閑話幕間その4「天星様は甘党」


「天星様。ただいま視察より戻りました。いらっしゃいますか?」

 ノックをして、鏡花はホテルの一室に入る。

 家具を片付けたがらんとした空間。真ん中にあるソファは天星のお気に入りで、彼女はいつもそこにいるのだが、今日は珍しく姿がない。

 テーブルの上には、この東京周辺の地図がいくつも広げられていた。ここ数日、ずっと天星はそれを眺めて何かを思案している様子だった。

 近々、何か大きな動きがある。鏡花にもそんな予感があった。今日の視察は、異能者を閉じ込めている学園の京都校だった。周りには建物も人気もなく、防壁が張り巡らされ他の異能者を閉じ込める施設と同じように檻としての役割を全うしていた。……吐き気がする。

 彼女はあの場所に用があるという。どんな要件なのか、鏡花には見当もつかないが、彼女の思うことに間違いはない。信じてこれからも付いていく。他の少女たちと同じように。いや、それ以上に。彼女を守る。

「やあ、鏡花。遠くまで視察ご苦労さま」

 ひょっこりと、天星が姿を覗かせた。バスルームの扉から。床に付くほど長い髪を纏めて括った彼女は、タオルさえ纏っていない一糸纏わぬ姿だった。

 鏡花は慌てて目を逸らす。

「あ、天星様……? お、お言葉ですが流石に無防備すぎるかと……っ。せめてバスタオルを身に着けてから……っ」

「ボディソープを切らしていたらしくてね。備品室から取ってきたのがあったっけ。……気を遣わなくていいよ鏡花。同じ女同士じゃないか」

 柔らかな声でそう告げる彼女に、鏡花ははっとなる。

『お前男だろ。女みたいな態度して気持ちわりぃなぁ。そんなんでよく学校出てこれるね。変態じゃん。目障り』

『女の子のこと、気を遣ってね。しっかりしてよ。男の子でしょ?』

『女になりたいだなんて馬鹿なこと言って父さんたちを困らせるな。さっさと学校へ行け。……まったく。手間を掛けさせるな』

 浴びせられた言葉。悪意のない棘。常識という首輪と鎖。

 それらが瞬く間に鏡花の脳裏によぎって、固まってしまう。息が詰まる。今まで関わってきた人達が目の前に並んで、じっとこちらを見下ろしているような気がした。

「鏡花」

 天星の声ではっとなる。水を髪から滴らせたまま、彼女は水気を切った手で鏡花の手を取り、そっと撫でる。

「……ごめんね。悪いことを思い出させたね。いいんだ、そんなことは考えなくて。全部過去のこと。君を責める人は、もう誰もいないから」

 ――だから君は、君らしくいていいんだよ。

 どこまでも優しい声。頭の中で響いていた罵倒が、心のない言葉が。全部鏡花から取り払われた。

 目の奥が、熱くなる。でも鏡花はそれを表情には出さず、ただ笑顔を作った。

「……ありがとうございます。もう平気です、天星様」

「うん。君には笑顔が似合う。いい表情だ」

「……でも、やっぱりタオルくらいは羽織ってくださいね。後、髪から水が滴って床がびちょびちょです」

「これは失敬。ところで、ボディソープの替えはどこに置いてあったっけ」

「お持ちします」

 彼女にはタオルを羽織らせてバスルームに戻ってもらい、ボディソープは届けた。

 着替えのバスローブと身体を拭くバスタオルを脱衣所に持っていくと、鏡花はレジ袋の中から買ってきたものを取り出し冷蔵庫に入れておく。それから紅茶を淹れるための一式と、電気ケトルに水を用意する。テーブルの上の地図も、とりあえず折り重ねて他の物が置けるようにした。

 やがてバスローブを着た天星が、髪をタオルで拭きながら出てきた。ぶかぶかなそれを身に纏っていると、彼女は幼い少女に見える。

 だがどことなく異質な雰囲気が彼女からは満ち溢れている。場を支配するというよりは、そのまま周りを包み込むような、慈愛に似た空気。それが鏡花を今も惹きつける。

「いいお湯だった。鏡花も入ったら? ワープを使ったとはいえ遠出ではあっただろうし。京都は暑かっただろう?」

「いえ、僕……私はまだ大丈夫です。それより天星様、紅茶をどうぞ。茶請けも買ってきましたので」

「そうか。それは楽しみだね。ありがとう」

 彼女はソファに腰を下ろし、そのまま横向きになると姿勢よく正座した。

 鏡花はドライヤーを手にして、彼女の後ろに座る。延長コードにプラグを差し込み、熱さを調節した温風を優しく、天星の髪に当てていく。

「熱くないですか?」

「心地いいよ。いつも悪いね」

「いえ、私が好きでやってることですから。むしろ、天星様はいいんですか。私に、髪を触れられて?」

「私は、信頼できる者にしか私に触れさせないよ。わかってるだろう?」

 くすくす、と彼女はくすぐったそうに笑う。鏡花も口元を緩めながら、ソファーに広がる彼女の長い髪を少しずつドライした。温風で痛まないように、冷風もちゃんと使い分ける。彼女の髪の長さだと、乾くには少し時間が掛かるのだ。

 ドライヤーを終わらせると、しっかり冷ました髪に今度はヘアオイルを含ませて、丁寧にブラッシングをしてオイルを馴染ませる。

「心地いいよ。鏡花は何でもできるね」

「出来ませんよ。毎日、天星様の髪を手入れをさせていただいているので慣れてきただけです。まだまだ至りません」

「そんなことはないよ。鏡花はいつもよくやってくれている。これからも髪の手入れは、鏡花に頼もうかな。私がやるとぼさぼさになってしまうからね」

 ──少し前まで自然乾燥で放置していたら、鏡花に叱られたっけなぁ。天星が歌うように呟いた。

(それはずっとお傍に。あなたのお傍にいても、よいということでしょうか……?)

