5.ここにいようよ(詞:金木ジュン)

5-1



 人体は不思議なものでまずいことがあると酔いがさっと醒めて、私は即配信を停止して録画も消す。それから、いやこの流れで咄嗟に消すより、言い間違いですよ、みたいにごまかしたほうがよかったんじゃないかと思う。

 冗談とかじゃないんだ、ってこともバレてしまったんじゃないか?

 私は、何をしているんだ? 思い出すのはいつかルラ子に言われた忠告。《薊、お前たぶん酒で酔うと言っちゃいけないこと言うタイプだから気をつけろな》。仰る通りだ。最悪だ。ルラ子のことを考えて酒を呑んでいたはずなのに、ルラ子の言葉を忘れて寄った状態で配信? 最悪だ。最悪。全部が。

 自責で忙しい私のスマートフォンが鳴り出して、見ると増田くんだ。

 増田くん。すれぶくん。私のアウティングの被害者。

 どうすればいい、って大人しく出るしかない。大人しく貶されるしかない。謝っても許してもらえないだろうけれど、謝らない、話さないという無礼を働いていい理由にはならない。私は私自身の矮小さより先に、私の罪そのものと向き合わないといけない。

 開口一番に謝罪を行うつもりで電話に出たら、増田くんから開口一番に言われる。


「逃げてください! 守一郎がそっちに向かっている! 薊さんが殺される!」


 そうだ。何を失念していたのだ。私の弟もまた、被害者なのだ。私の住所などが特定されない限りは、ネット上で私の弟=遊井守一郎であることは露見しないだろうけれど、同じ大学で増田くん=すれぶであることを知っている人がいたら、傍にいる遊井守一郎がその彼氏であることも推理されるかもしれないし、そう特定のようなことがされなかったところで、被害者であることには変わりない。

 秘密を誰かに言いふらされることそのものが被害だ。

 人を信じられなくなる、この世に居続けることも苦痛になる、実害だ。

 ならば私は殺されるべきだ、弟に。増田くんにも、殺されるべきだろう。

「増田くん、本当にごめんなさい。私は罰を受けます」

 私はそういって電話を切って、玄関に出る。家からは出ない。ただ、弟が来るのを立って待ち続ける。いつ到着するのかはわからないが、私の足なんて疲れればいいのだから、私の喉なんて枯渇すればいいのだから、気にしない。

 弟。ごめん。ごめんなさい。こんな姉でごめんなさい。これまでずっと、色んなことを叱ってきたけれど、いまでは全部が恥ずかしい。私は誰かに対し厳格である資格などなかったのだ。私こそがもっとちゃんと叱られて生きていくべきだったのだろう。

 どんな自責も結局のところマゾヒズム的な自涜に浸っているだけではないのか、というメタ認知すらそういう風に自分を冷静に見れている自分に酔っているだけなのではないか、と何層もの自己批判を重ねているうちに時間が経っていて、目の前のドアが殴られる音ではっとする。

 私はドアを開ける。

 そこに弟と増田くんが立っている。

 私は大学時代ぶりに他人から顔面を殴られる。あのときも男子大学生相手だったな、とかもちろんこの時点では思っていなくて、熱が鼻を食べて私は廊下にぶっ倒れている。

 鼻血が大量に出ていて、……よくわからなくなる。

「守一郎!」と増田くんが叫ぶ。弟の後ろからこちらを覗き込んで、「大丈夫すか!? 薊さん!」と言う。

 心配してくれるのだろうか。増田くんは優しい。でも私は優しくされる資格なんてない。こんな優しい子の秘密をインターネットで勝手に明かしたのだから。

「元喜、下がってろ」弟はいつになく低い声で言う。「怪我するから」

「いい加減にやめて! 僕のために他人を殴らないで!」

「増田くん」私は言う。血管の脈動を感じる。血が口に入ってくる。「止めなくていい」

「でも!」

「俺の男に勝手に口きいてんじゃねえよ」弟が近寄ってくる。「きたねえ」

「……ごめ」

 ビンタ。舌を思いっきり噛む。ビンタされた方向に吹っ飛んだ頭が廊下の壁にぶつかる。弟は私の前髪をレバーか何かみたいに引く。痛い。鼻も舌も頭皮も痛い。でもいい。痛い目を見るべきだ。痛みのなかで死ぬべきだ。

