第043話「カッコいい方がいい」★

「莉音ちゃん……クラスの男子と取っ組み合いの喧嘩をしたんだって? 担任の先生から連絡があったのよ? 一体何があったの? おばあちゃんに話してくれる?」


「うるさいな! おばあちゃんには関係ないじゃん!」


 私は祖母に背を向けると、玄関のドアに手をかける。


「莉音ちゃん! 待ちなさい!」


 後ろから呼び止める声を無視して外に出ると、駆け足で家から離れた。


 しばらく走り続けて、息を切らすと、私は足を止めた。そして、近くにあった公園のブランコに腰かける。



 ――あれから数ヶ月が経過していた。



 両親を失った私は、父方の祖父母に引き取られることになった。彼らはとても優しい人達だったが、私の心に空いた穴を埋めることはできなかった。


 あの日から、ずっと毒島の言葉が頭から離れず、毎日のように悪夢を見ている。


 ――天国なんてものはない。


 ――悪人は裁かれることなく、のうのうと生きる。


 ――世界は悪意に満ちている。


 今日もクラスメイトの男子が、万引きをしたことを自慢話として語って来たので、思わず掴みかかって取っ組み合いの喧嘩になってしまったのだ。


 でも、怒られたのは私の方だった。


 相手の親は私のことを、育ちが悪い子供だと罵った。担任の先生も私だけに非があるような言い方をして、男の子の親にペコペコと頭を何度も下げていた。


 悔しくて、悲しくて、情けなくて、私は泣いた。


「あの人が言っていたことは真実なのかもしれない……。正義の味方なんて! 無意味な存在なんだ!」


 どんなに正しいことをしたって、結局は悪に利用されてしまうだけだ。神様も手を差し伸べてくれることはない。


 足元の小石を思いっきり蹴飛ばす。小石は勢いよく飛んでいき、近くの木にぶつかった。


「もう嫌だ……」


 でも誰も助けてくれない。私のヒーローだったお父さんも、優しかったお母さんも、もういない。これから先、どうやって生きていけばいいのだろう。


 ブランコから降りて立ち上がると、私はトボトボと歩き出した。


 しばらく歩くと大きな橋が見えてくる。ここ並木野市を流れる川にかかる、観光スポットにもなっている大橋だ。


 私は橋の欄干に両手をつくと、飛び上がって身を乗り出し、下に流れる川を眺める。


(このまま川に飛び込んだら、お父さんとお母さんのところに行けるかな?)


 いや、きっと行けないだろう。毒島の言う通り、天国があるかどうかもわからないし、結局は死んだ人間がどうなるのかなんて、誰にもわかりはしないのだ。


 そんなことを考えていると、不意に声をかけられる。


「君、そんなに身を乗り出して危ないよ? 下に落ちたりしたら大変だから気をつけないと」


 振り向くと、そこには背の高い青年がいた。年齢は20代前半くらいだろうか? 整った顔立ちをしているが、どこか頼りなさそうな印象を受ける人だった。


 ちょっと父に似た雰囲気を纏っている気がする。


「ほっといてくれませんか? 貴方には関係ありませんから」


 私がそう答えると、彼は困ったように頬を掻いて、言葉を続けた。


「いや、でも……ほら、今日は風も強いし、下は流れが速いし、危ないと――」


「しつこいなぁ……。あなたロリコン? キモいんですけど。さっさとどっか行ってくださいよ!」


 私が大きな声をだして睨むと、彼はビクリと体を震わせた。そして、諦めたかのように小さく溜め息を吐くと、心配そうな顔をしながらも、渋々といった様子でその場を離れていく。


