルの隙間から、赤黒く染まり始めた夕闇の空が見えていた。外だ。

「あれ、私……? どうしたんだっけ……?」

 桃色は起き上がる。何で野外で、ベッドで眠っていたのだろう。丁寧に掛けられていた掛け布団を払いながら、地面に足をつく。靴は履いていた。

 そしてベッドの周りには。ドーム状に結界が張られていた。どうして、と思って桃色はぎょっとする。

 桃色のいる場所の外、ビルの路地裏の向こう、表通り。ごっそり道路がなくなっていた。野ざらしになって折れた水道管から、水が垂れ流れる音が聞こえている。何があった。何が。

 桃色はベッドから離れて、おそるおそる結界に触れる。すると結界は、跡形もなく崩れ去った。元々内側の桃色が触れたらそうなるように設定されていたのだろう。

 こんな風にしてくれるのは、智尋しかいない。彼女が守っていた。桃色を。

「……智尋。どこにいるの……?」

 桃色はMrs.の手を借りて浮かび上がる。彼女の姿はない。だが何故か、Mrs.は制限なく出すことが出来そうだ。共鳴出来ている。だけれど彼女の姿だけが、ない。

 膨らみ続ける嫌な予感に後押しされるように。桃色は智尋を探し始めた。

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