第八話「遭難」①

  1 ~合流:姫沼沙希、九十九えなが~


 異様な静けさが、その場に満ちているような気がした。

 大通り。車はあちこちに転がって、何故か大型トラックが突き刺さるように地面を陥没させていた。

 街灯や信号機は倒れ、ビルの外壁はごっそりと抉れてその欠片が歩道を破壊している。まるで巨大な怪獣が暴れまわった後のようだ。

 そして、遺体。ところどころ地面に倒れこんでいる人たちは、既に夏の暑さのせいで腐臭を漂わせ始めていてひどい臭いだった。手を合わせて回りたいが、今は出来そうにない。申し訳ないけれど。

「……ここも発症者が暴れたんじゃろうな。沙希、宝石月たちと合流するのは視えたか?」

 やや言葉を選ぶようにして、えながが尋ねてくる。彼女も考えてしまっているのだろう。

 ……もしかしたら。天星は異能対策部隊に、刺客も差し向けたと言っていた。沙希たちが学園で遭ったような事態に、桃色たちも遭遇したとしたら。

 考えたくない。でも、未来視が。どうしてもその不安を煽るのだ。

「……わかんない。さっき十五分後を探ったけど、途中でぶっつり途切れた」

「また沙希と相性の悪いタイプの刺客を、天星が送り込んできているのか」

「だと、いいんだけど」

 沙希は拳銃を握る手に力を込める。今度は予感だ。嫌な予感がした。そして未来に近いせいか、沙希のこういう勘は大抵の場合当たってしまう。

 桃色と智尋の位置情報の反応は、この先もうすぐだ。そして、沙希の未来視が途切れた場所もその辺り。

 転がった車やビルの欠片など、遮蔽物になっているそれらを通り抜けながら、沙希たちは慎重に進む。刺客からの不意打ちを警戒していた。そして、それ以上に最悪な事態を。

「なっ!? なんじゃこれは……!? 人、なのか……?」

 ふとえながが驚いた声を上げる。沙希も息を呑んだ。足元に転がっているそれを。

 肉の塊、のように見える。巨大なヒルを連想させるそれは、よく見れば手があり足があり、目があった。どれもめちゃめちゃなところに配置されていて、あるというより生えているという感じだ。