「ださ……」


 私みたいな子供にビクビクしてさ。大人の癖に。


 そう思いながら、去っていく彼の背中を見つめる。すると、青年は前から来た大柄な男に体をぶつけられているのが見えた。


「おい、邪魔だ!」


「す、すみません……」


 明らかに相手が悪いのに、青年はペコペコと頭を下げている。


 本当に情けない。きっとあの人の良さそうな青年も、悪人に利用されるだけされる、悲惨な人生を送ることになるんだろうな。


 そのまま見ていると、男は舌打ちをしながらこっちに近づいてくる。


 ――その時だった。


「スリよーーーーっ! そこの大男よ! 財布を盗られたわ! 誰か捕まえてぇえ!!」


 突然、橋の上に甲高い女性の叫び声が響き渡る。


 何事かと思って見てみると、大男の背中に向かって、中年のおばさんが必死の形相で追いかけてきていた。


「ちっ! くそったれ! 気づかれたか!?」


 大男は焦った表情を浮かべると、こっちに振り返り、走り出す。


「ちょっとあなた!」


 私は咄嵯に大男を呼び止めようとするが――


「邪魔だガキ!」


 男はその大きな手で、橋の欄干に手をついている私の体を突き飛ばした。


「――え? きゃあああっ!」


 ふわりとした浮遊感に包まれたと思った瞬間、私の体は宙に投げ出される。


「うわあぁぁぁぁ! 子供が落ちたぞぉお!」


「大変だ! 早く助けるんだ!」


 橋の上から悲鳴が上がり、人々が口々に叫ぶ声が聞こえる。私は必死に手足を動かすが、空中では思うように動けず、重力に従ってどんどん落下していく。


 そして、全身に強い衝撃を感じた直後、体が水の中へと沈む感覚があった。


「がぼっ! ごばっ!」


 息ができない――苦しい。


 パニックになった私は水面を目指して泳ぐが、流れが速く、上手く前に進めない。


 やがて、意識が遠のき始める。


(ああ、私はここで死ぬのか。お父さんとお母さんもこんな苦しみを味わって死んだのかな)


 走馬灯のように父と母の姿が脳裏に浮かぶ。



 ――だが、次の瞬間。



 誰かが私の体を強く抱きしめるのがわかった。


 温かい――この腕は誰のものだろう。お父さんとお母さんが迎えに来てくれたのかな。


 薄れゆく意識の中でそんなことを考えながら、私はゆっくりと目を閉じた。


「――み! ――うぶかっ! しっかりしろっ!!!」


 誰かの声が聞こえてくる。


 でも、もう何も考えられない。ただただ眠い。このままずっと寝ていたい。


「――くそっ! やむを得ないかっ……。ごめん、ちょっと失礼するよ」


 なんだかよくわからないけど、胸のあたりを押されているような気がする。セクハラで訴えてやろうかな。


 そして、唇にやわらかい何かが押し当てられる。これは一体なんだろう。


「……げほっ! ……けほっ! はぁ、はぁ……あれ?」


 口から大量の水が吐き出され、呼吸ができるようになって、私は目を開ける。


 目の前には、一人の青年の顔がドアップで映っていた。端正な顔立ちをしたその青年は、私と目が合うと安心したように微笑む。


「ああ……よかったぁ……。間に合ったみたいだね」


「……え? あなたはさっきの……。助けてくれたんですか……?」


 私が尋ねると、彼は困ったように頬を掻いた。


 青年は先ほど橋の上でちょっと会話をした、あの頼りなさそうな印象を受ける人だった。


 彼が助けてくれなければ、私は今頃どうなっていたことだろうか。きっと、溺れて死んでいたに違いない。


 上を見れば、橋から大勢の人達が私達を見下ろしているのがわかる。


「もしかして! あ、あんなところから飛び降りたんですか!? な、なんで……?」


 赤の他人のために、どうしてそこまでのことをしてくれたのかがわからなかった。しかも私は彼に酷いことを言ったはずなのに。


「なんでって……。危ないと思ったら身体が勝手に動いてたんだよ。理由なんて特に無いよ」


 そう言って彼は恥ずかしそうに笑う。


「ば、馬鹿なんですか!? 死んだらどうするつもりだったんですか! 意味ないですよ! 人助けなんかしても、自分まで死んでしまったら元も子もないじゃないですか!」


「でも、僕も君もこうして生きているわけだし……。結果オーライってことでいいんじゃないかな」


 そう言うと、彼は再び笑顔を見せる。


 ――なにそれ。意味わかんないし。やっぱり馬鹿なんじゃなかろうか?


「こんなことしたって……。神様が見ているわけじゃありませんよ? 天国に行けるかもわかりませんよ?」


「そうかもしれないね」


「私も感謝なんてしないかもしれませんよ? ただ無駄死にしてただけかもしれませんよ? 正義の味方なんて何の得にもなりませんよ?」


「そうかもしれない」


「だったらなんで!?」


 思わず叫んでしまう。


 すると、彼は少し考え込む素振りを見せた後、私の頭を優しく撫でてきた。


「神様は見てないかもしれない、感謝もされないかもしれないね。それでもさ、僕は自分が正しいと思うことをしたいんだ。だから、きっとこれで良かったんだと思う。それにさ、正義の味方は確かに何の得にもならないのかもしれないけど――――」


