第042話「嬉野莉音、小学4年生の夏④」
あれから数日が経過し、ようやく退院の日を迎えた。私自身、怪我は殆どなかったのだが、精神的なショックが大きく、入院が続いていたのだ。
あの日から、ずっと心ここに在らずといった感じで、私はぼんやりと日々を送っていた。父が助けた子供の家族が何度もお礼を言いに来たが、それにも上の空で返事をするだけだった。
ニュースではテロリストと戦って乗客を助けた日本人男性とその妻が犠牲になったと報じられた。
父と母を英雄だと褒め称える報道もあったが、私にはとってはどうでもいいことだった。だって、両親がもう帰ってくることは絶対にないのだから……。
重い足取りで病室を出て、中庭へと向かう。すると、そこには先客がいた。
恰幅の良い白髪の老人――――毒島正臣だ。彼はいつも通りニコニコとした笑顔を浮かべていた。
私はその顔を睨みつける。
……どうしてこの人はこんなにも平然としているんだろう。彼のせいで私の両親が死んだというのに、まるで何もなかったかのように振舞っている。
ぼんやりとしていた頭が一気に覚醒し、怒りが湧き上がってくる。
私は拳を握りしめ、彼に詰め寄った。
「あなたは!!! どうしてお父さんとお母さんを見捨てて逃げたんですか!? お母さんはあんなに酷い怪我をしてたんですよ! お父さんはテロリストに追われてたんですよ! 普通なら、助けようとしますよね!? なのに、なんで……」
だが、彼は私の言葉に動じることなく、ゆっくりと中庭のベンチに腰掛けた。
そして、穏やかな口調で語り始める。
「うむ……。莉音ちゃんには大変申し訳ないことをしたと思っておる」
彼は深々と頭を下げた。その態度に一瞬戸惑ってしまう。
しかし、すぐに「じゃが」と言葉を続けた。彼の目つきが鋭くなり、威圧感が増す。
「あのボートには怪我人や女子供も沢山乗っておったのじゃぞ? 銃を構えたテロリストに突っ込んでいくなんて危険すぎる。そんなことをしたら、君やワシ、そして君のお父さんが助けた子供まで殺されておったかもしれん。それでよかったのかのぅ?」
「そ……それはっ!」
確かに彼の言っていることは正しい。でも、それはあくまでも理屈の話であって、感情的には納得できない話だった。
「そ、それでも! 助かる可能性があったのなら、助けるべきだと思います! 先生が2人のところに船を向かわせていれば、きっと――」
「全員助かった可能性もある。じゃが、乗客全員が死んでしまった可能性も十分にあったのじゃ。それならば、少しでも多くの人を助けるために最善の選択をしなくてはいけない。じゃから、ワシは君に恨まれるのを承知の上で、あの場から離れたんじゃ。わかるかね?」
諭すように言われ、私は押し黙ってしまった。
彼が言っていることも理解できる。あのままだと、みんな死んでいたかもしれない。だけど、それでも……。
私は俯いて、ぎゅっとスカートを握ることしかできなかった。
この人は、大人として、政治家として、とても立派なのだろう。きっとその行動は正し――
「――と、でも言っておけば、いいおじいちゃんに見えるかのう?」
「……え?」
突然、毒島先生の雰囲気が変わった。顔を上げると、そこには先程までの好々爺のような雰囲気はなく、狡猾な笑みを浮かべた老人が座っていた。
老人は懐から煙草を取り出すと、火をつけ、紫煙を吐き出しながら口を開く。
「んなもん単純にワシが死にたくなかったからに決まっておるじゃろうが。ワシは自分の命が一番大事じゃ。そりゃ余裕があったら君のご家族を助けにいったじゃろう。じゃが、あの状況ではとても無理な相談じゃ。まあ、君のお父さんは警察官であり、他人を守って死ぬのも仕事のうちじゃ。多くの人を助けるために自らを犠牲にした。君はそれを誇らしく思うべきじゃないかの? かっかっか!!」
「あ、あなたという人は!! よくもぬけぬけと!!」
あまりの言い草に頭に血が上る。
これがこの老人の本性なのか! 少しでも立派な人物だと見直した自分が馬鹿だった!
