第七話『ごめんね、守れなくて』④


  4 ~学園:姫沼沙希、九十九えなが~


「東京校の異能者ども! 投降しろ! さもなくば撃ち殺すッ!」

 正門の鉄格子を吹き飛ばし、こちらに自動小銃を構えた異能対策部隊の兵たちがなだれ込んでくる。

 皆ヘルメット、防弾チョッキを付けたフル装備。こちらへの敵意と殺意が漲っている。本気で撃ち殺す気だ。

 沙希は意識を巡らせる。が、十秒ほどの未来視がいいところ。あいつらはまた撃ってくる。投降なんてさせる気はない。

 沙希に干渉しているのは、天星だ。あいつは近くで見ている。だが、深い霧が学園周辺全体が覆っている今、奴の姿を確認できない。気配すら察知させない。

 こちらは三年生の香坂蒼が意識喪失状態だ。部隊が撃ってきた異能専用弾を、自分の異能で吸収してみんなを庇ったから。他の三年生の芳翠と朱里がそれを介抱している。致命傷ではないが、目はしばらく覚まさないかもしれない。

 絶体絶命、なのだろう。あちらはこちらを撃ち殺せる。こちらは人を殺せない。殺したら、非異能者との諍いは悪化する。それこそが、天星の狙いだ。

(どうする……? 介入は無理。距離が遠い)

 せめてもう少し、奴らが近づいてくれたら。沙希の未来介入は対象と距離が離れていると使えない。それに今はたった十秒先。同じ遠距離の銃使いと、沙希の相性は悪いのだ。

 考えを巡らせていたら。透子と七竈が、沙希達の前に立った。

「……私らの生徒に手ぇ出したな。さすがに横暴すぎんだろ」

「さすがこれは看過できない、かな。いくら政府お抱えの部隊でも」

 透子は薙刀を。七竈は鞘に収めたままの刀を、低く構える。抜刀術。

「撃てッ!」

 部隊隊長格の指示。こちらに向けられた銃口が一斉に火を噴く。

「矛盾」

 透子が長刀を持っていない方の手を前に翳す。こちらに向かっていた銃弾が、消えた。

 絶対に何物の通さない盾。透子の異能。だが異能弾。彼女が鼻の辺りを拭った手の甲には血が滲んでいた。だが蒼のように重傷ではないようだ。

 兵たちは更に撃ち込もうとしてくる。

 そこに、七竈の声。

「次剣(じげん)、三十枚下ろし」

 カカカカカッ、と目にも留まらぬ鞘から刀を抜き、すぐ収める。沙希の目には根元の方だけ抜き差ししているようにしか追えなかった。

 だが迫ってきていた特殊部隊たちが、糸が切れたように全員その場に倒れこむ。

「……峰打ちだ。本当ならお前ら首落とすとこだぞ。うちの生徒に感謝しろよ」

 七竈が吐き捨てるように言った。目の前にいた部隊たちは対処した。

 だがまだ油断できない。未来視。沙希は視た。最悪の未来だ。

「気を付けて! 奴らまた別の子に、異能を使わせる!」

 沙希は叫ぶ。深い霧の中。沙希たちの周りを、何かが蠢く気配があった。

 さっき対策部隊は、異能者の女の子を捕縛して霧の異能を使わせていた。今使わせているのは、たぶんその子と共鳴する別の異能者の異能だ。

 最悪すぎる。状況も、奴らも。

「五体、何かいるぞ。速い。走り回っておる」

 蛇足の感覚で探っていたえながが言う。沙希たちの周りを走り回る足音、息遣い。獣の気配、匂い。霧の中だから姿を確認できない。

 えながと同じ具現化して召喚するタイプだ。動物。群れで狩りをするタイプ。オオカミか。ライオンやチーターなら最悪だ。十秒程度の未来介入しかできない沙希では反応しきれない。

 唸る声がした。霧の中、影が現れ濃くなる。飛び込んできた。オオカミだ。犬の数倍体躯がある。沙希を喰らおうと開いた口。鋭い牙がぎらついていた。

「蛇足、薙ぎ払えッ!」

 えながが叫ぶ。蛇足が尻尾で飛ぶオオカミを薙ぎ払った。キャインッ、と声を上げて、地面に落ちたオオカミは立ち上がりまた霧の中に消える。

 更にもう一匹。沙希はもう拳銃を構えている。非殺傷のゴム弾。普通の弾より精度が落ちるが、近ければ関係ない。

 飛び掛かる口を避けて、身体に撃つ。撃ち落とせたが、またすぐ霧の中へ。

 また一匹。対策済み。未来介入したゴム弾が横からオオカミを撃ち落とす。それで向こうも警戒を強めたのか、飛び出してこなくなった。様子を窺っているのだろう。隙を見せたら、すぐ狩られる。気が抜けない。

