3.GUTTED(詞:すれぶ・キムラトオル)
3-1
二月末、私が休みの金曜、放課後に遊びに行った弟が増田くんに肩を借りながら帰ってくる。左頬が腫れていて髪がぐしゃぐしゃで唇が切れていて膝を擦りむいている。
「え、何? 大丈夫!?」
私は弟に言うが呻くばかりだった。よく見ると鼻血も出たのか鼻にティッシュが詰められていて、それもそろそろ換えどきに見える。
「すみません、急に」申し訳なさそうに言う増田くんは無傷だ。「ちょっと、ガーゼとか、用意いただけませんか」
とりあえず弟の部屋のベッドに寝かせて、処置の方法を検索しながらやっていく。増田くんはすでにある程度どうするべきか考えながら来ていたのだろう、さっさと頬の腫れを冷やすための用意を済ませていて、増田くんが冷やしをやっている間に物入れを漁ってガーゼとかを持ってくる。
弟の全部の傷に対して消毒を含む処置をしたころに弟が言う。
「姉貴ごめん」
「ありがとうでしょ。あと増田くんにも、っていうか増田くんにこそ」
「……ありがとう」
で、ありがとうを聞いてから、結局何でこんなことになってんの? と思う。弟はもうそっと寝かしておいたほうがいいだろうから、私は増田くんと一緒にリビングに入って、紅茶派らしいので紅茶を淹れてあげる。お客様だ。
「ありがとうございます」増田くんは紅茶をひとくち飲むと、少しリラックスしたような顔つきになる。
「そっちこそありがとね、運んできてくれて。何があったのか聞いていい?」
「……あの、僕、実は」増田くんは自分のまぶたを指さす。「二重の整形……埋没法でやってるんすけど」
「へえ」と一応言っておく。私は弟から聞いてとっくに知っていた、ということを表明する意義はない。「それで?」
「その、最近その糸が緩んできていて。今日、僕と守一郎と、軽音部の友達ふたりで遊ぶ日だったんすけど……軽音部の友達に糸のこと気づかれて。すげえいじられて、グロいとか言われて、なんかべたべた触られたりして、やめてって言ってもやめてくれなくて……そしたら守一郎が、そいつらのことぶん殴って」
「え」
「それで反撃あって殴り合いになっちゃって。公園でたむろしてて他に誰もいなかったんすけど、守一郎が僕の友達ふたりを相手に喧嘩になって」
「えー……そりゃ負けるでしょ」
「いや、勝ちましたよ。辛勝っすかね。でも正直普通に怖かったし、まぶた触られる以上にやめてほしかったっすね」
「……その、怖いとかって本人に言った?」
「言うわけないじゃないっすか。一応、僕のために怒ってたとは思いますし」と増田くんは目を伏せて言う。たしかにちょっとぼこっと見えてるな、とつい注目してしまう。「でも、そろそろ言ったほうがいいのかなとは思うっす」
「これまでもあったの?」
「はい。知りません? クリスマスのデートでも、男同士で手つないでイルミネーション観てるからって揶揄ってきたおっさんがいて、守一郎が腹殴っちゃったことあるんすよ。僕が急いで守一郎引っ張って逃げたら、案外誰も通報しなかったみたいで警察とかありませんでしたけど」
「知らなかった。全然」
あいつそんな血の気多いの? グレてんの? ってグレてるとは違うのかな……でも、普通そんなすぐ暴力を振るったりしないでしょ? それだけ増田くんのことが大好きってことなの?
