第3話 3-1.古書店街を歩くうちに

 年末年始の出勤には、給料に手当が加算される。例年、和彦は十二月三十日頃から正月三が日は出勤し、四日、五日あたりに休みを取ることにしている。年末年始のパチンコ店は普段よりも客の入りが多く、忙しい。

 一九九二年最初の休日は一月五日だった。いつも和彦にまとわりついて来る遠藤もこの日は出勤しており、和彦は久しぶりに誰からも邪魔されず休日を過ごすことができる。ふらっと、板橋本町駅から都営三田線に乗る。行き先は、神保町。東京へ出てきたばかりの頃、一人の時間を持て余し、お金もないので、神保町の古書店街で時を過ごした。当時の、寂しさを抱えながらも気楽で身軽な感覚を、年末年始のハードな勤務を終え、突然ぽっかり空いた時間、思い出し、懐かしくなった。

 子供の頃から、本屋がある意味で逃げ場所のようになっていた。和彦の父は自営業で、サラリーマンのような休日もなく、一日中家で仕事をしていた。日曜日や夏休み、冬休みなどに和彦が家にいるのはうっとおしいようで、お前、どこも行くとこないのか、外へ遊びに行け、と追い払った。仕方なく和彦は誰か同級生の家を訪ねようと思うが、もともと引っ込み思案なことと球技などのスポーツが苦手なことで友人が少なく、本屋で長時間立ち読みをすることで時間をやり過ごした。当時は本屋も立ち読み客を追い払う所が多く、和彦は店員の視線を注意深く探りながら、何か言われそうになったら店を出て、別の本屋へと移動する。本屋のはしごを続けて一日が終わることもあった。本を読むことで息を吹き返し自分を取り戻している感覚があり、将来は本を書くか、本に関係する職業に就ければ、とぼんやり思った。

 高校一年、二年の頃、東京にいくつかある出版系専門学校の資料を取り寄せた。和彦の高校時代、専門学校のイメージは大学とは違い、ちゃんとした学校とは言えない、との偏見があった。大学へ行くか就職するのが真っ当な生き方で、それ以外は認められない空気が残っていた。和彦の専門学校志望は、まず親が反対した。友人達には専門学校への偏見はなかったが、出版系へ行きたい、との和彦の希望を、華やかで忙しいそんな業界はのんびりして鈍いお前には向いていない、と断じた。友人の誰に言っても同じような反応で、あまりにみんなから同じことを言われ続けると、やめといた方が無難かな、と思うようになってきた。

 高校三年になった頃には和彦の熱も醒めていて、専門学校への進学はやめて就職試験を二社受けたが、高校時代の欠席日数が多過ぎたせいか二社とも落ち、ヤケクソ気味に大学を一つ受け、やっぱり落ちた。仕方がないので高三の秋からアルバイトしていた牛丼屋でそのままバイトを続けながら、将来のことをゆっくり考えようと思った。一年半が過ぎ、二十歳の誕生日を迎えた。だめだ、このままでは、とあせって牛丼屋を辞め、とにかくスタートラインに立たなくては、との思いで、東京へ来た。

 上京当初に通い詰めて以来、久しぶりに神保町へ来た和彦は、書店の数々に片っ端から入り、本を手当たり次第に読み倒し、時間が経ったことに気付き、少し路地を入って、白木のカウンターだけの天丼屋・まるやで遅い昼食をとる。

 古本屋を巡り歩くうち、水道橋駅近くまで来た。ガード下のパチンコ店・うつのみやの前で信号を待っていると、渡ろうとする先のごちゃごちゃとした界隈に『東京出版学校』の、注意しないと見落としそうな縦長で濃紺の看板が見える。和彦が高校時代、何度か資料請求した学校のうちの一つだ。こんな所にあったのか。和彦は東京へ出て来てから、かつて自分が京都にいた頃、学校の資料を請求し学生生活を夢想したいくつかの専門学校のどこにも、実際には足を運んだことがなかった。出版・マスコミ系の専門学校へ行くなどという夢は、忘れ去っていた。学校の現物を思い掛けず目にして、和彦が思い描いていた物よりも遥かに小さく古ぼけた感じの細長いビルでしかなかったが、あ、専門学校っていうのはこんなのなんだな、高校までと違って、大学とも違う、職業についての専門技能や知識を身に付けることに特化した場所なのだな、と改めて気付いた。結局、高校卒業後、大学へも専門学校へも行かなかった和彦は、懐かしい友人に再会するような感覚で、東京出版学校の建物を見上げた。横断歩道を渡って学校の側へ来た和彦は、少し立ち止まり、ビルの薄暗い入口を覗いた。入口からいきなり急な階段になっている。壁に、新年度学生募集要項あります、との手書きの張り紙があった。和彦は、階段を昇ってみる。二階へ上がって薄暗い廊下へ出ると部屋があり、年季の入っていそうな引き戸式のドアが半開きになっている。思い切って部屋の前まで行くと、三十代位の、ジーンズ姿で地味な感じだが化粧をしたりファッションに気を遣うときれいになるのでは、と思える女性が椅子に座ったまま振り向き、こんにちは、と応対する。和彦も、こんにちは、とぎこちなく挨拶した後、一瞬何を言おうか逡巡したが、学校の案内はありますか、と尋ねてみる。女性は青いB4サイズの封筒を渡してくれた。

 

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