 私は弟の怒りを受け止めないといけない。どんな顔で怒っているのか目を遣ると、

「ガンつけてんじゃねえぞ」

 と弟はまたビンタをくらわす。鼓膜が破れたかと思う。

「守一郎!」増田くんが弟の手首を後ろから掴む。「いい加減に! やめて! 僕はこんなことをされても余計にモヤモヤするだけだから!」

「お前のためだよ元喜」弟は私から手を離して言う。「こいつは俺とお前がゲイで付き合ってることを知っている。そしていつでも言いふらすことができる。二度と話せないようにすることが、お前を守ることだ」

「守るって……」増田くんは泣きそうな顔で言う。「薊さんだって、もう反省するくらいの目に遭ってる。もうよくない?」

「反省なんてしてねえし、しねえよ。俺たちの痛みなんかなんにも理解してねえし、しないんだよ」弟は私を黒目だけで見下ろして言う。「Aセク女に他人の気持ちなんてわかるわけねえんだ」

 は? それは違うだろ?

 私は一気に冷静になる。自罰的な感情の勢いが停まる。そのせいか痛みをがっつり感じるようになって泣きそうだが、私は怒っている。だってそれは違うだろ、それはド級の差別発言なんですけど?

 ていうか増田くんに勝手にばらされたし!

 私にだって私のタイミングがあるのに!

 駄目だ、増田くんならともかくこのクソ弟に殺される謂れはない気がする、と思って立ち上がって逃げるなり殴るなりしようとした私の目の前で、増田くんが弟の鳩尾に拳を入れる。

「最低。もういい。別れる。さよなら」

 呻き声をあげる弟に増田くんはそう言って、玄関から出ていく。

 弟は回復してから私に顔を向けて殴ろうとするので、

「それはあとでいいだろ! 増田くん追っかけろよ馬鹿じゃねえの!」

 と私は血を吐きながら叫び、弟の拳を避けてキッチンに逃げる。念のため包丁を構えて迎撃の構えをとるが、弟は玄関から出ていく。ったく。いまから追って増田くんの場所わかるのかな、位置情報共有してるんだっけ? それだって本気で別れるつもりなら解除するなり携帯を捨てるなりできるだろうが。

 携帯。

 そういえば増田くん以外からも色々言われてるんじゃないだろうか? どんな批判も受け入れるけれど、とりあえずいまは口をゆすぐなりガーゼを使うなりして止血しないといけない。恐る恐る鏡を見ると、ちょっと鼻が曲がってる? 折れた?

 いまは午後の九時半で、とりあえず病院に電話をしようとしたところで電話がかかってくる。稗田父から。

「あ、出た。配信の件なんだけど、ちょっと会って話そうか」

「えっと、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。そしてごめんなさい、厚かましいのですが、鼻が折れたので病院が終わってからでもいいですか」

 ということで私はタクシーで病院に向かいながらメッセージアプリを開く。私が弟をまったり殴られたりしている間に稗田父と木村ちゃんが心配や困惑のメッセージをくれていて、望花さんからは何もない。増田くんからも何もない。

 SNSは怖いので見たくなかったが、見なきゃいけない、と思って開く。大炎上しているかと思ったがそうでもなくて、トレンド入りも晒されも現状していないが、非公開リストのオママゴトファンの人で、放送を聞いていたらしき人たちはざわついているというか、《聞かなかったことにしようか……》みたいな雰囲気がある。情報共有もダイレクトメールで行われているようで、外野の目に触れてオママゴトが炎上しないように気を遣わせてしまっている。

 普通に糾弾されるより申し訳がない。私自身はそんな風に守られるほど価値のある存在ではないが、オママゴトというバンドの音楽には、それだけの価値があるのだ。私だって、オママゴトが好きだから、わかる。

 好きなくせに。好きなくせに、こんなことを。

 洗顔剤さんからダイレクトメールが来ていることに気づく。《プライバシーの問題なので、詳細には書けないかもしれませんけれど、SNS上でも謝ったほうがいいと思います。聞いてる人のなかにも、間接的に傷ついていた人がいるかもしれないので》と書かれていて、洗顔剤さんは昔から真面目な人だったな、と思う。

 真面目だから世界のなかで悩んでいたし、真面目だからたまに悩み相談に乗った程度の私にずっと感謝を抱いていて、だからこそ彼女は私の行動に、そのあとの沈黙に、何も言わないではいられない。

 彼女は私を叱ってくれているのだ。本当にありがたい。本当に申し訳がない。

《ありがとうございます。ことの重大さを受け止めています。でも、私が勝手に動いていい重さの問題ではないので、バンドマスターの稗田さんと話し合って決めます。》

 病院に着く。

 だいたい二時間くらいで検査から術後の休憩まで終わって病院を出て、麻酔使ってるとはいえあんな部品みたいに治すんだなあ、と思いながら深夜のファミレスに向かう。

 その途中で向かいから増田くんがやってくる。どうしてここに、と思いながら、私は声をかける。

「増田くん」

 増田くんは立ち止まって私を見る。いくらかの距離を詰めようとはせず、ただ私を見ていた。鼻にガーゼが詰まっているのは見えているだろうか?

