第8話 まだ縁は切れていない
時刻は夜中。吾座倉十夜は照明もつけない暗い部屋で布団の中に潜り込み、唯一の光源である通信端末の画面を見つめていた。
通信端末には電子書籍の本棚を呼び出してあり、そこにはディストピア系の小説や漫画が目立つ。だがそれらを開くわけでもない。強迫観念に駆られるように、ただそれらが並ぶのを見つめていた。その時、メッセージの通知を示すポップアップが通信端末に浮かび上がる。
十夜はすぐさまそれをタッチし、途端にチャット形式のメッセージアプリが起動された。
会話相手はつい先日実行に移した更崎皿メディカルの機密入手作戦の相談に乗ってくれた人物――ミラーだ。
『結果は目的通りにはいかなかったけど、君はよくやったよ。
少なくとも、あの悪の企業も自分達のしてきたことを省みる契機となるだろう』
十夜はミラーのメッセージにすぐに返信する。
『でもあれは結局失敗なんだし、スルーされて終わりかもしれない』
『まだ分からないさ。様子を伺うのも時には大切だよ。
それに君の素性がばれたわけじゃないけど、念のためにしばらくはほとぼりが冷めるまで大人しくしていた方がいい』
窘められ、安堵と苛立ちが入り混じり感情のまま叫びたくなる。だが叫べば隣室の両親に聞こえてしまうので堪える。
十夜はまだ十六歳の高校生なのだ。
まだほんの一昨日。夜の廃ビル。
取り押さえられて本気で怖かった。友人達と度胸試しに行った肝試しよりもずっと、もう駄目だと覚悟した。
それでも自分のしようとしたことが間違っているとは思っていない。
あの企業がしようとしていることは、あの研究は、都合のいい側面だけでなく全てを包み隠さず世間に公表されるべきなのだ。
『そんな悠長なことしてられるか。
今度は俺が直接研究所に乗り込んで証拠を手に入れる』
メッセージはすぐに返ってきた。
『本気かい? 落ち着いた方がいい。研究所の警備を掻い潜るのは無茶だぞ』
――俺は機械の子だ。
機械から生まれた、作られた生命。
だからハッキングなんて楽勝だし、機械いじりも得意だ。
研究所に侵入して内部のネットワークに物理的にアクセスできれば、情報を抜くくらいやってやる。
研究所に侵入するのだって、まぁ何とかなるだろう。
養父は更崎皿メディカルの社員なので、会いに来たとか忘れ物を取りに来たとか、適当に理由をでっちあげて正面から押し通す。
この前の一件だって、想定外の横やりが入らなければ上手くいっていたのだ。
『まだ疲れてるんだよ』
ミラーから連続でメッセージが届く。
『とにかく今日はもう遅い、ぐっすり眠るといい。
それで明日の朝、落ち着いて考えなおすんだ』
――今まで協力してくれたくせに。
一回上手くいかなかったからって手を切るとか。
十夜はメッセージを何も返さないまま通信端末をベッドの下に落とし、布団を頭から被った。
「――――――――最悪」
舞架が直徒とファミレスでつきあうより先の別れ話――いや更崎皿メディカルの研究情報を入手しようとして失敗した翌日。10月7日、木曜日。
舞架は悠月を連れ出したダイニングバーで、その悪態を乾杯の音頭にして黒ビールのグラスを一息に呷る。
テーブルで向かい合う悠月はフルーツビールをゆっくりと傾けてそれにつきあった。
「鑑戸直徒が?」
あっさりその名前を出してくる。舞架はアルコール混じりの溜息を吐き出した。
悠月にはあの日に何があったかを既にすっかり話している。正直自分の失態を吹聴する性格ではないのだが、一緒に櫻科氏の護衛任務に就いていた悠月には知る権利はあると思ったのだ。
舞架は再び黒ビールを呷ってから答えた。
「違う。自分が〈撫子〉だってことが―――あーもう、こんなこと言いたくなかったのに、ごめん。いや、謝るのも違うか――」
悠月はカラカラと軽く笑って流す。
「ボクが〈蓮華〉だからって別に気を使わなくていいって。ボクは〈撫子〉がよかったとか思ったことないし。
それに3分の1なんて多すぎ。それよりボクのこのカッコ可愛さの方が重要で貴重でしょ?」
格好よくて可愛い。
真顔で断言した。だがそのお陰で気持ちが軽くなる。
「言うわね、まぁ否定はしないわ」
「事実だし。
むしろ今の舞架を見てると〈撫子〉でご苦労様ーって思うね。
まさかキミがそこまで恋に振り回されるなんて、想像もできなかったよ」
「そうでしょうね、自分でもそうなんだから」
舞架は苛立ちをぶつけるようにつまみのヴルスト盛り合わせにフォークを突き刺した。