 人の形は保っているが、全身から手が生えた者もいた。着ているのは異能対策部隊の装備だ。両肩から生えた自分の腕に締められて窒息死したらしい。腐臭。……目眩がした。

 ほとんどが対策部隊の者たちだったが、中には一般人らしき人も混ざっていた。

 おそらく二人の人間が合成されたのだろう。四本の腕、足、それぞれの器官が二人分ずつ、身体の至るところにめちゃくちゃに配置されている。

 もうほとんど人の形をなしていないものもいた。身体の構造を変えられたショックでそのまま亡くなったのだろう。

 沙希が今まで目にした現場の中で、一番凄惨な有り様だった。

 そして、子供らしき小さな肉塊。生えている手には、何故か血まみれのガラス片を握りしめていた。……こんなに小さな子まで。吐き気が込み上げてくる。

「間違いなく、異能だよね……。これ使った奴と、桃色と智尋くんは多分遭遇して……」

 沙希かそこまで言って、不意に。

 未来が、視界の中に飛び込んできた。今までブラックアウトしていた部分が唐突に意識を駆け抜ける。

「なっ……智尋くん……? 嘘、でしょ……?」

「どうした、沙希? 沙希、大丈夫か⁉ 何が視えた?」

 向かい合ったえながが、ぎゅっと沙希の両手を掴んでくれる。そうしてくれていなかったら、そのままその場に膝をついていたかもしれない。

 眩暈が強まった。多分、精神的な負荷と、動揺。

 考えていたよりずっと酷いことが、起こった。そして起ころうとしている。これから、自分たちの前で。

「え、えなが。智尋くんは……」

 言いかけて気づく。どうして今、未来が視えたのか。

 智尋だ。彼女が今まで堰き止めていた。沙希たちがこの惨状を、人が人の形じゃなくなって絶命しているこの状況を見てから、全てを理解できるように。

 彼女の異能は修復。自身の異能の波長さえも変化させられるのか。いや、それが出来るくらい強まってしまったのだ。今。

 そして彼女は、沙希に伝えている。未来に介入しろと。

 自分を止めろと、彼女は言っているのだ。

「っ……!」

 沙希は銃を向ける。何もない空に向かって。日が落ちかけて、夕暮れの橙色に染まりつつあるその景色に向かって。

 撃たなければ。そうしないと行けないのはわかっている。この場で起こっていた惨状以上の、東京でまだ留まらない惨劇以上の酷い状況になる。

 わかっている、けれど。

(撃てるわけないでしょ、智尋くん……っ)

 沙希は銃を下ろし、大きく息をついた。手が震えていた。息も上がっていた。どうしたらいい。どうしたら。眩暈は強まるばかりだ。

「……沙希。まさか、宝石月と神木は」

 えながが少し迷ったように口にする。沙希の様子から、彼女も察してしまったのだろう。

「……直接聞こう。智尋くんから。その後どうするかは……二人で、決めないと」

 沙希は拳銃を太もものホルダーにしまう。えながは頷いて、再びぎゅっと沙希の手を取って隣に並んでくれた。

 その時が来たら。あたしたちは決められるのだろうか。わからない。わからなくなりそうだ。何もかも。

「……やあ。来てくれたんだ。でも、ごめんね。ボクは行けそうにないんだ」

 智尋の声がした。


  2


 横たわったバスの陰から、智尋が姿を見せた。

 彼女は、桃色を両腕で抱きかかえていた。どこからか持ち出された上着で包まれた桃色は、目を閉じて眠っているような穏やかな表情だった。

 一瞬ぎょっとしたが、桃色に掛けられた上着が呼吸に合わせて動いているのが見えた。生きている。それだけでほっとした。

「大丈夫だよ。桃色は眠っているだけだ。でも、酷いことをされた。そのせいで彼女は、傷ついてる。ボクが、身体の傷は全部治したけれど」

 眠りについた腕の中の桃色を眺める智尋の目は、温かい。そしてひどく寂しげな色も交えているような気がした。

「失礼」と智尋は傍の建物の壁際に桃色を運んでいく。そして修復させたベッドを展開して、彼女をそこに寝かしつける。

 布団まで丁寧にかけて、髪を撫で、額にキスを落とす。

 そして沙希たちを振り返った智尋の頬に、黒く光るひび割れが起きているのがわかった。

 それで沙希とえながは察してしまう。異物化の前兆。

 ひび割れが目に見えるようになるのは、重度の証。まもなく異物になる兆し。

「……混乱を起こした一般人がね、桃色を襲ったんだ。桃色は、自分が守ろうとしていた大切な人たちに、殺された。それをボクはどうしても――許せなかった」

 ――あと、前から興味あったんですよね。人をめちゃくちゃな形に作り直せるのか。

 いつか彼女が言った言葉がよぎる。暗い影を宿した彼女の瞳は、もう笑っていない。ぞくりと、背筋が寒くなった。

 試したのだ、彼女は。桃色を襲った人たちに。危機に晒した対策部隊の連中にも。それが今、地面に転がる人の形を失った人達だ。

「それでボクは、賭けてみることにしたんだ。ボクの異能の限界に。失われた命を、修復出来るか。……ボクは絶対、桃色を失いたくなかった」

 ――たとえボクが、どうなろうと。

 ちらりと離れた場所にいる桃色の寝顔を見た智尋。その時だけ、彼女は安らぎを覚えているみたいだった。

「……神木。それは禁忌じゃ。人智を超えているぞ……」

 呆気に取られたようにえながが呟く。彼女はわかっているのだ。智尋の言葉の重さに。

 智尋は。にっこりとこちらに笑いかけてみせた。

「でも成功したよ。思ったよりあっさり、桃色を連れ戻せた。……でもそうなんだ、九十九さん。いや、えながちゃんって呼んでもいいかな。ボクは禁忌を侵した。だから、罰を受けなければならない」

