第6話 一目惚れしたけれど
これは――これが――〈撫子〉の一目惚れ。
舞架は足の力が抜けそうになるのをぎりぎりで堪える。
よりにもよってこんな時、こんな場所、こんな出会いの相手に!
警察官の採用試験に落ちたのは十中八九〈撫子〉だからだ。その自分が、何社も何社も不採用通知を受けながら、〈撫子〉が敬遠されるボディガードという職業に折角就けたのに。それなのに〈撫子〉だからこその油断で大失態を犯すなどあってはならない。
「放して」
余計なことは口にしないでただそれだけ、意識して低い声音で拒絶する。掴まれたままの腕を振り解こうと一歩下がったが、彼はすぐにその分一歩を踏み出した。しかも腕を放さないままさらにもう一歩。だから舞架の方も一歩下がる。そしてもう一度同じことを繰り返し。
「放したい。けど君に触れていたくてたまらないんだ」
切ない吐息に混じる切ない科白。
心臓の鼓動が収まる気配を知らない。同意したくないのに同意したい。
「そんなの知らないから。
さぁ放して。今仕事中なの」
そんな科白を絞り出すのさえ、心が張り裂けそうになる。
「そうだな、仕事中だ」
彼は苦笑して肩を竦めて見せた。けれどそれだけでまだ手を放そうとはしない。
拘束を解く訓練は受けているのだ、今それをしなくてどうする!
感情は無視して体に全力で指令を出そうとしていると、彼が続けて口を開いた。
「仕切り直そう、お互いに状況が悪すぎる。君とはもっと落ち着いて話がしたいんだ。
はい、これ。俺の名刺だから後で連絡して」
そう言いながら彼は、空いている片手で舞架のジャケットの胸ポケットに勝手に名刺を押し込んだ。
「ちょっと!?」
変に意識してしまい、慌てて身を引こうにも既に手は掴まれている。
「仕事だとしてもこんな危ないところ、早く出るべきだと思うね。
――ほら君も。そもそもこれは不法侵入だろう? 早くここから出るんだ」
そう言って振り向いて、あろうことか少年に話を振ったのだ! ここを出ろと!
呆然自失から我に返り、ドアに向かって走り出す犯人の少年。
「待て! 待ちなさい!」
止めたいのにまだ腕は掴まれたまま。
「連絡してくれるかい?」
「するから放して!」
「待っているよ」
そう告げてようやく手を放してくれたが、少年は既に部屋を駆け抜けて出ていったのだった。
まだ追いつけるはずと走って廊下に出ようとしたが、再び腕を掴まれる。
「しつこい!」
舞架の悲鳴じみた一喝にも彼は怯むことなく、むしろ心外だとばかりに肩を竦めて見せた。
「彼を置き去りにしていていいのかい?」
「あ――――」
片墨氏と目が合った途端、彼はいきなり土下座した。
「すいませんでしたぁ! 本当に本当に、すみませんでした! 脅されて仕方なくですね!?」
「……私は自分の仕事をしたまでですから。謝罪や弁明は研究所の方にお願いします」
ひとまずその手にメモリスティックが握られたままであることに安堵の溜息をつく。少年は逃したが、情報は守られたわけだ。
そして片墨氏を宥めて立ち上がらせている間に、いつの間にかあの男も部屋から立ち去っていた。
――あいつのせいだ!
あの男が現れたから逃げられた!
――なんで行ってしまったの!?
