母(別の名を、正妻)

 御簾みすすだれ)をなかばまでかかげ(半分、巻き上げ)、日を取り入れて(日の光を入れて)、娘は小さく作られた文机ふづくえに置いた紙の、父が書いた字を、墨を付けていない筆で、なぞりながら、歌をんでいる。

「あさかやま」

「ほら、また筆が寝てしまっているわ」

 母は娘を抱えるようにして手を、筆を持つちいさやかな手に添え、共に字をなぞりながら、声を合わせて歌を詠む。

「あさかやま かげさへさえ みゆる」


御方おかた様(奥様)、かたがいらっしゃいました」

 御簾みすすだれ)の外、やって来た女房(侍女)が座って、知らせた。


かた」か。

 ここはの家だから、紀望行きのもちゆきを「殿との」とは呼べず、官名つかさな官職名かんしょくめい)で呼べるほどのつかさもない。


此方こちへ」

かしこまりました」

 言うと、女房は、なかばまでかかげた御簾の下から、内へ膝行いざりり(座ったまま、膝で進んで入って)、几帳きちょう(布を垂らした木枠きわく)を、母と娘の前に立てると、膝行いざり出る。立ち上がり、御簾を下ろす。


 女房は戻り、しばしあって(しばらくして)、もう一人、女房を連れて、紀望行と共に来た。

 御簾の外に女房二人は座り、望行も座る。几帳から娘は顔を出し、来たのが父と知ると、声を上げた。

「ちちぎみ~」

 几帳の内から出て行こうとするが、母に抱えられて止められた。


 女房二人は御簾をかかげながら(巻き上げながら)立ち上がる。掲げられた御簾の下から、望行は膝行いざりる。女房二人は、御簾を下ろし、座る。


 望行は、几帳の前に座る。

「ちちぎみ~」

 声を上げる娘を妻は抱えて、とどめたまま、几帳の内から聞いた。

「――こころみは、いかがでしたか」


 昨日の試みのことを聞くのに、「『内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょの子』の試みは」とは言わない。


ざえは、あったよ」

 沈んだ声で言うつまに、は言った。

「お喜び申し上げます」

「……………」

 望行は口閉じて、長くもだして、口開くちあく。

「喜んではいないんだ」


 几帳の内、妻は唇を噛む。けれど、つねの声(変わらない口調)で言う。

「――私に、気をお遣いにならなくていいのですよ」

が子(我が子)に、おそろしい思いをさせたくないと思うのは、心の闇(親心)だよ」


 紀望行は、長息ながいき(溜息)をつく。

「試みのたびに、吾が子に才がなくて、よかったと思っていた。だから、子に才があって、喜んではいない」

「――……それを、伯母君おばぎみには、おっしゃっていたのでしょうか」

 妻は聞いた。



 やまい寝付ねついた伯母――さきは、最後の最後まで、「あなたが、ざえのある子を産んで」と、姪である今のに、繰り返し繰り返し言い聞かせていた。



「言っていたよ」

 望行が答えた。


 しばしあって、几帳の内から、娘の声が聞こえた。

「はは~、いたいの痛いの。どこ、いたいの。」

 娘は、人が泣くのは、痛い時だとしか知らない。


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