「自動操縦型か。厄介じゃぞ。異能者本人がこっちを認識してなくても、敵と設定した者を無作為に襲ってくる」

「うん。しかも多分、あのオオカミ殺したら異能者の子も死んじゃう。対策部隊の奴ら、それもわかってて使わせてるんだ」

 マジで最悪だ。思ったより状況は最悪への一途を辿っている。

(あいつら、マジで異能者を捕まえて兵器扱いしてんのか。人権も何もないじゃん。政府お抱えの組織のくせに……っ)

 対策部隊は存在しない。だから好き放題だ。この前は殺されそうになった。だが流石に今回は、堪忍袋の緒が切れた。

 でも、殺せないのだ。こちら側は。そうしたら天星の目論見通り、異能者と非異能者の対立は激化し、堂々と異能者狩りが始まるだろう。

 それに、殺したくない。怪物になることのない人を手に掛けたら。きっと自分たちが、怪物になる。怖いのだ。

「……やむを得ないな。みんな、このまま学園を脱出するぞ! 行く宛はある。裏門の方に回る!」

 七竈が沙希たちだけに聴こえるように言った。

 防壁はもうない。出るのにもはや誰の許可もいらない。自分たちがこの状況から生き延びるにはそれしかなさそうだ。

(……くそ。天星……っ)