何の情報さえも聞き出すことができなかった。独断専行しておきながら情報漏洩を命じた犯人を捕らえ損ねるなど、会社への報告が気が重い。それなのにその一方で彼と会えたことに歓喜している。
ままならない感情に情けなくなりながら、舞架は胸のポケットに押し込まれた名刺を取り出す。
名刺と言っていたから白地に黒文字のあれかと思いきや、サイズと用途こそ同じでも全く違った。深緑の森、赤い夕陽、青の花園。写真のコラージュに、右側一部を黒で塗りつぶしてそこに白抜きの英字。
Nature Photographer Naoto Kagamido
下手に凝ったものを使わずシンプルなゴシック体に近いフォントなのもセンスがいい。裏面を見てみれば肩書や連絡先がメインのようで、そちらは日本語で書かれていた。写真がない代わりに、ワンポイントで植物の芽のシンプルなイラストがある。
自然写真家 鑑戸直徒
どうやら写真家だったようだ。撮られる側ではなく撮る側とは。
―――違う。
この興味は物珍しさからくる興味だ。写真家の知り合いはいないから。綺麗な写真を捨てるのは惜しいから。
名刺を握りつぶして捨ててやるつもりで取り出したのに。
舞架は床に叩きつけてやろうと腕を振り上げる。けれど結局、その腕を勢いよく振り下ろすことはおろか掌で握り潰すことさえできないのだった。
最悪な出会い方をして。仕事の妨害をされて。
それでも――胸の高鳴りが治まらない。
あまりに理不尽に、彼が好きでたまらない。
「大丈夫ですよ。あの少年は被害者と言えますからね、彼の手であの研究に引導を渡せればそれが最善だったというだけの策です。別に最優の策ではありませんでしたから」
鑑戸直徒は自室でPCを起動して通信アプリを立ち上げ、上役の
「公表日までまだ十分日があるのはご存じでしょう? 何も問題ありません」
失敗の報告ではあったが、直徒は自信に満ちた口調をつくって断言した。そう、今回の失敗自体は大した問題ではないのだ。上手くいけば成功するくらいの策で、そもそも片墨が情報を盗ってくる保証すらなかった策である。誘拐だって画像と音声を加工した捏造で、それがばれる可能性もあったのだ。
できれば成功させてやりたかったが、接点をできる限り減らし命令ではなく誘導させるやり方ではあれが限界だった。あの少年はあの場に現れた直徒をよくわからない闖入者程度にしか認識していないだろう。SNSで親身になっていろいろと入れ知恵してくれた匿名ユーザとは思うまい。
画面の向こうの間高柴も、今回の件に関してはもともと期待してはいなかったため叱責も失望もない。
「そうだな。
「わかってますよ。我々は悪の組織じゃないんですから」
「その通りだ。
――あまり気を落とすなよ? この案はもともと無理があったんだ。気を取り直してプランBを進めればいい。もともとこちらが本命でもある」
間高柴とはこの組織に入って以来の長い付き合いだ。取り繕っていたのを誤魔化しきれなかったか。もっとも、気落ちしていたその原因は今日の策の失敗ではないのだが。
それでも直徒は笑ってみせた。一目惚れで恋に落ちた昂揚や多幸感などからではない、作り笑いを。
「心配ありませんよ。任せてください」
「………また、か?」
間高柴の方が顔を曇らせた。
「…………………」
直徒は答えられず気まずげに視線を逸らすが、それこそが答えとなってしまう。間高柴が溜息をつくのが聞こえた。
「お前のそれは病気だ。そう生まれついてしまっただけで、お前が悪いわけじゃない。
既に何度も言ったが、この仕事をお前がやる必要もないんだ。ただの写真家でいればいい」
「……慣れていますから。大丈夫ですよ、こちらもフォローはしておくので。
――俺のような被害者をもう出したくはないんです」
そして無理やり話題を事務的な内容に変えて通話を終わらせる。一つ息を吐いて背凭れに体重を預けた。
――一目惚れは最悪だ。
それが〈撫子〉の一目惚れなら尚更に、麻薬のように人を狂わせる。
そうと分かっているのに、ふとした瞬間頭の中で彼女の姿を思い浮かべてしまうし、触れていた指先に視線が行ってしまう。
〈撫子〉の一目惚れは、一生に一度も経験しない者の方が大多数だ。何度も一目惚れする例など存在しない――鑑戸直徒以外は。
子供時分から一目惚れしてされ続け、その特異な体質がバックマン疾患の解明や〈蓮華〉の妊娠へと繋がるのではないかと研究機関に目をつけられた。多感な時期に生殖関連の研究被験者にされた日々。思い出したくもない悪夢。だからこそ、直徒はその反抗で〈バックマンの後継達〉に入ったのだ。
23回目の一目惚れ。それに付き合わせてしまった女性に罪悪感すら覚える。
通信端末に視線が行く。連絡先は渡したから必ず電話がかかってくる。今までだってそうだった。
もう一度会おう。そして幻滅されて、この一目惚れを終わらせるのだ。
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