呪われた花嫁 7




 家で過ごす最後の晩。

 父の咳込む苦しげな音が暗闇でしきりに響く中、ひなはほんの短い間まどろんだ。

 夢を見たような気がする。懐かしいような切ないような。甘いような苦いような。赤いような黄色いような。とりとめのない気持ちを持てあましながら、夢の中で声を聞いた。稚い童の呼ぶ声を。



「ひな、おひな」



 ──お前は、誰……?


 そう問いたかったけれど、できなかった。

 声は次第に遠ざかって消え、いつの間にか目が覚めている。うすら寒い空気の中で起き上がると、すでに母が起きて旅支度を整えてくれていた。

 母は物静かな人だ。幼いころ、村の人たちがひなの美しさを褒めたたえるのを聞いても、黙ってにこりと笑うだけだった。父のそばに寄り添って黙々と働く母。できる限り声を殺し、歯を食いしばるように泣く母。そんな姿ばかり目に残っている。

 今では眉間と口元に深いしわが刻まれ、黙っていても悲しげに見えた。

 そんな母が淡々と、家にあった一番きれいな着物を畳み、風呂敷に包んでいる。



「おっかあ」



 声をかけると振り向いて、静かに微笑んだ。ひなはうなずき、音をたてないよう身支度する。明け方まで咳が止まらず、ようやく眠りについたばかりの父を起こしたくなかった。

 とんとん──

 やがて外から柱を叩く音がした。

 ついに来た。

 風呂敷を背負い、草鞋の紐をしっかり結んで立ち上がる。母は上がり框にじっと正座している。父は眠っているのか起きているのかわからない。ひなは、そんな二人の姿をしかと目に焼きつけた。別れは昨日のうちに済ませている。一度深く頭を下げ、外へ出た。

 朝靄が立ち込めている。

 黒塗りの駕籠がひなを待っていた。

 駕籠の戸が開いているのを見て、これに乗っていくのだろうかと戸惑う。自分などが乗っていいものだろうか。脇に控えた男衆に目で尋ねるが、彼らはひなのほうを見向きもしない。

 迷っていると、



「ひな」



 背後から声がかかった。

 どきんと心臓が跳ねる。



「平太」



 幼馴染が、靄の中で目を見張っていた。



「お前……どっか、行くのか」


「うん」


「どこに」



 ひなは、かぶりを振った。

 本当にわからない。

 どこに行くのか、どうやって暮らすのか。何も知らない。

 それでも行かなくてはならないのだと、今さらのように思う。



「ひな、行くな」



 平太はいつかと同じことを言う。けれど、その顔はあのときよりずっとずっとさびしそうだ。



「おっとうと、おっかあを……」



 ひなに言えるのはこればかりだった。



「お願いします」



 さっと腰をかがめて駕籠の中へ膝をつき、足から草鞋をもぎ取って脇に抱えた。体を中へ滑らせるや、男衆がそっけなく戸を閉める。「ひな!」叫ぶ声が響いた。思わず小さな覗き窓にすがりつく。



「平太!」


「ひな!」


「平太、元気で!」


「ひな!」



 駕籠が持ち上がり、男たちがさくっ、さくっ、と身軽に走り出す。それを追いかけようと平太の影が揺れた。けれどそれ以上は見えなかった。びゅんびゅん景色が通り過ぎ、あっという間に、平太も家も、何もかも朝靄の向こうへ消えてしまった。


 ──ああ。


 生まれ育った野山が遠ざかっていく。切なくて、切なくて、しばらく外を眺めていたが、とうとう見慣れた景色も見えなくなって、しょんぼり座りなおした。



「気は済んだか」



 その声に、ひなはあと少しで悲鳴を上げるところだった。

 見れば駕籠の中にもう一人、あの黒い着物姿の男が座っている。

 突然声をかけられたのに吃驚したのと、気がつかず平太の名を叫んでいた自分が恥ずかしいのとで、頭が真っ白になる。

 男は華奢な肩をちょいとすくめて見せた。ひなはそれを直視できず、うつむきながら居住いを正す。



「お前は人もたぶらかすんだな」



 ──人も……?


 どういう意味だろうと訝ったが、顔を上げて尋ねる勇気はない。ひなはうつむいたまま、じっと自分の膝を見つめていた。



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