「守一郎がきっと、僕を愛しているから過激になるんだってわかるんです。だから、どうしたらいいんだか」
「まあ、気になるんなら、気にしてるよって伝えるしかないんじゃないかな」私は言う。「我慢ってよくないし。ちゃんと嫌なこと伝えあえるのが健全だと思う」
「……ありがとうございます」
増田くんはもうひとくち紅茶を飲む。私は思いついてクッキーを出す。ちょっと前に駅で買った『PARTY FLOWER』のクッキー。食べたことがなかったらしき増田くんは、ちょっと嬉しそうにクッキーを食べる。
「すみません、クッキーまで。あの、僕そろそろお暇したほうがいいっすよね」
「いや、別に? 守一郎が心配だろうし、デートの途中でしょ? なんだったら守一郎の部屋に行っててもいいけど」
「そうですか。ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「クッキー持ってっていいから」
増田くんはクッキーと紅茶と、弟のぶんの牛乳をトレイに載せて弟の部屋に入る。増田くんも弟のことがしっかり好きなんだろうな、と思う。
で、誰もいないリビングでアニメを見ながら過ごすこと一時間、そういえばどうなったんだろうと思って、弟の部屋に向かう。ノックしようとしたところで、弟の声が聞こえる。
「……でも、元喜にとってコンプレックスなんでしょ。じゃあ手術行けって。予約もしてあんでしょ。糸がどうとか馬鹿にしてくるやつがおかしいんだよ」
「だけどそういうことがあったら、また守一郎は人を殴るんでしょ」
「元喜が嫌がってるならしねえよ。別の護りかたを考える。俺はとにかく元喜に幸せでいてほしいんだよ」
私はリビングに戻る。立ち聞きがバレて真剣そうな話の邪魔をしたくないのと、ちょっと整理したいところがあるから。
流れ的に、増田くんは埋没手術をやり直さず、糸を取って元のまぶたに戻すことにしたんだけど、弟はそれに反対してるんだよね? あいつ、二重の手術してないほうの顔のほうが好きなんじゃなかったっけ?
いやでも、それより増田くんの幸せを尊重したいのだろう。ある程度の我慢をしてでも好きな人に幸せでいてほしいって気持ちは、普遍的なはずだ。もしかしたら、ずっと見ているうちに愛着がわいてきたのかもしれない。
好きの形は流動する。好きになれないと思ってたものごとに慣れちゃうこともあるし、好きって気持ちが弱ってしまうこともある。好きだから許せると思ってたことが好きでも許せないと思うようになってしまったり、好きでもしたくないと考えていたことが好きだしやってあげてもいいかと考えるようになったりする、好き以外の気持ちを好きだと思ってしまったり、好きって気持ちが好き以外の気持ちになってしまったりすることだってある。
私は恋愛でのそういう気持ちについては知識でしかわからないけれど、恋愛以外だって、単純に友達や家族に対してだったり、作品やアーティストに対してだったり、行きつけのお店に対してだったり、好意というものが介在するところには、いつだって変化がありうる。親から子供に対しても、きっとあるんじゃないだろうか?
そんな感じで弟も増田くんの顔に対して、夏休み明けから冬にかけて交際を続けているうちに変わっていったのかな……なんてぼんやり思っていたら三月になって、木村ちゃんと遠藤さんが破局する。
理由は遠藤さんの浮気で、浮気相手は胡桃だそうだ――木村ちゃんが雨天もあり遠藤さんに話していた予定より早く家に帰ったら、木村ちゃんの家で遠藤さんと胡桃が裸になっていたらしく、勢いで大喧嘩して別れることになったとか。
ええええ? ちょっと理解が追い付かないというか、いや浮気とかはこの世界に普通に横行していることだってわかっているけれど、知ってる人しか出てこないと逆に現実感がないというか……なんで? と思う。なんで木村ちゃんの家でわざわざ? なんで木村ちゃんの彼氏ってわかりきってる遠藤さんを胡桃が? と困惑しきりの私はとりあえず木村ちゃんから色々もっと聞いとくしかない。電話の向こうの、家から財布とアコギだけ持って出て住宅街を彷徨っているらしい木村ちゃんを昼食に誘う。
普段行ってる店でそういう話をしたくない、恥ずかしい、と木村ちゃんが言うので、隣駅の、私が大学時代好きだった焼き鳥屋さんに連れていく。お昼から営業してくれているので午後の講義やバイトがない日によく食べたものである。ルラ子と一緒にここで呑んだこともいっぱいあったっけ。
「ありがとう」店内まで無言だった木村ちゃんはそう言ってねぎまを一本食べる。「うまい」
「席なくてカウンター席になっちゃったけど、大丈夫?」
「うん。美味しいから、いい」
泣き腫れた目元と赤い目が痛々しくて、いっぱい焼き鳥食べてほしいなって思う。私もお昼ご飯まだだからいっぱい食べよう。
で、それから木村ちゃんと遠藤さんが詳しくどんなやりとりをしたのか話してくれる。ちなみに胡桃は木村ちゃんが状況を整理できず錯乱している間にひょろっ/どばっと出て行ったからまともに詰めることもできなかったそうだ。
「まず、なんでここに胡桃がいたのかすらわかんないから、そこから訊いたら、……胡桃が、作詞してるところ見てみたいって言ったから、だって」
「え、なんでそれで?」
「遠藤のビール、いつも、私の家の冷蔵庫で冷やしてるから」
「……なるほど」
冷蔵庫のスペースを貸す、というのは少なくとも私視点では、だいぶ愛情の深い行いだと思うのだけれど――それで心は痛まなかったのだろうか? 遠藤さんも、胡桃も。性欲ってそんなに何も気にならなくなるもんなの? 培ってきた絆とかが色々どうでもよくなるほどの性欲って何?