だからこそ、思い込みの一目惚れでないのが確定なのである。
ごく普通の一目惚れをした〈撫子〉がこれはいわゆる〈撫子〉の一目惚れだと一方的に確信し、相手も自分に一目惚れしているに違いないと思い込んでストーカー化や修羅場に発展――なんていうゴシップはたまに聞く話だ。
「まぁ今日は朝まで付き合うから、盛大に飲み明かそう! 憂さ晴らししてそんな奴忘れちゃえ!」
「違う!」
咄嗟に、反射的に、何も考える間もなく反論していた。顔が熱いのはアルコールのせいに決まっている。
「え? 何が?」
悠月はグラスを掲げたまま、きょとんとして舞架を見返してくる。
舞架は盛大に溜息をつくばかりか、額を抑え項垂れた。
「いやそれもちょっとはある、ちょっとだけ、その通りなんだけど。
――それより私が飲み下せずにいるのは、あの研究所のことよ」
「ああ――そっちね」
悠月はテンションを一気に下げて、景気づけに高く掲げていたグラスも下げた。すぐには続く言葉が見つからなかったのか、ごくりとフルーツビールで唇を湿らせる。
舞架は再び溜息をついた。
「このままあの研究所のことは忘れるのがいちばんだって分かってる。研究に関しては時期が来れば世間に公表される。どんなふうに加工されたものであってもね。
それでも――」
それは正しいのか。正しくないのか。何が正義なのか。
薄暗いダイニングバー、周囲のテーブルやカウンターの客達の喧騒がどこか遠い。
――善悪など所詮視点の違いでしかない。
昨日の直徒の言葉が脳裏を過ぎる。
それを振り払うかのように舞架は黒ビールを一気に呷った。
「あーもう。
分かってる。私個人たった一人があの大企業相手にできることなんてないってね!」
あの情報漏洩未遂事件以降、研究員は研究所に泊まり込みの缶詰め状態だ。
そこまでされてどうやってその研究を暴くことができるのか。
仮に侵入するとしても厳重な警備システムに引っかかるのは目に見えている。
「目につく悪を全て糺すことなんてできるわけないって、それくらい理解してるわよっ」
ネットに情報が氾濫するご時世、軽微なものから凶悪なものまで、悪事など掘り起こせばいくらでも転がっている。それは実感の湧かない遠い世界の事件だけでなく、実は身近にもあったりするものだ。
その全てをどうにかしたいなんて、思い上がりどころか精神が常軌を逸している。
だからこそ、自分の手の届く範囲くらいは、正義を――自分の信じる正義を貫いていたかった。
今回の件は向こうから飛び込んできて、手が届いてしまったのだ。
舞架が空になったグラスをどん、とテーブルに置くと、慰める眼差しで悠月がメニューを差し出してくる。
「研究所に突っ込んでやるとか向こう見ずなこと言い出さなくてよかったよ。
ほら、お酒なら気が済むまで付き合うからさ」
舞架はメニューを手で断り、座った目で答えた。
「生ビールジョッキで」
その時。
通信端末の着信音が、舞架のバッグの中でくぐもって響く。
「……サイレントモードにしてやる」
低く呻いてバッグの中から未だ鳴り続ける通信端末を取り出し――画面を凝視して固まる。
「誰から? もしかして会社――じゃないどころか、えぇまさか!?」
舞架の顔を見て察したのだろう。
顔が熱いのが、アルコールのせいだけだったらよかったのに。
通信端末の画面には、鑑戸直徒の名が表示されていた。
もう会わないと一方的に告げてきた昨日の今日でこれである。
あいつは一体どれだけこちらを振り回せば気が済むのか。
――やっぱり君を忘れられない。心を入れ替えるから付き合って欲しい。
なんて都合の良すぎる妄想が頭を過ぎり、自分のその未練がましさに勢いで着信を切ろうとした直前。
「ほいっと」
悠月が勝手に画面を操作して着信を受けたのである。
「ちょ―――」
にたにたしている悠月に抗議の声を上げかけるが、既に通話が繋がっているため声を拾われてしまうので寸でで止める。
「出てくれてよかった。
実は君に頼みたいことがあってね。君にとっても悪い話じゃないはずだ」
どんな頼み事であっても聞くつもりはない。これ以上関わりたくないのだ。
だが。
「――何しろ、あの研究所に関する件だからね」
「!」
さらに駄目押し。
「一人の少年を犯罪から救って欲しい」
その口が言うのか。
だがそう言われてしまえば話を聞く以外になかった。
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