 この場であいつを迎え撃って殺してやりたかった。こんな変化球を使ってくるとは。逃げるしかない現状に沙希は歯がゆさを覚えつつ、裏門へと一同は警戒を解かず進み始める。

 意識を失った蒼は、朱里が大事そうに背負っている。芳翠も彼女を気にかけているようだ。

「七竈。私は豊橋理事長を連れてくる。先に裏門へ」

「一人で大丈夫か。……死ぬなよ」

「私を殺せるのは、七竈と續だけだよ」

 そう微笑んで、透子が薙刀を脇に携え霧の中を足音もなく駆けていく。七竈はその背中を視線で追い、沙希たちを見る。

「よし、進むぞ。気を抜くな。何が来るかわからん」

 沙希たちは頷き合い、霧を進む。まさしく一寸先は白。どんな魑魅魍魎が潜んでいるかわからない。

 オオカミの気配は未だ健在。しかも対策部隊の奴らは、まだ異能者を捕らえて控えさせているかもしれない。

 何人、そうやって道具扱いしている。あいつらはいつか、壊滅させる。そんな天星めいた考えを抱いた自分に少し驚いて、首を振る。集中しろ、今に。死ぬぞ。

「……オオカミに気配を紛らせて、何人か来てるぞ。隠密も得意か、奴ら」

 えながが蛇足の感覚で探り当てる。沙希は拳銃のチャンバーをチェックして、装填を確認。いつでも来い。異能介入しようとする。

 それを手で制したのは、芳翠。彼女のきりっとした眼差しには、僅かな怒りが滲んでいた。

「ここは私たちが。あなた方は異能を温存して。この状況の最高の切り札。でしょう?」

「あたしらも、結構最強だぞ? ……それに、蒼をやられた。ただじゃ、あいつらを済まさない」

 まだ意識の戻らない蒼を抱えた朱里も珍しく静かに、そして怒っていた。蒼はいないが、二人の異能は充分そうだ。沙希とえながは二人に頷いた。

「十秒後、撃ってきます。そこに来てる」

 沙希が省エネで未来視をして自分たちから左側を指さす。その瞬間には、芳翠がそちらに向かっている。

 彼女が風を切って走ったおかげで僅か霧が避けた。スコープを付けて自動小銃を構えた部隊たちが見える。

 芳翠にサプレッサーで消音銃撃。だが彼女はそれを避けて、奴らの真ん中に飛び込む。

 そして、芳翠の凛とした声。

「問題。中央アメリカのパナマと陸上で国境を接している南アメリカの国は、どこかしら?」

 まったく場違いな発言。だが、それが彼女の異能。

 部隊の兵たちが銃を下ろし、一斉に腕を組んで考え始めた。

「え、中央アメリカ……?」

「パナマとの国境……」

「南アメリカの国……どこだ……?」

 六人いただろうか。真剣に問題の答えを探っている姿が滑稽だった。

 そこに向かって。朱里が肘を引き、思いきり拳を突き出した。

「飛ぶパンチを、知ってるか? 大砲拳ッ」

 静かに叫ぶ朱里。部隊の六人が一斉に凄まじい勢いで霧の中に吹っ飛んでいった。その時にもう芳翠は、沙希たちの傍に戻ってきている。

「……答えはコロンビア。ネットミームも知らないのかしら、あの人たちって」

 呆れたように言って、芳翠が何故か両手を掲げるようなポーズを取る。

 芳翠の異能。他人の思考に数十秒、どうでもいい情報を流し込んでそれに考えを縛り付ける事ができる。

 そして朱里の異能は、何でも殴り飛ばせる。触れないものにも干渉出来るのだ。今は空気を殴りつけて、連中をぶっ飛ばした。たぶん意識喪失しているだろう。彼女は、本気で殴った時小型ミサイルが突っ込んだように地面が抉れたらしい。歩く戦車だ。

 芳翠が隙を作り、蒼が守り、朱里が攻める。本当に相性がいい三人なのだ。倒れた蒼を先程からずっと二人が気にかけているから、仲もいいのだろう。

(……この人たちも、死なせない。絶対)

 沙希は固く誓いつつ未来を探る。

「五秒、十秒。オオカミが順番に来ます」

「合点承知!」

 朱里が小さく元気に受け答えして、自分の拳と拳をぶつける。

「そことそこ!」

「豚の皮のジャーキー、ビックサイズ」

 芳翠が唱える。だがオオカミたちは容赦なく飛びかかってきた。

「シィッ!」

 朱里が空気を殴って、その衝撃波で二匹ともぶっ飛ばす。

「異能だからかしら。私の思考撹乱が効かないわ」

「……本当に姑息な奴らだなッ。正直ここまで虫唾が走るのは初めだ!」

 冷静に分析する芳翠と、異能部隊に憤慨する朱里。

 二人の声が重なった時だった。自動危機回避モードにした沙希の未来視が発動する。

「みんな! 空からなにか来る! ……鷹!? 早い! 五秒後に来る!」

 風を切る音。上空から。霧を割いて大きな鷹が飛び込んでくる。この視界の悪い中、沙希たちを正確に狙ってきた。

 間違いなく異能。しかもこの状況から獲物を探知できる。これも、異能対策部隊の切り札か。あいつら、マジで最悪だ。

「波ァッ!」

 朱里が拳から衝撃波を飛ばすが、鷹は軽々と避けてみせる。攻撃の探知も可。予想以上に厄介な存在。こっちも無闇に撃ってもたぶん当たらない。

 未来介入で確実に仕留めたい、が、今は常時異能を使っているのに等しい状態。

 さすがに息が切れてる。なるべく使いたくないが、やるしかないか。鷹の爪撃が来る。それを避けようとしつつ、沙希は未来に銃口を向ける。

「矛盾」

 透子の声がした。鷹の爪撃が、見えない透子の盾で防がれる。

 霧を裂いて、跳ぶ影。透子だ。薙刀を振るい、体勢を崩した鷹に刃じゃなく柄をぶつける。

「三枚下ろし、峰打ち」

 七竈が三回、刀を抜き瞬時に納める。鷹が吹き飛び、地面に転がった。

 鷹が消える。異能者本体が意識を失ったのか、それとも一旦引っ込めただけか。希望的観測は出来ないが、とりあえず目の前の脅威は去って……はいない。

 まだ周りをオオカミと、どこから来るかわからない対策部隊の連中がいる。

「透子。遅かったな。理事長、ちゃんと連れてきたんだろうな」

「ええ、和泉先生のおかげで何とか校舎から出られました。学園を、出るのですね」

「それしか我々の生き延びる手立てはありません。もう周りは異能対策部隊に取り囲まれてる。このままここで籠城しても、奴らは私たちを殺すまで攻撃をやめないでしょう」

 こんな時でも取り乱さない豊橋が姿を見せて、隣にいた透子が冷静に受け答えする。

 更に七竈が言葉を継ぐ。

「裏門から出ます。理事長も私たちから付かず離れずでいてください。周りに異能のオオカミと、部隊の奴らがいます。何が飛び出してきてもおかしくない。百鬼夜行の会場かここは」