 パキリ。ガラスに亀裂が入るような音が静まり切ったその場に響き渡る。

 智尋の顔の黒く発光するひびが、更に増える。頬の下から、額のところまで。目まで枝のような線が届いて、瞳が赤黒く光り始める。袖の下の腕も、スカートの下の足も、ひび割れていく。

「……君たちには頼みたくはなかったけれど、仕方ない。もうボクも、時間がないみたいだ。ごめんね──殺してくれる?」

 智尋が自分の額に人差し指を当て、沙希とえながに微笑んだ。まるでこちらの不安や迷いを、受け入れてそのまま掻き消そうとしているみたいに。

 異能に「開花」する直前の異能者は、自分の異能で死ぬことは出来ない。そして羽化する蛹のように身体が硬化し、普通の銃弾や爆発で自殺も出来ない。

 異物と化してしまえば普通の武器は通るようになるが、今はダメなのだ。誰かの──自分たちの異能で、彼女を殺さなくては。彼女は人のまま、死ねなくなる。

「ち、智尋、くん……っ」

 全身が震える。冷汗が頬を伝う。ホルダーに収めた拳銃に手を掛けたが、力も入らずまともに握ることすら出来そうにない。

 そんな沙希の肩を、えながが支えてくれる。そんな彼女の手もまた、微かに震えていた。

 えながは智尋を見る。その眼差しは憐れんでいるようにも、ただ打ちひしがれているようにも見えた。

「……バカ者が。私たちにそれを言うのか。できるわけが、ないじゃろうが……ッ!」

 振り絞るようにそう言った彼女も、必死に手で蛇の首の印を作り蛇足を呼び出そうとしている。でも、しなかった。出来るわけがなかった。

 今目の前にいるのは、友人なのだ。この世にたった一人の、かけがえのない。一緒の時間を、一緒の苦難を、共にした仲間だ。

 智尋との記憶が頭の中を駆け巡る。初めて話した時、やさぐれていた沙希にも優しく接してくれたこと。教室で笑い合ったこと。七竈先生に一緒に怒られたこと。カフェで桃色も一緒に、四人で初めて遊んで談笑したあの日を。

 殺さなければいけない。じゃないときっと、状況は今よりもっとひどくなる。異物に開花すれば理性は失い異能は数十倍に膨れて、ただ破壊だけを求める怪物になる。

 でも、今の彼女を。殺すなんて、無理だった。だって彼女は最愛の人のために、自らの全てを投げ売ったのだ。

 そんな彼女を私たちの手で殺せなんて。あまりにも残酷過ぎませんか、神様。応えない声にも縋りたくなる。

 ふと、智尋の笑みが深くなった。その優しい笑みは、確かに笑みなのに。今まで見た彼女の表情の中で、一番哀しげに沙希の目に映った。

「……そうだね。ごめん。ボクも立場が逆だったら、絶対に君たちを殺せない。……だから、本当にごめんね。これからすごく迷惑を掛けてしまう。ボクがもっと罪のない人を殺してしまう前に。その人たちの生活を壊してしまう前に。止めて」

 苦しそうに顔を歪めた彼女はその場に膝をつく。見えた背中。黒い光が透けて溢れ出していた。

 彼女の傍に寄ってその身体を支えてあげたい。でも近づけない。彼女から溢れ出す禍々しい「気」が、沙希たちをその場に根付かせていた。息苦しささえ覚える。改めて修復の異能の強力さを、智尋自身の強さを思い知らされる。

 智尋が顔を上げた。その眼差しは、もう赤黒く発光して沙希たちを捉えていた。

「桃色をお願い。ボクに絶対殺させないで」

 絞り出した最後の言葉。そして彼女は。

 智尋の背中の黒い光が一斉に溢れ出して、大きな殻が破れるような音が響いた。

 蛹から蝶が羽を広げて浮かび上がってくるかのように。

 光さえ通さない真黒な人型の影が、裂けた智尋の背中を突き破って立ち上がった。

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