母(別の名を、愛人)

「ははぎみ、ははぎみ、ははぎみ、」

 阿古久曾あこくそに揺り起こされて、五節ごせちは目を開けた。跳ね起きて、が子(我が子)を抱き締める。


「どうだった」

「鬼はやっつけた」

「鬼はこわくなかった」

「どこか痛くしてない」

まことに鬼なんているの」

「どんな鬼だった」

 ひしめく妓女ぎじょたちと女嬬にょじゅ(世話係)たちが、阿古久曾に問う。


 五節の師は、吾が子が帰って来た夢を見ているのではないと、うつつに返った(目を覚ました)。阿古久曾を離し、妓女たちと女嬬たちを押しのけ、内教坊ないきょうぼうを飛び出す。


 くれないあこめに、白い単衣ひとえだけを引き重ねて、紅の袴の裾を、はしたなく(行儀悪ぎょうぎわるく)両手で引き上げ、肌足はだしで駆けて、結ってもいない広がる黒髪の裾を引きずることも心に掛けず(気にもせず)、上東門じょうとうもんを飛び出す。


 夕暮れに宮中うちに近い大路おおち大通おおどおり)を歩く者も他になく、五節の師は、黄紅葉きもみじがさね(表・萌黄、裏・黄色)の直衣のうし指貫さしぬきはかま)、烏帽子えぼしこうぶる、ふくらかな身(ふくよかな体)に背から抱きついた。


「ふぁわあっ」

望行もちゆき様」

 五節の師は、紀望行きのもちゆきが上げたあやしき声(ヘンな声)に笑ってしまう。


 笑いながら、五節の師は聞いた。

が子は、ざえ(異能)がなかったの」

「……阿古久曾に、言い伝えたんだけど、君、聞いてないね…」

「才がなかったら、内教坊に帰されたんじゃないの」


 五節の師は回り込んで、望行を見上みあぐ。

 見返すと、深い闇に呑まれるような黒いまなこが、今にも泣き出しそうに耀かかやいている。


 望行は答えた。

ざえは、あったよ。君の御蔭みかげ(おかげ)だ」

 五節の師は、寝腐ねくたがみ(寝乱れた髪)を揺らして、かしらを振る。

「私は何も。あの子は、とてもおぼえ(記憶力)がいいの。あの歌も、一度ひとたびで憶えてしまったの。声も、とても響くでしょう」

 望行は指で、五節の師の黒髪をいた。

「君に似たのだね」

――望行は慌てて、手を退き、五節の師の頭に、黄紅葉きもみじがさね(表・萌黄、裏・黄色)の直衣のうしの袖を掛けた。


「こんな姿で飛び出して来て……君、肌足はだしじゃないか」

 望行は、五節の師の白い単衣ひとえを脱ぎすべすと(滑らせるようにして脱がせると)、被衣かづきにして(頭にかぶせて)、顔を隠した。

 望行は、五節の師に背を向け、かがむ。


 五節の師は、紀望行の大きな背に抱きつくようにしてわれた(おんぶされた)。望行は歩き出して、言う。

「あの子を紀氏の子として迎える」

「そう。よかった」

 五節の師は言ったが、望行はみづからの両肩に掛かる手が喰い込むのを感じた。


「月に幾日いくにちか、手習てならい(勉強)のため、迎えに来るよ」

 望行に言われて、被衣かづき(被ったきぬ)の内で五節の師は驚く。

「あなたの家に、連れて行っちゃうんじゃないの」



 紀望行きのもちゆきは歩きながら、暮れてゆく空を見上げた。血を流したような色だと、思っただろうか、思わなかっただろうか。



「子は、母と共にいた方がいいように思えてね…」

 望行は、五節の師を負って、歩いて行く。


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