「裏門も危険です。向こうはこの学園の情報を知り尽くしているでしょう。こんな時のための、機密の脱出ルートがあります。私が誘導します」

 豊橋が強い意志を目に宿らせて言う。

 こんな修羅場に慣れた様子を見せる彼女は、普通の人間なのだろうか。学園側の人は透子たちを除いて非異能者の人たちだけしかいないと勝手に考えていたし、沙希は理事長である豊橋のことを何も知らないことを今更自覚した。いや違う。こちらの味方じゃないと、勝手に決めつけて知ろうとしなかった。

 ……今回は反省することが、多すぎる。生き延びなきゃ。そして人のことを。世界のことをもっと、知ろうとしなきゃ。

「……沙希。大丈夫か」

 隣にいたえながが手を握ってくれた。彼女はこちらをいつも気に掛けてくれているのだ。何かあれば、手を握って元気づけてくれる癖がついたらしい。それが微笑ましくて、少し肩の力が抜けた。

「うん、平気。ありがと。えながは? 蛇足にずっと気配探らせてるでしょ。疲れてない? 無理しちゃダメだよ」

「私も平気じゃ。これくらいの修羅場、一緒にいくらでも乗り切って来たじゃろう。今回も、絶対大丈夫じゃ。頼れる人たちも一緒におる」

 ぎゅっと彼女の手に力が入る。自分に言い聞かせるようにそう言う彼女を、沙希は抱き寄せたくなった。彼女はこじんまりとしているから、腕の中にすっぽり収まってしまう。抱き心地がいいと常日頃感じていることは、黙っていたけれど。今度、言ってみようかな。一緒のベッドで寝た時には。

「こちらです」

 豊橋の誘導の元、あるという機密の脱出口に向かって沙希たち一行は進む。不測の事態に備えて、先頭は透子。最後尾は七竈の教師組が挟んでくれている。

 校舎やどの学年の寮からも離れた場所へ向かっている。こちらは──東京校の、「天国の扉」があるところに続く道、だろうか。異物化の傾向が現れ始めた学園の異能者を、安楽死させる場所。

 幸い、というか。他校の天国の扉を見たことはあるが、沙希たちはこの学園の同じ場所を目にする機会はなかった。やっぱり少しだけ、緊張してしまう。

「あえて普段は避けるような場所に、脱出口は作ってあります。どの学園にもそれは備わっている。──こういう事態に備えて、学園の生徒たちを逃がすために」

 豊橋が静かに言う。てっきり学園側の人たちは、沙希たちのような異能者のことなどどうでもいいのかと思い込んでいたけれど。

 京都校の理事長、だった、日出を思い出す。彼も無関心を装って、異能者の学生たちの今の現状を憂いていた。

 守られていた、のかもしれない。周りの大人たちに。沙希は、知らない間に。何も世界中の大人が、敵じゃない。わかっていたけれど、わかっていなかった。

「……あいつら。易々と私たちを、逃がしてくれると思うか?」

 掛かってきたオオカミを蛇足の尻尾で追い払いながら、えながが言う。

「……ないわね。絶対何かしてくるわ。さっきから部隊の奴らが攻め込んでこない。本気なら、大勢で押し寄せてこちらを制圧するでしょうね」

「ということは、奥の手があるってことかッ。本当にやりにくいなッ。正面から殴り合わせろッ」

 答えたのは芳翠。そして小さな声で吼える朱里。みんな同じように警戒していた。

 多勢に無勢。本気なら部隊の全勢力をこちらにぶつけてくるはずだ。そうしないということは、そうする必要がないということ。

 何か切り札を仕掛けてくる気満々ということだ。それが他に捕獲している異能者を使うことなのか、別の兵器でも用意してあるのかはわからない。

「でもあたしたちの殲滅が目的なら、最初から爆弾なりミサイルなり撃ち込んできた方が早くない? 何でそうしないのかな」

「そうしない理由があるのよ。──あなたたちね」

 芳翠と朱里の目が同時に沙希とえながを見て、沙希はぎょっとする。

「なるほどな! S級異能者の捕獲か! 未来介入と操巨蛇術。どっちも対策部隊の奴らはがむしゃらに欲しがるだろうな!」

「そうね、朱里。未来介入はもちろんのこと。九十九さんの蛇も規格外だから。他にも動物なり物なりを具現化して召喚する異能はあっても、その大きさも自由自在で召喚できる範囲も広いのはほとんどいない。それに九十九さん、もう蛇、何体か同時に出せるようになったでしょう」