「それでね、なんで、なんでこんなことするんだ、って訊いて」木村ちゃんは少し泣きながら続ける。「信じられない、馬鹿じゃんって。彼女以外の女抱くなんて信じらんないし、それ彼女の家でやるのも、信じらんないし、相手が胡桃なのも最悪だし、バンドだって一緒にやってんのに浮気するとか、意味不明だし、馬鹿だし、嫌いになったんだったらちょっと前に私としたのも意味わかんないし、馬鹿じゃん、死ねって言って、訊いて」
訊くニュアンスより責めのニュアンスのほうが強まってない? と思うけれど、事実気持ちとして強いのだろう。私は続きを促す。
「そしたら、遠藤が。私に、私、私に、愛されてる実感がなくて、胡桃に相談したら、胡桃が、癒してくれて、って。遠藤さ、私がずっと、遠藤って呼んでるの、嫌だったんだって。誕生日覚えてなかったのも、歌詞を嫌がるのも、嫌だったって言われて。そんなの、一回も言ってなかったじゃんって言ったら、言ってやめたりするのは違うとか、最初からやらないでほしかったとか、それでも、嫌だと思ったこと、ちゃんと言えばいいのに。勝手に溜め込んで、胡桃なんかと浮気して、胡桃なんて遠藤のこと絶対好きじゃないのに、胡桃が遠藤を愛して、癒してるみたいに言って。なんもわかってないくせに。一緒にいて、幸せじゃないって思ってるんなら、胡桃のほうがいいって思ったんなら、その時点で私と別れればよかったのに。なんで秘密にして会ったりして、私の家なんか上げて、そんなことしたら最低じゃん」
「うん。誠実じゃないね」
「だよね。そうだよね。そう、そうだよね。ありがと、そうだよね」
木村ちゃんはそこでいよいよ決壊って感じでぼろぼろ泣き出す。私はトートバックに用意してあった箱ティッシュを渡す。ある程度拭ってから、木村ちゃんは続ける。
「だから、それですごくもう許せないっていうか、最悪って思って。雨で濡れてどっかの階段で転んで死ねって思って、部屋から追い出して。遠藤どっか行って、でも私の家臭いし、ベッドもカーペットも壁もカーテンも椅子も冷蔵庫も、全部汚いって思って蕁麻疹出て、ベッドに冷蔵庫ぶん投げて壊した」
「勢いがすごい」
冷蔵庫ってそんな軽率に投げれるんだ。
たぶん言及されてない場所も荒れているんだろうなって想像しながら私は追加のねぎまを注文する。
「ご近所、うるさかっただろうな」木村ちゃんは苦笑しながら日本酒を呑む。「なんかもう、家とか帰りたくない。あいつらが浮気エッチしてたと思うと、すごい汚い。生臭い。精神に悪い。本当はギターも消毒したい」
「とりあえず今日のところは家に帰らないとかしてみる?」
「どういうこと。どこで寝るの私」
「……遊井家? 実家だから弟いるけど、部屋は別だし」
完全に思いつきでそう口走ってみたところ、木村ちゃんは、
「いいの?」
と、素で可愛く確認してくれる。
いいですとも。
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