閑話幕間その8『ヤなことばかりのこんな世界でも』

 頬に衝撃。一体何が起きたのか一瞬わからなくて、すぐわかった。

 引っ叩かれた。しかも顔。最悪。赤らんだ跡がしばらく引かなそうだ。

 一花は頬を押さえて目の前の女を睨む。女もまた、一花と、そしてすかさず間に割り込んでこちらを守るように立ちはだかった双葉をも睨んでいた。

「何するん、ですか。あたしら、あなたを助けたんですけど」

「一花の綺麗な顔叩きやがって。恩とか礼儀とか、ないんですか大人のくせに」

 一花が放心しつつも言い返して、双葉も唸るように言う。

 異物と化した人が暴れていた。その場はもう地獄を体現したかのような惨事だった。異能を発症した瞬間。そして、異物となった時。その場にいた人はおそらく、ほとんど死んだのだろう。あちこちにほとんど原型を留めてない人だったものたちが散らばっていた。

 一花と双葉が出動要請を受けて駆け付けた時には、発症者は開花して、異物になっていた。近くのビルは崩壊し、避難誘導に当たっていた警官も何人も下敷きになったらしい。

 異物になった発症者は異能が何倍にも強化される。一花と双葉は必死に戦った。ついでにその様子を遠くに設置したスマホで収めつつ、最後には倒壊したビルを逆再生、再生して下敷きにして何とか倒したのだ。死ぬかと思ったけれど、お互い無傷で、ちゃんと確認し合って笑い合った。

 そんなほっこりとしたムードだったのに。不意に駆け寄ってきた女に引っ叩かれて横槍を入れられた。

「……何でもっと、早く来てくれなかったの。私の夫が。子供が。みんな、いなくなっちゃった……っ」

 こちらを睨んでいた彼女の目がじわりと潤み、涙が溢れる。彼女はその場に跪いて泣きじゃくり始めた。

 一花と双葉は。何も言えなくなる。どうしていいかわからず、ただ立ち尽くすしかなくなる。視線を合わせて、気まずさを共有した。

(……だって、仕方ないじゃん。あたしたち、神様じゃないんだから)

 きっと双葉も同じことを思っていただろう。

 全員は救えない。しかもそれだってごく僅かだ。それでもあたしたちは頑張った。命がけで戦ったのに。それで救えた人たちだってきっと大勢いたのに。

 ……先に泣くなんてずるい。まるで、こちらが全部悪いみたいじゃないか。

「来るのがおせぇんだよ。ったく、化け物退治はお前らの専門だろうが。しっかり仕事しろよ、化け物どもが」

 現場を去る時も。規制線の前にいた警官にそう吐き捨てられた。

「……ふざけんなよ。誰のおかげでお前ら生きてられると……っ」

 双葉が怒りを露わにし、腕を振るおうとする。

 それを一花は腕を掴んで止めた。彼女は不満そうにこちらを見たが、すぐはっとなって俯いた。一花が、彼女とまったく同じ感情を噛み締めていることに気づいたのだ。

『おい、何をやっている。一般人に手を出したら即処分だぞ。面倒は掛けるな。さっさと帰還しろ』

 腕のデバイスから声がした。一花たちだけの一年の担任、兼監視役。いつも気だるそうで、授業もほとんど真面目にやっていない。ただ与えられたことを適当にこなすようなつまらなそうな男だ。一花も双葉も。こいつが大嫌いだった。

「うっさいな。これからあたしら、アイス食べに行くから。いいでしょそんくらい。一仕事したんだからさ」

『おい、バカか。許可のない外出は罰則対象で――』

「あー、電波悪くて聴こえませーん」

 一花はそのまま通信を切ってやる。双葉が不安そうにこちらを窺ってくる。

「だ、大丈夫なの一花。この前もめっちゃ怒られたじゃん」

「いいんだって。あんなうっせーハゲ。どうせあたしらに何も出来ないじゃん、異能に適合もできない負け犬だし。ほら、アイス食べに行こ。今日はいい天気だよ、双葉」

「へへ……今日はアイス記念日だね」

「それこの前教科書で読んだやつぅ。そだね。あたしと双葉の、アイス記念日」

 双葉の顔に、いたずらっぽい笑みが戻る。それが可愛くて髪をくしゃくしゃに撫でてやったら「もぉ、すぐそれするぅ。今日セットめっちゃ時間かけてるんですけどぉ」と双葉はくすぐったそうにけらけらした。