「……まあ、そうですね」

 芳翠に言われて、えながは頷く。なるほど。パートナーなのに今更気づく。さっきからえながの蛇足の敵を察知する感覚が鋭かったのは、何体かに探らせていたからなのだ。

 えながの出せる蛇足は、もう一体だけじゃない。鍛錬の成果。彼女も異能を拡張するコツを掴んだようだ。

「じゃあ尚更気をつけないとね。沙希、えなが。全力で警戒して。芳翠、朱里。気を抜かないで。私が、死んでもあなたたちのことは守るから。無理は絶対禁物」

「私たちが、だろ。姫沼、九十九。やばい時は全力で逃げろよ。私ら教師のことは置いてく覚悟も決めろ。お前らのうちどっちかが捕まったら私らの負けだ。芳翠と朱里は無理すんなよ。仮に二人のいずれかが捕まったとしても、お前らは深追いせずにそのまま逃げろ。私らが何とかする」

 透子と七竈も、さすがに緊迫した様子を見せていた。芳翠と朱里も同時に小さく頷いていた。

「……わかりました」

 沙希とえながは声を揃える。正直、不服そうな響きは隠せなかった。誰かを置いていくなんて考えられない。

 だけど、あたしたちのどちらかが捕まったら状況は最悪な方向に舵を切る。それだけはお互い肝に銘じて、頷き合った。

「もうそろそろ天国の扉が見えて来ます。絶対に何かあるから、警戒を怠らないでください」

 長く続く道路の先も、周囲を覆い尽くしている背の高い木々すらも確認できない深い霧の先。正直建物の影すらも見えてこないが、豊橋が言う。透子たちにもそれがわかるのだろう。鋭く周囲に気を配っていた。芳翠と朱里もそうだ。

 沙希とえながも目配せ合ったが、それを芳翠に手で押し留められた。

「あなた方は私達のジョーカー。異能の消費は最小限に。警戒、戦闘は我々に任せなさい」

 上級生らしく、生徒会長らしく凛々しく彼女はこちらを見て言った。その目の信義は揺るぎない。

 再び沙希は、えながと目配せた。この人たちに任せる。自分たちの役割を、しっかり理解した。

 霧の中に薄く、影が見え始めた。正方形の巨大な箱のような建造物。間違いなく、天国の扉だ。

「あの建物の裏手です。マンホールの下が、地下の通路に通じています!」

 建物に近づきかけた豊橋を、透子が腕で止めた。

「さっきから異能も、部隊の連中も襲ってこない。待ち伏せられてます」

 確信した声で透子が言う。すると後ろにいた七竈が前に出て、どこからか出した小石を天国の扉の影に向かって放り投げた。

 ぐにゃんと。建物の影に届く前に柔軟性のあるゴムの壁に弾かれるようにして石が弾き返された。

 透明な壁が張られている。異能だ。

「結界の異能か。みんな、下がってろ」

 七竈が刀を構える。抜刀術。

 しかし見えるように放たれた斬撃は、やはり柔軟性のある壁に阻まれるようにして、弾んで掻き消された。

「異能も通らないね。七竈の刀は斬れるものは何でも斬れるから、厄介だ」

 透子が顔を顰めた。

 今まで学園を覆っていた結界と同じだ。人も鳥も虫も、異能さえ通らない壁。それが今、唯一安全な脱出口を阻んでいる。

 さっきの鷹の異能とのパートナー、天星の異能、別のパートナーがいる兵器扱いされた異能者の力。いくらでも可能性は考えられる。厄介だ。厄介すぎる。

 防壁を壊して攻めたが、ダメだったから奥の手ってわけか。更に異能の結界を張って、沙希たちを内側に閉じ込めた。

 だとしたら。連中が次に打ってくる手は、一体何だ。

 答えはすぐわかった。

 沙希は未来に視界を絞る。……見えない。さっきまで十秒先まで追えていたのが。

 奴が、すぐ傍にいる。

「……やれやれ。やっぱりダメだったか。非異能者の虫どもめ。お使いもまともにこなせないとはね。私がこの世界に憂いている理由が、少しはわかってもらえたかな」

 声。この世で一番今、聞きたくなかった。聞きたかったその声。

 天国の扉の形の影から、周囲の霧を振り払いながら現れた天星。浮かび上がってこちらを見下ろしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る