第5話 最悪な出会い

 櫻科さくらしな氏が片墨らしき人物に気づいた辺りまで舞架は一先ず引き返した。立ち止まって周囲を見回すと、大通りに面しているとはいえ商業地域の端、駅から少し離れた場所で空きビルが目につく。

 前世紀の遺物、耐久年数は過ぎて廃墟と化しているが、解体する金銭的な余裕がないので立ち入り禁止にだけして放置されているビルは珍しくもない。

 まともな店などなさそうだし、こんなところに一体何の用があるというのか。外出不可の生活に嫌気がさしたなら、こんな廃れた地区ではなく他に行くところがあるだろう。いやまず本当に片墨氏がいるかどうかを調べなければいけないわけだが。

 とりあえず近くをざっと見て回ろうと再び走り出してすぐに。

 横道の奥に、薄暗い街灯に浮かび上がる人影があった。中肉中背の壮年男性。背格好は片墨かたすみ氏に似ている。

 夜でも明かりの点らない廃ビルの入り口前で、ちらちらと腕時計を確認しつつ落ち着きがない。時間を気にしているということは、誰かと待ち合わせをしているのだろう。

 わざわざ隠れて何のために――厳重に秘匿している研究情報――情報漏洩?

 どこかに高値で売りつけるとか、産業スパイか?

 片墨氏らしき人物は意を決したようにきりりと顔を上げて廃ビルの中に入って行く。情報漏洩しようとしているのなら止めなければ。

 場所のデータと状況を短くまとめて通信端末で悠月に送ると、舞架は従業員用か非常用だと思われる重い金属のドアに急いで駆け寄ってそれを押し開けた。

 ポケットに入れていたペンライトで足元を照らしつつ奥へと進む。すぐに階段を見つけ、その上の方から足音が響いていた。距離をとって尾行する。片墨氏の足音が聞こえるように、そして自分の足音が聞こえないよう静かに。

 片墨氏は五階まで上がったところで廊下に移動し、薄っすらと光が漏れている部屋の中に入って行った。

 舞架もその部屋の前へと移動する。

 武器は腰に吊るした警棒ただ一本。恐れを感じないのは過度の興奮からか。緊張感が逆に心地よい。一人で潜入なんて格好良すぎだろう。

 企業の機密情報を盗み取ろうとした犯罪者を捕まえる。

 ――今、自分は正義を為している。

 そのはずなのに。

 それなのに、頭の中の片隅の、妙に醒めて冷静な一部分が問いかける。

 ――これは本当に正義なのか――と。

 朝の送迎での悠月との会話が蘇る。

 けれどそんな警鐘を振り払い、目の前の状況に集中する。考えるのは後だ。ドアの横に張り付いて耳を澄ませると、中から会話が聞こえてくる。

「要求通りにデータは持ってきた。だから早く姪を解放してくれ! 姪は無事なんだよな!?」

 おそらく片墨氏の声だ。どうやら脅されて仕方なく研究情報を持ち出したらしい。まったく、情報漏洩だけでなく誘拐まで絡んでくるとは。

 人質をとられてしまえばこちらも身動きが取れない。ここは下手に動かず情報収集に徹して増援を待った方がいいかと思考を巡らせる。

 だがその間にも部屋の中の状況は進行していく。

「データの中身を確認するのが先だ。早くそのメモリスティックをよこせよ!」

「……分かった」

 不味い。

 データが犯人の手に渡ってしまう。

 おそらく部屋の中には人質にされた姪はいない。それらしき声が聞こえてこないし、片墨氏がわざわざ無事を確認していたということはこの部屋では確認できないということだ。

 それを確信すると舞架は腰に吊っていた特殊警棒を手にとり、ドアを開け放って勢いよく中に足を踏み入れた。

「情報漏洩を企てたことはばれてるのよ。大人しく投降なさい!」

 もともとはオフィスビルだったのだろう。広くがらんとした部屋の隅に事務机が積まれている。大きく切り抜かれた窓からは、かろうじて街明かりが届いていた。

 ドアのすぐ近くに立っていた片墨氏が肩をびくりと振るわせて振り向く。手にはまだメモリスティックが握られており、ひとまずは間に合ったようだ。

 そして正面、この部屋の中心。窓を背にして椅子に腰掛ける一つの人影。足元にカンテラ型のライトが置いてあり、その周囲を闇から浮かび上がらせていた。

 パーカーにジーンズ、頭には目深にキャップを被り、顔の大半はマスクで覆われて人相も分からない。ただその服装のセンスや聞こえてきた声からしてまだ若く、もしかしたら少年と呼称しても差し支えない程ではないだろうか。

