正妻

 紀氏の子は、袴着はかまぎ(幼児が初めてはかまける儀式)ののち、鬼を静めるざえがあるか、こころみ(試験)をする。


 「妹」と言っても、阿古久曾あこくそと同じ日に生まれ、母のはらからで来た時がおくれただけだ。

 生まれた日には、むか(正妻)のいる母屋もや本殿ほんでん)と、内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょを招いた西のたい(西側の建物)の間の渡殿わたどの(屋根のある渡り廊下)を、紀望行きのもちゆきは行き返りする(行ったり来たりする)ばかりだった。



 妹は、言うまでもなく阿古久曾と同じ四歳。

 この日のために、父から与えられた萌黄もえぎあこめ袴着はかまぎもちいたくれないの袴。母がくしけずった(櫛でかした)振り分け髪(下ろした髪を額の真ん中で左右に分けて垂らした髪)。


 御簾みすすだれ)の前、簀の子すのこ(外廊下)に、父(紀望行きのもちゆき)と伯父(紀有朋きのありとも)と従兄いとこ紀友則きのとものり)を従えて、妹は座っている。



「北のかたこと上手じょうずと聞きまして、我が娘に習わせたく思い、お願いに参りました」

 紀望行が言うと、御簾の内、顔の前に開いた扇をかざして、端近はしぢかく(外に近いところに)座っていた女房にょうぼう(侍女)は、黄菊のかさね(青(薄緑)・淡黄・蘇芳すおう(暗紅色))のきぬすそを引き、膝行いざり(膝で進んで)り、とばりを下ろした御帳台みちょうだい(一段、高く作った台の上)の内に座る北の方(正妻)に、小さな声で伝える。

 北の方は、女房に小さな声で応える。



 高貴あてなる女は、男に顔も見せず、声も聞かせてはならないのだ。



 扇を顔にかざした女房は膝行いざり、御簾の端近はしぢかく(外に近い所)まで戻って、北の方のいらえを伝える。

「どうぞ姫を内に」


「お許し、かたじけなく(ありがとうございます)」

 望行は言って、有朋と共に御簾を巻き上げる。

 娘は膝行いざり入り――……小さやかな体が右に左に、揺れるだけで、少しも前に進まない。


「あなや(あらまあ)」

 顔の前にかざした扇のはづれ(はし)から、それを見て、女房は声を上げる。

 御簾を巻き上げたまま、心許こころもとなく(心配して)娘を見守まもる望行に、女房はかざした扇の内から言う。

「御簾を下ろしたまえ」

「っあ。かしこまりを申し上げます(すみません)」

 望行は慌てて、口の端に皺寄せて笑む有朋と共に、御簾を下ろした。


 女房は扇を閉じ、ふところに入れると、少しも前に進まない娘に膝行いざり寄り、抱え上げた。


「んぎゃっ」

 娘はおめく。


 母に、「これが『鬼』と思ったら、歌を詠みなさい」と言い聞かされていたのだから、鬼に取って喰われるとでも思ったのだろう。


 女房は抱えた娘を立たせる。

「そんなじゃ、御前おんまえ(奥様の所)に着くまで、日が暮れてしまうわ。歩いてお行きなさい」

 そう言う女房を、目を見開いて見る娘の顔様かおざま(表情)は、「このひと、情けある(やさしい)」と言わんばかりだ。


 歩いて行く娘に付いて、女房は膝行いざり、御帳台みちょうだいの前まで行く。

「あなかしこ(失礼します)」

 女房は言って、御帳台のとばりを、わずかに引き開ける。

「お入りなさい」

 御帳台の内から声がする。


 娘は紅のはかまうちの足を大きく上げ、段を上がろうとする。――御帳台から黄菊のかさね(青(薄緑)・淡黄・蘇芳すおう(暗紅色))の袖がで来て、娘を抱え上げ、引き入れた。

 女房はとばりを下ろす。



 御簾の外、紀望行きのもちゆきは膝立ちして、内を覗き込んでいる。紀有朋きのありともは、唇の端に皺寄せたままで、紀友則きのとものりは、あじきない(つまらない)顔様かおざま(表情)をしている。



 御帳台の内から、娘が歌を詠む声が聞こえて来た。

「あさかやま

 かげさへかげさえみゆる やまの

  あさきこころを わが おもはおもわなくに」

 安積山あさかやま 影さえ見ゆる 山の井の

  浅き心を 我が思わなくに


 その名に「浅い」の「あさ」が入っている安積山あさかやま

 影(姿)が写って見える山の(山の湧き水)のような

 浅い心(気持ち)で 私はあなたを思っていないのに



 北の方の黄菊のかさねの袖に包まれて、紅のはかまの上に座らされた娘は歌を詠み終えて、我賢われかしこ顔様かおざま(ドヤ顔)をする。

 北の方の口縁くちびるの両の端がり上がり、開いた。


「あなや(あらまあ)、歌がお上手ね」

 北の方は、御簾の外にまで聞こえるほどの声で言った。


 北の方の紅の袴の上に座らされた娘は、今にも泣き出しそうに顔を引きつらせる。

 北の方の笑うくちは、今にも一口ひとくちに、我が身を喰おうとしているかのようだ。


 鬼が、娘をかかえ寄せ、顔に顔を近付けた。娘のふくらかな頬に、鬼はやわらかくあたたかな頬を擦り寄せる。


「鬼じゃないの…」

 娘のかそけき(微かな)声も、顔を近付けていた北の方には聞こえた。

 娘の頬がひしぐ(つぶれる)ほど、頬を押し付ける。

「誰から、私が鬼だと聞いたのかしら~~~」

かしこまりを申し上げますっ(すみませんっ)」

「そんなことを言うと、『鬼だ』と、お前が娘に言ったみたいだぞ…」

 御簾の外からおめく望行に、有朋が言った。友則は、あじきない(つまらない)顔様かおざまでいる。


「誰が言ったかは、分かるけれど」

 娘から頬を離しながら、北の方が言った小さな声は、御簾の外には聞こえなかった。御帳台の側に居る女房には聞こえていて、黄菊のかさねの袖を顔の前にかざして、笑いをこらえる。


 娘は、北の方を見上みあぐ。



 北のかたを鬼だと分かったから、歌を詠みかけたのではなく、情けある(やさしい)女房は鬼ではないと見なして、北の方を鬼と見ただけだ。



 北の方は、娘の振り分け髪を撫でる。

「さても(やっぱり)、姫(女の子)は、でたき(愛らしい)ものねえ…」

 長息ながいきく。

「私は、男子をのこしか産めなくてねえ」


 北の方が目を伏せたのは一時ひとときで、目見まみ(目元)と口のはしに皺寄せて、笑む。

「でも、ほどなく(もうすぐ)、この家に姫がいらっしゃるのよ。あなた、うちの姫のお友達になってくれるかしら」

「お友達っ。なるっ。」

 娘は声を上げた。


――それが、昨日のこと。

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