第9話 6.もう忘れましたよ

「大原さん、辞めない方が良いと思いますよ」

 遠藤と久しぶりに一緒の早番の後、二人でパチンコをして居酒屋へ行くと、そんなことを言う。店の同僚何人かに辞めようと思っていることは何となく言ってある。遠藤に言った覚えはないが、誰かから聞いたのだろうか。軽く追及してみるが、口を割らない。あるいは、誰かから思い直させるように言われたのかも知れない。

 辞めない方が良い、というのは確かにそうだろう。和彦は、不器用で口下手。新しい仕事、新しい職場で仕事を覚えるにも人間関係を築くにも人一倍時間が掛かることは目に見えている。ただ、遠藤も他の同僚達も自分の一面だけしか見ていないように和彦には思える。遠藤が割にしつこく和彦に翻意させようと頑張るので少し苛立ち、ついポロリと口に出る。

「でも、こんなことするために東京に来たんじゃないからなあ」

「え、何か、やりたいことでもあるんですか?」

 和彦は慌ててごまかす。

「いや別に、何か特別にこれがやりたいってないんだけど、今みたいなのは何か違うなって」

 ライター講座に通っていることは言いたくない。店の同僚に知られて茶化されたくない。

 東京へ来た一番の理由は、今までの自分をリセットしたかったということに尽きる。出版関係の仕事に就くことは半ば諦めていたし、京都で就職しても良かったのだが、今までの自分が知らない全く新しい環境で生きたい、との思いが強かった。

「そんな気がするだけじゃないですか?こんなもんでしょ」

 ライター講座へ行ってることを隠して曖昧な答え方をしたのでこんな反応になるのだろうが何か分かったような言い方で、和彦の人生がこんなもんと言われたような気がして、一体に遠藤は和彦に対して時にこんな風に諭すような態度を取るが、少しカチンと来たので、和彦も遠藤の触れられたくない話題を口にする。

「遠藤はそういうの、ないの?学校は?何か勉強したいことがあって東京の大学へ来たんじゃないの?」

 遠藤の表情がたちまち歪み、心底嫌そうな顔になる。

「そんなの、もう忘れましたよ!」

「何かやり残した感じ、ない?」

「ああ、よく分かんねえ!」

 捨て台詞を吐いて水割りをあおる遠藤も、以前は何か夢や希望のようなものを持っていたのかも知れない。一時期は毎日行動をともにしていた愛媛から出て来たこの若者のことを、和彦は結局何も知らずに終わりそうだ。

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