第7話 5-2.学校終わりの集まり

 六月第一週目の講義の後、事務局の森川さんの呼び掛けで授業終わりに食事へ行くこととなった。学校から近い水道橋の居酒屋に、男女十人以上が集まった。

 和彦は男性ばかり四人が集まる席で話した。二人は三十代で、うち一人が出版関係の仕事、一人は関係のない仕事をしている。もう一人は和彦と同年代か、少し年上か、と思っていたら一歳若く、この春、仙台から東京へ出て来て建築現場で働きながらライター講座へ通っている。戦後日本を作った元首相と同じ吉田茂という名前で、無精ひげを生やしずんぐりむっくりの体型をしているが、弁が立ち、よく飲みよく食べて、場を仕切っていた。

「僕の名前は吉田茂だけど、戦後の政治には批判的で、今はPKO法案に反対です。同和問題にも関心があって、あらゆる差別に反対です。あなたは、どういうお考えですか」

 いつも通うパチンコ屋の同僚達と話す時とは、かなりの温度差がある。三十代の二人も彼の勢いに圧倒され、苦笑いを浮かべている。和彦は吉田茂からの質問に対して、自分の率直な感想を述べる。

「僕は、差別はなくなれば良いな、とは思うけど、人間がこの世にいる限り、なくならないんじゃないのかな」

 吉田茂は和彦の言葉をしらけきった現代日本人の代表的な意見と取ったようで、猛反撃してくる。

「じゃああなた、何で書いてるの?書こうとする者は世の中を良くして行こうとか、そうじゃなくても何か訴えようとすることがあるはずで、書く姿勢と言うか使命感と言うか、そんなものが必要なんじゃないですか?」「うーん、でも、皆が皆、使命感を持ってるわけじゃないんじゃないですか」

 吉田茂の勢いに圧されて口調まで似てくるが、和彦は正反対の意見を返す。


 和彦も、世の中、と言うか政治の動きに、疑問や怒り、憤りを覚えた経験はある。

 京都は全国水平社の発祥地でもあり、共産党の知事を輩出するなど革新勢力が強い。和彦の通っていた中学校区には在日韓国朝鮮人地区や同和地区があった。高校時代、赤旗の配達アルバイトをしていた和彦は、毎朝配り終えてもらってくる新聞に書かれている国家機密法の記事を読んで憤りを感じていた。一般紙やテレビがこのことをあまり取り上げず、話題にならないことも疑問だった。

 当時は中曽根首相が長期政権で、靖国神社に公式参拝したり日米安保を強化したりするなどの社会背景があったが、中でも国の秘密を知ると逮捕され最高刑は死刑もある国家機密法を制定しようとしていることには批判が集まっていた。

 世間の人々はバブル経済の最盛期を謳歌していた。松田聖子の豪華な結婚式が生中継され、ペーパー商法の豊田商事が告発され、会長が報道陣の目の前で刺殺された。夏には日航機が墜落し、ロス疑惑の三浦和義容疑者が逮捕された。『夕やけニャンニャン』が高視聴率を獲得、おニャン子クラブが大人気となった。阪神タイガースが二十一年ぶりに優勝、日本一にもなり関西が大いに盛り上がった。PL学園の清原・桑田がドラフトで明暗を分けた。ダイアナ妃が来日した。世の中に刺激的な話題が溢れていたので、和彦が同級生達に国家機密法や日米安保の話題を持ち掛けてみても、何言うてるんやお前、勉強もせんと、と言われ、高校生は難しいこと考えんと勉強してたらええんや、とも言われ、そんな話する奴は時代遅れや、と一蹴されもした。

 国家機密法案に対して関心を持ったのは、高校卒業後は出版関係の専門学校へ進み、物を書く仕事に就きたいと思っていて、戦前の治安維持法の再来とも言われるそんな法律が出来てしまえば自由に物が言えなくなり書けなくなる、との危機感からだった。やがて自身の進路への考えがブレた挙句、出版の仕事に携わることを諦めると同時に、世の中に湧き起っている様々な出来事にも関心が薄れていった。国家機密法案は野党の審議拒否などが功を奏して廃案となり安堵したが、赤旗の配達を辞めると、実家で取っていた京都新聞にはそれほど詳しく政治的なことは書かれておらず、世の中の出来事に対する問題意識も薄れていった。

 東京で一人暮らしを始めると新聞を取る金銭的余裕もなく、テレビすらなかったこともあり、天安門事件、東西ドイツ統一、ソ連崩壊、湾岸戦争など世界でも日本でも大きな変化が起こっていたのだが関心を持たなかったし、全く知らなかったニュースもあった。世の中の出来事は、形を変えて同じ現象が起こり続けているだけにも見えた。PKOへの反対や牛歩戦術のニュースをちらりと目にしても、国家機密法の時と同じことをやっているな、としか思えず、興味が湧かなかった。

 あなたの言っていることは、人間には闘争心があるから戦争はなくせない、と言ってるのと同じだ、と和彦の意見の本質を吉田茂はずばりと突いてくる。和彦と吉田茂の論点は噛み合わないが、合間に、東京で一人暮らししている者どうしの貧乏生活ネタを交え、笑顔でビールを酌み交わしながら友好的に話したので、意見は違ってもケンカ腰にはならない。彼もこの学校に将来を賭けているようで、その点でも話は盛り上がった。

 他の人達の多くは既に出版関係の仕事に就いていて、文章力のブラッシュアップを目的として来ている人が多いようだ。途中から席に入ってきた事務局の森川さんは、吉田茂と和彦の噛み合わない会話を聴きながら講義の時にはみられなかった鋭い目を向ける。和彦の、差別はなくならない、との言葉を聴くと、打たれたように凝視する。

 やがて、ぽつりぽつりと森川さん自身が六〇年代に学生運動をやっていたことなどを話し始める。その頃は時代が熱かったんですね、もう少し早く生まれたかったなあ、と吉田茂が羨望の眼差しを森川さんに向けると、和彦も同調する。物事の上っ面を追い駆ける傾向の強い今の時代よりも少し前の時代の方が自分に合っている気はする。

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