私の怒りの視線を受けても、全く怯むことなく、彼は笑いながら言葉を続ける。
「ワシのことを血も涙もない冷徹な人間だと思うかの? じゃがなぁ……ワシほど人間らしい人間は他にいないと思うとるよ。むしろ君のお父さんの方が人として異端なんじゃないかの?」
意味不明の戯言に、私は思わず耳を疑う。
父が異端? あの優しくて、正義感があって、誰からも尊敬されていた父が? 何を言ってるんだ? この男は。
あまりの暴論に唖然とする私を見て、毒島は口元を歪めて笑う。
「むかしむかし、あるところに2人の男がいたそうな。1人の男は心の底から善人で、どんな時も他人のために行動するような男だった。彼は生涯禁欲を貫き、自分を顧みず、ただひたすらに世のため人のためだけにその人生を費やした。その結果、彼は多くの人を救い、感謝されながら死んでいった」
突然、始まった昔話に私は眉をひそめる。だが、毒島の話は止まらない。
「もう1人の男は、悪人だった。自らの欲望のままに人を殺し、女を犯し、街という街を侵略していった。彼を多くの人を不幸にし、恨まれながら死んでいった。
……さて、この2人のうちどちらがより人間らしい生き方をしたと言えるかな?」
そんなの答えるまでもないことだった。
前者は素晴らしい人間で。後者は最低最悪のクソ野郎だ。
「前者だと思ったじゃろ? じゃが、違うんじゃ。ワシは後者こそが人間の真の姿であると確信しとる」
「……え? 何で?」
あまりに突拍子のない考えに、私は戸惑ってしまう。
毒島は楽しそうに笑い、私を見つめながら、ゆっくりと語り出す。
「前者の男は子孫を残さずに死んだ。彼の遺伝子はそこで終了しておる。なんの偉業も成し遂げられず、誰にも知られることなくひっそりと死に、そしてその名は歴史にも残っておらん。対して、後者の男は大量の子孫を残した。ワシや莉音ちゃんもその男の血を引いておるかもしれんのぉ。そして、その男は大英雄として歴史にも残っておる。多くの国を統一した覇王としてな」
毒島先生はニヤリと邪悪な笑みを浮かべる。私はその笑顔に恐怖を感じてしまう。
「一説によると我々の子孫であるホモサピエンスはネアンデルタール人と比べて、より残虐だったからこそ生き残ったとも言われておる。先程の後者の男と同じじゃな? 我々人間はそうやって生き残って、進化してきたのじゃ。そして、人類の進化の突端に今の我々はおるというわけじゃ」
そう言って彼は私を見据えてくる。その瞳はまるで、獲物を狙う肉食獣のように鋭く、恐ろしいものだった。
「つまり、ワシら人間は本質的に"悪のDNAを引き継ぐ者"ということじゃ。そして、正義の味方こそが! 自らを省みず、他者ばかり救おうとする善人こそが異端! 時折思い出したかのようにこの世に現れ、悪に利用されて消えていくだけの偽物よ!」
「そんなことはない! お父さんは立派な人だった! 沢山の人に慕われていた! だから――」
「もしあの場にワシがいなかったら君はどうなっておった? 君のようなタイプは両親を置いて逃げ出すなど絶対にせんじゃろう? 君だけならきっと両親と共に死ぬ道を選んでいたはずじゃ。それで嬉野の血筋は途絶えて終わりじゃ。これが異端と言わずになんと言う? まるで淘汰されるべくして生まれてきたような存在ではないか!」
私は言葉を失う。反論しようとしても、何も思い浮かばない。
幾度となく次期総理大臣候補として噂されてきたこの男に、ただの小学生である自分が言葉で勝てるわけがないのだ。
悔しくて、情けなくて、悲しくて、私は唇を噛んで俯いてしまった。
「……あっ! あなたは……っ! きっと地獄に堕ちるっ!!」
私は震えた声で、精一杯の悪態をつくことしかできなかった。
すると、毒島は声を上げて笑う。その顔は愉悦に満ちていて、心底楽しそうだ。
「はーーーはっはっはっ!! そうか、莉音ちゃんはまだ小学生だから知らんかったのか! …………地獄なんて、ないんじゃよ?」
「……え?」
私は呆気にとられてしまう。そんな私を見て毒島は満足げに笑い続ける。
「ふはははは! 天国や地獄なんてそれこそ人間が考え出した妄想に過ぎん。私や両親は善人だからきっと死んだら天国に行って幸せになれるはずだ。あいつは悪人だからきっと地獄へ行って酷い目に合うに違いない。そういった願望が生み出したまやかしにすぎん。もしくは、この宗教を信じれば天国に行けますよ? と支配者が愚者を操るために作った都合の良いシステムかのぅ」
「でも、悪いことをしたらきっと神様が――」
「神が見ているのならどうして君の両親のような人物を現世で幸せにしてやらん? 来世や天国なんてものより、今の方がずっと大事だとは思わんかね? それとも君は両親が天国へ行って、来世で幸せになれるのなら、今生は不幸にも亡くなってしまったが、まあしょうがないと諦められるのかの?」
私は黙り込んでしまう。ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。毒島の言う通り、天国に行くより私は父と母に生きていて欲しかった。
「ワシはこれまで散々悪いことをしてきたが、天罰なんてくだされたことは一度たりともないわい。神様という存在はいるのかもしれんが、それは人間などに然程興味はないのじゃろうて」
毒島は私から視線を外すと、ベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
「正義の味方が勝利して、悪が負けるのはそれこそフィクションの世界だけじゃ。現実では悪者ほど世に残り、善人はすぐに忘れ去られる。政治家も、世界の大金持ちも、みんな悪党だらけじゃよ。まあ、ワシは君のお父上のような正義の味方は大好きじゃがね。ワシのような悪党のためにも命を懸けて戦ってくれる素晴らしい人間じゃからな! はっはっはっ!」
「じ、地獄に堕ちろっ! クソジジイ!!」
私が叫ぶと、毒島はこちらを振り返って、ニッコリと微笑んだ。
「じゃから地獄なんてないんじゃって。……じゃが、もし、仮に地獄なんてものがあるとしたら、"地獄の沙汰も金次第"という言葉があるからの! もっと悪いことをして金を稼いでおかんとなぁ! かっかっかっ!!」
そう言って彼はまた大声で笑いながら、立ち去って行った。
残された私は、ベンチの上で、膝を抱えながら、涙を流すことしかできないのだった。
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