愛人

 右京うきょう二条の寝殿しんでんの東のたい(屋敷の東のやかた)を、一つの家として女(愛人)を住まわせていた。

 きざはし(階段)は無く、渡殿わたどの(屋根のある渡り廊下)から、家に上がる。


 父に抱えられていた阿古久曾あこくそは、前栽せんざい(前庭)の紅葉が散り敷く簀の子すのこ(外廊下)に下ろされた。

 下ろされると、阿古久曾はまどいもせず、歩き出す。


何処いづこへ行くのだ~」

 紀友則きのとものり嘲笑わらって、ゆくらかに(ゆったりと)大人おとな大人おとなしく(いかにも大人らしく)、阿古久曾の後を歩いて行く。

 紀望行きのもちゆき心許こころもとなく(心配して)、その後を付いて、紀有朋きのありともは、その後を歩く。

一度ひとたびあやまちで、しおれない(しょんぼりしない)とは、いい子じゃないか」

 有朋がでても(めても)、望行は何も言い返せない。



 紅葉もみじが散るさまを、御簾みすすだれ)越しに、女は眺めていた。


 紅のあこめ(肌着)に、色も選ばず、ただうちきを引き重ね、やつれた顔にかかる黒髪のすえは、きぬすそを余っている(衣の裾よりも長い)。


 御簾の前に現れた萌黄もえぎ童直衣わらわのうしに紅のはかま総角みづらを結ったわらわうたう。


なにはづなにわづに さくや このはな

 ふゆごもり いまは はるべと さくや このはな」

 難波津なにわづに 咲くや の花

 冬ごもり 今は春方はるべと 咲くや の花


 難波津に 咲くのでしょうか この梅の花は

 冬ごもりを終えて 今は春の頃となって

 咲くのでしょうね この梅の花は



 女のきぬに、梅の花の蕾が浮かぶ、いくつも、いくつも、埋め尽くしてゆく。あや模様もよう)と見えたそれは、見る見る(見ているうちに)ふくれ上がる。

 衣だけではない。女の顔にも、いくつも、いくつも、梅の花の蕾が浮かび、膨れ上がる。


「よく見えるようにしてやろう」

 阿古久曾あこくそを背から袖で包むように抱えて、紀友則きのとものり御簾みす帽額もこうすだれの上部の布)を見上みあぐ。


「切れろ」

 友則が言うと、帽額もこうは断ち切れて、御簾みすが落ち、女の姿があらわれる。


 紀望行きのもちゆきは、よろぼって(よろめいて)、兄の腕に支えられる。

 兄――紀有朋きのありともは、弟を支え、口縁くちびるを歪める。



「吾子(あこ)(我が子)は、私の物。誰にも渡さない。何処いづこにも行かない」

 咲くや咲くや(咲くかな咲くかな)と、梅の花の蕾に顔を寄せたような女がわらう。

「いつまでも此処ここにいるの」

 みづから(自分)の腹に両袖を重ね合わせた。


吾子あこを、一口ひとくちに喰ってしまったのだな」

 友則がまなこ赫赫かかやかせて言う。



 女の顔の、きぬの、膨れ上がった梅の花の蕾がけて、散った。



 顔も、きぬだけではなくししも、つだつだに(ずたずたに)散り、ごぼごぼと(ごろごろと)落ちる。

 あふれる血は流れ来て、足をぬるく濡らし、はかまを重くひたす。

 血の臭いに、紀有朋きのありとも臓腑ぞうふ(内臓)の底から駆け上がって来るものを、喉に苦く飲み込んだ。

 あの日。弟のこころみと、同じだ。



 弟――紀望行きのもちゆきは、そのざえ(異能)で、鬼を静めるのではなく、殺してしまった。



「ちがう・・・」

 望行の声に、有朋はうつつになる(正気しょうきに戻る)。



 女が、いたく(ひどく)しろらかな(真っ白な)顔様かおざまさらして、きぬに埋もれて倒れている。

 顔も、きぬも、傷もなく、血の跡も臭いも、ない。


 友則の腕の中、阿古久曾は笑み顔で、父を返り見る。

「ちちぎみっ、できたっ」


「ああ、できたね」

 見返して言う父は、悲しい顔様だった。


友則とものり

 名乗るいとこぎみを、阿古久曾は見上みあぐ。

(私の名)だ」

 いとけない(あどけない)笑み顔に見下ろされた。

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