 ブラシをを梳かす手が止まってしまう。でも打ち震えそうな胸の内側の鼓動を何とか抑え込んで、手を再開する。

「私の許可なんていらないだろう? むしろ、頼みたいな。これからも私の傍で、共に戦ってくれるかい。鏡花」

 まるで鏡花の感情の揺らぎを読んだように、鏡花が凛とした声で告げる。ぶわり、熱くなる。身体の内側がぽかぽかとする。

 自分らしく生きられて、こんな想いを抱けるなんて。そんなこと、自分の人生には一生ないことだと思っていた。だけど、今は。

 何て、幸福なのだろう。

「……もちろんです。ありがとうございます、天星様」

「礼を言うのは私の方さ。さ、それくらいでいいよ。せっかくだしティータイムにしよう」

 踏まないように丁寧に天星の髪を頭上でお団子に纏めてヘアバンドを付けてあげた後。彼女にも手伝ってもらいつつ、紅茶の準備をする。

 もう夜も遅いので、ノンカフェインのジャスミンティーにした。お茶請けは、透明できらきらしたわらび餅に綺麗にキレイなきな粉がまぶされた和菓子だ。こんな時間には罪かと思ったが、「罪を犯すのも人生の醍醐味だよ」と彼女は笑ってくれた。こういうところが、この人の好きなところだ。

「ふふ、私はわらび餅が大好きなんだ。見た目も美しくて楽しめるし、触感も風味も控えめで絶妙だよね。さすが鏡花だ」

「光栄です。生八つ橋と迷いましたが、こちらを選んで正解でしたね」

「もちろん生八つ橋も大好きだよ。今度、そっちも一緒に食べようか」

 いただきますと手を合わせて、天星は木の楊枝できな粉のまぶされたわらび餅を優雅に口に運んだ。頬に触れて、少しうっとりした顔をする。

「……美味だね。これ、名店のものだろう。並んだんじゃないか?」

「並びましたが、それほどでも。天星様に喜んでいただけて嬉しいです」

「喜んでいるよ。ありがとう。私は今、とても感動しているよ」

 頬に触れたまま味わうように咀嚼している天星を見て、つい鏡花は吹き出してしまう。

「どうしたんだい? 鏡花」

「いえ。天星様も、そんな顔をなさるんだなと」

 いつもの凛とした雰囲気ではなく、ただ純粋にお菓子を楽しむ子供のような無防備さ。そのギャップが、何というか微笑ましいのだ。

「……鏡花の前でだけだよ。あまりそんなまじまじと観察してないでおくれ。私にも恥じらいはあるよ」

「ふふっ。申し訳ありません」

 すねたようにきな粉を付けた唇を尖らせる彼女もまた幼くて、笑みを堪えきれない。

「……鏡花。これから私たちは、成し遂げなければならないことがある。そのためには、多少の犠牲が伴う。私たちのような異能者にもね」

 お茶会が進み。カップのお茶を口に含んでからふと天星が、真剣な表情で言った。

「はい。承知しております。……私はずっと、天星様のお傍におります。天星様の、理想の世界のためなら。この命さえ惜しくありません」

 言い切れた。だって彼女は救ってくれた。こんなにちっぽけで傷だらけで、誰にも、世界にも必要とされなかった自分にも。

『おめでとう。君は選ばれたんだよ。異能に適合した。君は、女の子なんだ。胸を張ってそう言っていい』

 異能に目覚めた日。クラスメイトも教師も両親も、全員殺した。

 そこに現れた天星が、震える鏡花にそう言ってくれた。その時初めてこみ上げた胸の熱さと、頬を伝う感触を未だに鮮明に思い出せる。

 鏡花という名前も、彼女が授けてくれた。だから。

 私は彼女のためなら、死んでもいい。

「鏡花。君の命は尊い。私のために投げ出すな。それに君を死なせてしまうほど、私はか弱く見えてしまうかい?」

 ソファの隣にいた天星が、鏡花の手を取る。彼女の手は鏡花と比べるとだいぶ小さい。だけれど、包み込まれるような安心感がある。

「それは……違います」

「なら、共に見ようじゃないか。この世界の、新しい幕開けを。いよいよ来るよ、異能者たちの、新人類の夜明けが」

 ──そのためには、今のさばっているゴミどもを排除しなくてはならないね。天星は言う。

「手を貸してくれるかい、鏡花。きっと厳しい戦いになる。同志の血で私たちは手を汚さなければならないこともあるだろう」

「……どこまでも。お供します、天星様」

 ぎゅっと鏡花は。彼女の冷たい手を握り返した。花が綻ぶように、美しく。天星は笑い返してくれた。

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