 周囲をさっと見回すが、人質を含め他に人影は見当たらない。

「なんだよお前どこにも知らせるなって言ったよなぁ!?」

「僕は誰にも言っていない! 誓って本当だ!」

 大企業相手に犯罪を企てる割に冷静さを欠いて喚く少年に、片墨氏が慌てて弁明する。

 舞架はその隙を逃さず少年を取り押さえようと距離を詰める。

「う、うわ来るな!」

 慌てふためいた少年はバランスを崩して椅子から転げ落ちたのだ。

 ――これは絶対、この少年を動かした黒幕がさらにいる。

 大企業相手とか誘拐とか、やったことの割に度胸がなさすぎる。

 それをつきとめるためにも、舞架はあっさりと少年の腕を捻り上げ床に組み伏せたのだった。

「くそっ、くそくそっ! 上手くいくはずだったのに何でだよ!?」

「悪事なんてものが上手くいく試しはないのよ」

 割と格好いい科白ではなかろうか。

 けれどいい気分に浸れていたのも僅かの間。

「はぁ!? 悪いのはそっちだろう!」

「―――――――」

 苦し紛れには見えない。本気の目だ。

 この少年は、こちらが――更崎皿さらきさらメディカルが悪だと確信している。

 拘束する手が緩みそうになったのを堪える。落ち着け。逆恨みという可能性もある。犯人の言葉を鵜呑みにするのは愚かだ。

「ならこっちが何をしたのか教えてくれない? まず君の立場と名前から」

「いいぜ、俺はなぁ―――」

 そのとき。

 ――ぶんっ。

 その何かを咄嗟に躱せたのは運もあったかもしれない。ガン、と音を立てて床に落ちたのは投げつけられたペンライト。ぷつりと光が消えて壊れる。

 ――まさか片墨氏が!?

 ドアの方に鋭く視線を向ければ、そこには片墨氏以外にもう一人、男が立っていた。彼がペンライトを投げたのだろう。

 少年の仲間だろうか。

 だとしたら尚のこと一人は無力化して取り押さえておきたいのに、体勢を崩して力が緩んだその隙を見逃さず、少年は拘束を振り払って距離をとられてしまっていた。

「……あぁもう……」

 舞架は短く呻く。失態だ。格好悪い。それでも気を取り直して警棒を構えなおす。

 敵は二人。保護対象一人。味方はなし。捕縛の算段を頭の中で練っていると、新たに入ってきて場を乱した男が場違いなほどに明るく言った。

「乱暴はいけないな。何があったかは知らないが、まずは話し合いで解決するべきだ」

「――部外者なら今すぐ出て行ってくれる?」

 一般人が何故こんな夜の廃ビルに来たのかは疑問だが、どうやら少年の仲間ではないらしい。意識を少年一人に絞り、舞架はぞんざいに言い放った。

 けれど男はそれには取り合わず、むしろ舞架に近づいてきたのである。

 敵意はなさそうだが、警告の意味でそちらに警棒を向けようとして――いつの間にか。その腕を掴まれていた。そこまで接近することを許していた。

 間近で視線が絡んだ一瞬。

 その一瞬だけで、思考を、精神を、心を揺さぶられた。だからその手を振り解けなかった。

 握られた手首に意識が行く。男の指先が袖口から出た素肌に少しだけ触れている。どうにかして振り解かなければいけないのに――

「っ、放して!」

 咄嗟に出た声は嬌声のように裏返っていた。そのことが余計に顔を紅潮させる。それでも緩みそうになる頬に力を入れ、何のつもりだと男の顔を睨みつける。甘く整った顔立ちはモデルのようで、シンプルなジャケットを格好よく着こなしている。微笑んだらそれだけで女性の目を惹きつけ放さないだろうが、今は戸惑い愁いを帯びて、目を伏せ視線を逸らしていた。頬が赤らんで見えるのは欲目だろうか――いや欲目とか!

 魅力的な男性に出会ったから動揺した、なんてものではない。くろがねセキュリティサービスの社長も渋くて紳士でハンサムで魅力的だが、ここまで心臓が高鳴りはしたことはない。

「……最悪だ……」

 彼がそう擦れるように呟いた気がしたのは気のせいだったろうか。そう言いたいのはこちらで、彼が向けてきた視線は熱く潤んでいた。

「知っているかい? これが〈撫子〉の一目惚れだ」

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