 そこで言葉を切ると、青年は私の目をまっすぐに見つめてくる。


 そして、ゆっくりとこう告げた。


「カッコいいだろう? ヒーローっていうのは」


 その瞬間、彼の瞳を見た私は何故か泣きそうになった。理由は自分でもよくわからないけれど、とても大切なものを見つけたような気がしたのだ。


「それに、神様は見ていないかもだけど――――」


「おーーーーいっ! 兄ちゃん達大丈夫かーーーっ!?」


「女の子は無事? 怪我はない!?」


「兄ちゃんすげーな! カッコよかったぞ!」


 橋の上から大勢の人が降りてきて、次々と声をかけてくれる。彼らは皆、口々に心配の言葉を投げかけてくれていた。


 その光景を見て、私はハッとする。お兄さんはニッコリ笑って私の肩に手を置いた。


「人は見てるよ。正義の行いはきっと報われるんだ。神様が見ていなくても、みんなが覚えていてくれる」


 その言葉を聞いた瞬間、私の目に涙が溢れた。


「わ、わだしのおどうさんはテロリストと戦って! おがあさんはわだしを庇って!! それで……っ!」


 泣きながら青年に抱きつく。彼は黙ったまま、ただただ優しく背中をさすってくれる。


「そうか……。君がニュースでやっていた嬉野夫妻の娘さんだったのか……」


 私の話を聞いた青年が呟く。その表情は悲痛なものになっていた。


「君はお父さんに助けられた少年のインタビューを見たかい?」


 青年の言葉を聞いて、私は首を横に振る。あの事故のことはショックが大きくて、テレビはほとんど観ていなかった。


 私が否定の意を示すと、青年は静かに語り始める。


「彼は言ってたよ。君のお父さんは自分のヒーローだって。将来は君のお父さんみたいに人を守れる大人になりたいってさ。――彼は今、警察官を目指して頑張ってるらしいよ」


 その話を聞くと、私の目からはまたポロリと大粒の雫がこぼれ落ちた。


「君のお父さんは最後に絶望の表情を浮かべていたかい? 正義の行いに後悔していたかな?」


 父は……最期に笑っていた。


 そうだ、私や他の乗客達が助かることを確信したかのように、優しい笑顔をこちらに向けていた。


 お兄さんは私の頭に手を置くと、再びニッコリと微笑む。


「君のお父さんは、カッコよかっただろう?」


「うん!!! がっごよがっだ!!」


 【挿絵】

https://kakuyomu.jp/users/mezukusugaki/news/16817330662976748310


 私は嗚咽を漏らしながら何度もうなずく。


 すると、青年は満足そうにうなずき、そして言った。


「どうせ生きるのなら、格好よく生きようじゃないか。自分の信じる道を進む。たとえそれがどんなに困難な道であったとしてもね。君もそんな人間になりなさい」


 私はその言葉を聞き、大きく息を吸い込んだ後、勢い良く返事をする。


 それは、今までの人生で一番大きな声で叫んだ一言だった。


「はいッ!!!」


 橋の上から降りて来た人々は、そのやりとりをずっと見守ってくれていた。


 誰もが、まるで我が子の晴れ舞台を見守るかのような温かい眼差しを向けてくれているのがわかる。


 その時、1人の男性が大きな拍手を始めた。


「いやー! 兄ちゃんすげぇな! 感動したぜ!」


 大柄で筋骨隆々とした体格の男性で、年齢は40代くらいだろうか? 彼はニコニコ笑いながら、私達のもとに歩いてくる。


「ほら、これ兄ちゃんのだろう? あんたもスられてたぜ」


「え……?」


「ん? これ兄ちゃんのじゃないのか? えーと、桜井心一。お前さんじゃねぇのか?」


 その男性は、手に持っていた財布から、身分証明書のようなものを取り出してお兄さんに見せた。


「あっ! 僕の財布!? もしかしてさっきぶつかったときに!」


「ああ、追いかけてボコボコにして取り返してやったぜ。はっはっはっはっは!!!」


 豪快な笑い声を上げる男性。お兄さんは困り顔で頭を掻いている。


「それじゃあ俺はスリのやつを警察に突き出してくるわ! んじゃな! 兄ちゃん達!」


 そう言うと、その男性は颯爽と走り去っていった。


 その姿を見て、ギャラリーの人達がボソリと呟く。


「今のって黒鉄龍馬じゃないか? サングラスしてたけど絶対そうだろ」


「ああ、間違いないな。まさかこんなところで会えるとはなぁ」


 その会話を聞いて、私はお兄さんの方に視線を向ける。


 すると、お兄さんはハッとした様子で慌て始めた。


「うそっ! 今の人、黒鉄龍馬だったの!? うわー、サイン貰えば良かったなぁ」


 先ほどまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら。急に子供っぽい態度になったお兄さんを見て、思わずクスリと笑みが溢れる。


「スリを撃退するとは流石だなぁ……。カッコいいなぁ……」


 キラキラした瞳でどこか遠くを見つめている彼の横顔を眺めながら、私は心の中で呟いた。



 ――あなたの方がカッコよかったですよ。



 空を見上げると、そこには雲ひとつない青空が広がっていた。


 私は大きく深呼吸をして、胸いっぱいに空気を取り込む。


 いつの間には私の心は、この澄んだ青色のように晴れ渡っていた。今なら、とても清々しい気持ちで前に進むことが出来るような気がする。


 これからはどんなことがあっても、もう大丈夫。


 だって、私の心には――――


 いつまでもヒーローの姿が焼き付いているのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る