 どこにでもあるアイスクリームのチェーン店でダブルのカップアイスを買い、店の外に出る。途端に暑い。じわじわと降り注ぐ太陽が熱になって肌にまとわりつくようだ。気持ち悪い暑さ。

 店の中はそれなりに混み合っていたが、客も店員も「いちにーチャンネルの一花ちゃんと双葉ちゃんですか⁉」と声を掛けてくることも憧れの眼差しを向けてくることもなかった。

 代わりに、何かこの場に馴染まない異質なものを見るような視線をあちこちから向けられた。

(……そりゃそっか。あたしら、たった今異物と戦ってきたばっかりだもんね)

 制服のベストは裂けて、ブラウスも煤だらけだ。スカートだって汚れがひどい。剥き出しだった腕と足も傷と打撲の跡がしばらく残りそうだった。顔だけは無事だったから、動画とか配信には支障なさそうでよかった。

 でも、眼差しが痛かった。むしろ目を逸らしている人も多くて、それだけに逆にこちらを見る目が刺さってくる感じがする。

 関わりたくない。何、あの子たち。怖いんだけど。さっさと出てってくれないかな。声とかかけられたどうすっかなー。

 そんな声が聴こえてくる気がする。煩わしく、思われている気がする。煩い。

 ぎこちない笑みの店員からアイスを受け取って店を出た時、双葉も肩から力が抜けたようにほっと息をついた。そのため息が重なって、二人で見合わせて苦笑う。そうしないと、心臓の不穏な鼓動がごまかせそうになかった。

 たった二駅。離れた場所で異物が暴れまわって人がたくさん死んだのに。アイスクリームは普通に買えて、それを求める客がいっぱい群がっている。

(……あたしたちが命張らなきゃ。お前ら全員死んでたくせに)

 あたしらは命張ってもアイスを買う自由すら与えられないのに。心の底に、澱のようなものが溜まっていくようだ。

「あー……この前の。再生数ぜんっぜん伸びないなぁ。編集もサムネも頑張ったのに。ようやく百いったよ」

 アイスのプラスチックのスプーンを咥えながらスマホを眺めていた双葉が、苦々しそうにそう呟いた。一花もアイスのカップをベンチの横に置いて、自分のスマホを取り出す。

 夏の暑さで既にとろけかけたアイスは。別の種類の甘さと甘さが混じり合って思ったより美味しいものでもなかった。せっかくだからと変わった味をダブルにしたのが良くなかったのかもしれない。踏んだり蹴ったりだ。

 スマホに表示された、動画サイトの自分たちのチャンネル。登録者数は二百人。もう少しで三百人達成だが、なかなか登録者数も動画の視聴回数も伸びない。

 完全にあたしたちは埋もれてしまっている。そんな自覚はあったが、認めたくなかった。

「あ、宝石月桃色。こいつ、また急上昇ランキングに上がってるぅ。何なん。ほんとむかつくんだけど」

 一花は苛ついた声を上げる。

 宝石月桃色。同じ異能者で、同じ配信者。何気ない日常のvlogでも、何気ない雑談の配信でも。彼女は一花たちのチャンネルの数十倍の視聴者を集めている。

 自分の異能のパートナーと恋人同士なのも公言していて、そのパートナーとのお出かけ動画や異能学園の友人たちとの動画などもある。

(こっちだって。動画の内容工夫してるし、編集頑張ってるし。配信だって疲れてるけどほぼ毎日やってるのに。確かに顔と声は可愛いけどさぁ。何が違うんだよ。こいつと、あたしらと)

