第三話「桃色吐息」③


  3


「おいガキ! 近づくんじゃねえよ! この女ぶっ殺すぞ!」

 男は果物ナイフを、腕で捕まえた女性の首に突きつけながら叫ぶ。

 桃色は両手を上げながら、まず人質になっている女性に笑いかけた。大丈夫ですからね。すると、泣きながら震えていた彼女の強張りが、ほんの少しだけ解けたような気がした。

 続けて、ナイフを突きつけている男にも、桃色は笑いかける。落ち着いてください。今度はそんな意図。

 男のナイフを持つ震える手も、僅か収まってきた感じだった。

「平気ですよ。私はあなたを傷つけません。力になりたいんです。どうか一旦、その危ないものしまいませんか? お話しましょうよ」

「お、お前も俺のこと捕まえに来たんだろうが! 外の警察連中みたいに! 俺は刑務所なんか行かねぇからな!」

 男が喚き、また捕まった女性が悲鳴を上げる。

 何の変哲もないコンビニだった。女性はさっきまで普通の店員で、男はさっきまで普通の客だった、らしい。

 男がナイフを会計の時に突きつけて金を出せと女性を脅した。だが女性が手間取っている間に警察が駆けつけて、男は彼女を人質にコンビニ内に立て籠もったのだ。

 二時間ほどの膠着が続き、桃色たちに出動依頼が来た。

 夕方のコンビニ内は逃げた人々の跡が残り、商品が床に転がったり棚がぐちゃぐちゃになっていたりする。男も暴れたのだろうか。

(きっと、不安だったんだろうな。この男の人も)

 男の人を見る。桃色よりは年上だが、まだ若そうだ。黒いニット帽を被り、マスクを付けたその人の目は、サングラスの奥で揺れていた。

「あの、私宝石月桃色って言います。配信者やってます。良ければ今度検索してみてください。動画とか配信とかいっぱい上げてるので」

「はぁ? 何言ってんだガキ!?」

「あなたの名前は? 教えていただけませんか?」

「……い、言うわけねぇだろ!」

 男が初めてためらった気がした。桃色は更に彼に笑いかける。

「じゃあ一つだけ教えてください。何で強盗なんて、しようと思ったんですか。結構勇気いるのに」

「か、金がねぇんだよ……! バイトは面接で落とされるし、アパートも追い出された。もうおにぎりも買う金も残ってねぇ。ずっと公園で寝泊まりしてた」

 男が教えてくれた。少しくたびれた格好をしているのはそのせいだったのだ。

 可哀想に。きっとずっと不安だったのだ。大丈夫だよ。

 桃色はとびっきりの笑みを作った。

「じゃあ、周りの人に。まず助けを求めてみませんか。警察の人でも、通行人の人でも、私でも。大丈夫です。案外人って、親切なんですよ」

 彼の目が揺らいだ。大丈夫、大丈夫。まっすぐ視線を返した。

「お、俺のことなんて、誰も気にしてねぇだろ。みんな、俺なんか死んでもいいんだよ……」

「誰もそんなこと思ってません。少なくとも私は。あなたが、少しでも幸せな人生を送れたらと思います」

 手を差し伸べる。全然遠いけれど、ちゃんと。

「とりあえず一旦、外に出ませんか。そして警察の人たちにちゃんと伝えてみてください。あなたがどうして、こうしなければならなくなったのか」

 きっと力になってくれます。桃色はウインクした。

 彼の手が女性の喉元から離れ、そのままナイフを落とした。彼は泣いていた。声もなく、ただ一人で泣いていた。人質だった女性さえ、心配するような眼差しを向けている。

 桃色はゆっくり歩み寄って、彼の手を握りしめる。

「……帰りましょう。みんな待ってますから」

 彼は桃色と一緒にコンビニの外に出て、そのまま警察の人たちには連れて行かれた。優しく、丁寧に。彼のことを扱ってくれてパトカーに乗せる。

「ありがとう。今度君の配信、見に行くわ」

 彼がパトカーに乗せられる前に言ってくれた言葉。桃色は大きく息をつき、心の大切なものフォルダの中に丁寧にしまいこんだ。

「おい、お前。今回はたまたま上手くいったからいいものを。ガキが横槍なんて入れやがって。引っ込んでろ、化け物が」

 その場にいた警官の一人がそう言って桃色を睨んできた。確かにガキに成果を奪われたようにとられちゃうか。どっちがガキだよ。

 桃色は笑い返す。

「すみません。少しでもお力になれたらと思ったんですけど、ご迷惑でしたね」

「大迷惑だよ。とっとと消えろ。お前の所属する学園とやらに、きっちり文句は言わせてもらうからな」

 別の警官には一瞥もされずに吐き捨てるように言われた。その場に集まっていた警官たちは、みな桃色に対して辛辣な空気を発していた。まるで自分がこの場ではっきり異質な存在であると自覚させるかの如く、刺さってくる。