 私も前に進むわけにはいかなくて、とにかく話さないといけない。

 言わないといけない。

「増田くん。ごめんなさい」私は頭を下げる。「いくら謝っても、足りないけれど。ごめんなさい。あなたのプライバシーを、あなたの尊重されるべき自由を、私が壊してしまった。本当に、申し訳がないと思う。ごめんなさい」

「頭を上げてください。謝らないでください」増田くんはきっぱりと言う。「そんなことより、報告したいことがあるっす」

「報告?」

「守一郎と別れました」

 それを聞いて、胸が痛くなる。私がそもそもあんなことをしなければ、弟はあんなにも怒り狂うことはなかったのだ。私がふたりを別れさせたようなものじゃないだろうか。弟には以前から束縛的であったり過激なところはあったけれど、それでも増田くんと弟は上手くやっていたはずなのに。

 私のせいで。

「薊さんのせいじゃないです。そんな顔しないでください」増田くんは言う。「きっと最初からこうなることは決まっていたと思います。僕はずっと疑っていたし、我慢していたから」

「……何か、あったの? これまでに」

「守一郎は僕のことを愛してなんていなかった」

 きっぱりと言う増田くん。

 私は黙って、続きを待つ。

「正確に言うなら、恋をしていなかった、ということかもしれません」増田くんは読み上げるようなトーンで続ける。「きっと僕が告白を断られて腕を切って入院して、お見舞いに来た守一郎にもう一度告白なんてしたのがいけなかったんです。だから守一郎は僕を守る手段として交際を始めた。僕を守ることしか――僕を守る自分でいることしか考えていなかったんだって、クリスマスに何をどうしようと欲情してくれなかったとき思いましたし、一緒の大学に行けなくなるかもしれないのに、僕を痴漢した教師を躊躇わずぶん殴ったとき確信しました。守一郎は僕の肉体や僕と一緒の未来が欲しいわけじゃないんだってわかって、……がっかりしていたんです」

「……それでも、今日まで付き合い続けてはいたんだよね」

 私は混乱しながら訊く。知らない情報を処理しながら、思ったことを。

「僕は守一郎が好きだったから。がっかりしたくらいで、腕を切る理由になったくらいで、誰かに暴力を振るったくらいで、僕を求めなかったくらいで、……離れられなかったんです。好きだったんですよ、本当に。どれだけ疑っても、どれだけ傷ついても、それでも大好きだったから」

 だから僕は、守一郎を手離せなかった。

 距離があるから、その視認が正しいかはわからないけれど。

 増田くんは少しだけ、泣きそうに見えた。

「でも、守一郎が薊さんに酷いことを言ったとき、どこが好きだったのか、わからなくなってしまったから。ここが限界だ、ここまでだって思いました」

「……増田くん」

「こんな話、すみません。でも、誰かに言いたかったんで、聞いてくれて、よかった」増田くんはそう言って、それから道の端に退く。「優之さんが待ってるんで、これ以上は」

「増田くん。……バンド、続ける?」

「……わかりません。でも、優之さんには、続けたいって言いました」

 やっぱり、私が病院に言っている間、稗田父は増田くんからの話も聞いていたのだ。木村ちゃんと遠藤さんのときも両方から話を聞いていた人だ。私が病院に行かなければ、三人で話すことになっていたのだろうか。

 ……続けるかどうかわからないけれど、続けたい。

 そんな、不安定な気持ちにさせたのは私だ。

 申し訳がない。

「ごめんね、増田くん」私は何度目かの謝罪をする。

「謝らないでください。いいから行ってください。どうせいくら謝ったって僕は薊さんを許したりしないんで、許す気のない相手からの謝罪なんてうざったいだけなんで、もうちょっとこの人うるさいなって感じなんで、無駄なことをして優之さんを待たせないでください。こんなことも言わせないでほしかった」

 それを言われて初めて、許してほしがっていた自分に気づく。

 本当に罪深く、浅ましい。


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