 苦々しく思う。向こうはチャンネル登録者数を六十万人も超えてる。腹立たしい。

 でも、何となくわかっていた。彼女は、きらきらしている。明らかに動画や配信で見る彼女自身の存在が、何というか他とは違う煌びやかさがあるのだ。

 それが生まれ持ってきた才能だとか、そういうものなのだとしたら。一花たちは多分一生彼女と同じステージに立てない。……そんなの、残酷すぎやしませんか。神様。

「ねえ、一花ぁ。こいつらいいねぇ。能天気で。きっと毎日どこかで人が死んで、あたしらみたいなのが命張ってても。どうでもいいんだろうねぇ」

 双葉が遠くを眺めながら言う。彼女が残したアイスは、カップの中で既にどろどろに溶けて混ざっていた。

 自然公園のベンチ。せめてもの木の日陰で、一花たちはそこに集う人たちを眺めている。

 芝生を走り回る子供を、母親らしき人が忙しなそうに見守っている。恋人同士らしい男女が、レジャーシートを敷いて日光浴している。日傘を持った初老の女性が、何人かの友人と伴って談笑しながら歩いていく。

 当たり前のようにそこにある日常。それが一花にはひどく眩しく、そして憎々しいものに思えた。きっと双葉もそうだったのだろう。俯瞰したような眼差しになっていた。

 ――こんな平和な世界など。退屈で傲慢で、あたしたちの存在も認めてくれない世界など。守って意味などあるか。生きていて意味などあるのか。

 逆に壊さない理由なんて、一つでもあるだろうか。

『あなたたち! 姉妹なのよ! 血が繋がってるの! 何を考えているの⁉』

 母親の罵るような大声が耳の奥で響く。あの時の形相は鬼のようで、何よりも恐ろしかった。父親も、汚らわしいものを見るような眼差しでこちらを見据えていた。

 その時にぷつんと、糸が切れた気がした。ああ、この人たちは。血の繋がりがあるだけでただの他人なのだと。

 そんなものより生まれる前からずっと一緒だった双葉との方が、ずっと深く深く結びついているのだと。

 キスをしたのは、いつからだろう。セックスは、中学一年、十三の時から。

 それに気づいた母親たちは、異能に目覚めた一花と双葉を喜んで異能学園に引き渡した。以来、一度も顔を見ていない。一花も双葉も、それでよかった。二度と、会いたくない。

 ──私には、双葉だけがいればそれでいい。

「お姉ちゃんたち! はい! どうぞ!」

 俯いていた視界の中に。ふと、二輪の花を差し出す小さな手が飛び込んできた。

 顔を上げる。小さな女の子が、公園のどこかから摘んできたらしい白い花を満面の笑みでこちらに差し出していた。

「え……? あたしたち、に?」

「うん! お姉ちゃんたち、元気なさそうだったから! 元気出して! 二人とも笑顔が似合いそう!」

 彼女は自分の口元に指を当てて、にっとしてみせる。

 ……泣きそうになった。でも熱くなった目元を何とか堪えて、一花は微笑み返す。双葉も同じように。

「……ありがと。お姉ちゃんたち、いっぱい元気になっちゃった」

「よかった! それじゃあ、またね!」

 一花と双葉が花を受け取ると、少女は軽い足取りで去っていく。日差しの下。まとわりつく暑さも気にしないで走るその姿は。どこまでも美しくて、眩しかった。

「……双葉。何かさぁ……頑張って、よかったね」

「ん……そうだね」

 双葉は目元を手で慌てて拭いながら、慌てて表情を取り繕う。

 一花は立ち上がって、双葉に向かって手を差し伸べる。

「さて、帰って配信しよっか。その前に、しこたま怒られそうだけど」

「ん。二人一緒なら、怖くないでしょなんだって」

 一花の手を取って立ち上がった双葉も、さっきよりも天真爛漫な笑みだ。うん、いつもの双葉だ。

 すっかり溶けてしまったアイスを飲むように煽って、ちゃんと近くの水道で洗って分別してからゴミ箱に捨てる。

 一花と双葉は歩き出す。ここがどこかよくわからないから、学園に車の迎えを寄こしてもらおう。デバイスの通信をつけたら、きっとまず怒鳴られるだろうけれど。

 お互いの間にある手は、繋ぎ合っている。指まで絡めて、どこにも誰にも入れる隙間もないくらい深く結びついていた。

 そして反対側の手には。少女からもらった白い花を、二人で包んでいた。

 ……花瓶、買って帰ろうかな。


〈記録:天星の使いが一花と双葉のところを訪れる、一月前〉

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