 平気。怖くなんかない。桃色は大きく息を吸って吐いて、自分に言い聞かせる。ちゃんとしないと、また智尋に迷惑をかけてしまう。彼女もそばにいる。通信は切っている。

 とりあえずお辞儀でもして、その場の剣呑な雰囲気からさっさと退散しようとした時だった。

「おい! やめろお前ら。……たく。大の公僕連中が、子供相手に揃いも揃って遠吠えかい。そんなんだから社会の犬だとか叩かれるんだよ、お前らは」

「クギさん……来てたのか」

「来るだろうさ。どうせお前ら、またきゃんきゃん吠えてやがると思ってな。したら、案の定よ。なまら格好悪いぞ、何のための桜の代紋だ」

 警官たちが割られていく海のように脇に避けて、くたびれたスーツを着た初老の男性がこちらに歩いてくる。

「よぉ、すまんなぁ。本来は我々がやらにゃならんクソ仕事を押し付けちまって。若いのに立派だ。こりゃ将来が楽しみだなぁ」

 だが警察になんて絶対なるなよ、と彼は白髪の混じったごま塩の短い頭を掻いて、苦そうに笑った。

 あ、この人たぶん好きな人だ。桃色は直感的に悟る。クギさん、と呼ばれていた。

 クギさんという男性は姿勢を正すと、キレよく桃色に向かって敬礼してくれた。

「捜査一課の三流刑事、釘木達吉(くぎき たつきち)だ。トレンチコートが似合いそうな埃臭いデカだとよく言われる」

「高校一年の超配信者、宝石月桃色と申します。可愛い、きらきらしてるとか仕事邪魔するクソガキってよく言われます」

 桃色が目の横でピースサインを作って、二人で笑い合う。周りの警官たちの剣呑な視線は相変わらずだけれど、ずいぶん楽に構えられるようになった。空気が美味しい。

「宝石月さん」

 と釘木は真剣な顔になる。

「きっと俺たちはまた君たちの力を借りることになる。数え切れないくらい。異物、だっけか。正直、あれは俺たちの手には負えない。さっきみたいな事件でも、君たちを頼ることがあるだろう。情けないが、俺たち公僕の番犬も、もちろん尽力して公務に当たる」

 だから、と釘木は桃色に向かって深々と頭を下げた。周りの警官たちが皆どよめく。

「一人でも多く、救える人を救ってやってくれ。その手に収まる範疇でいい。そして辛いときは、周りの人を頼ってくれ。君たちは俺みたいな年寄からしたらまだ全然子供なんだ。一人で、背負い込むな。大人をこき使え」

 大人ってのは、そのためにいる。釘木は噛みしめるように笑った。

 一瞬、見開いた桃色の目頭が熱くなる。でも桃色は瞬きするだけで、微笑み返した。

「ありがとうございます、釘木さん。話せて良かったです」

「俺も話せてよかったよ、宝石月さん。達者でな。今を楽しんでくれ。その他のことは二の次でいい」

 釘木は言うとそのまま踵を返す。桃色もその背中に、深々と頭を下げた。

「……正直、驚いたよ。お前みたいな人間もいるんだな。誤算だ。ちょっとだけ感動したよ。ちょっとだけ、な」

 男の声が割り込んできた。見る。

 停まっていたパトカーの上。赤色回転灯に足をかけて、男が立っていた。黒いスウェットを上下に着ている。年齢は三十代後半から、四十代くらい。

 その男の鋭い眼光が、桃色を捉えていた。

「だが犬どもは、万死に値する。全員、死ね」

男が手と手を、力を込めながらじわじわと合わせるような動作をする。少しずつ両手のひらを体の前で合わせていくような。

 そして、パァンと音を鳴らして両手を合わせた。

 その場にいる警官たちが、全員潰れた。ように見えた。わからない。肉と骨がひしゃげるような音がして、至る所で血しぶきが上がった。人間の形は残らず、ただ血溜まりだけが地面を汚した。

 釘木は。咄嗟に桃色を庇うように男の前に立ちはだかった。

「Mrs.ッ!!!!」

 桃色はMrs.を呼び出そうとした。が、一瞬遅かった。

 男が手を鳴らす。目の前の釘木の背中が消えた。

 靴に当たる、濡れた感触。ローファーに血溜まりが押し寄せていた。欠片もなく、釘木は潰された。

 桃色は、パトカーの上の男を睨んだ。

「おいやめろ。君とやり合うつもりはない。話し合いに来た」

「Mrs.、同期接続」

 桃色は言う。驚くほど心が凪いでいた。何を感じるよりも。

 純粋な殺意だけが、身を突いた。

 腕を振りかぶる。突き出した瞬間パトカーが吹き飛んだ。桃色の傍らにいる、Mrs.の巨大な腕が振りかぶられたのだ。

 目を走らせる。男はゆったりと地面に着地した。

「まずは自己紹介と行かないか。俺は要萩人(かなめ はぎと)。さっきも言ったが君と話し合いに来た。宝石月桃色」

「――ぶっ殺す」

 桃色はその場で回転する。回し蹴り。Mrs.の大きな足が現れ、男に突き出された。

 だがその足先は。男に届く前に止められた。まるで透明な壁に阻まれたように。

 萩人と名乗った男は笑う。

「仕方ない。一旦頭を冷やしてもらおうか」

 萩人が構えた。

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