夏の終わり、途中下車

 あの日から、玲唯からの連絡は途絶えた。死んでしまったんじゃないかとも思ったが、玲唯が自殺したなんて知らせはどこからも聞いていないから、とりあえずは大丈夫だろう。部活に行って、勉強するだけのありきたりな夏休みを過ごしていたら、もう8月29日になっていた。

 蝉が命を最後まで削って叫んでいる。きっと彼らは、死ぬ直前まで少しでも大きな音を追求し続けるのだろうと思った。俺は、その必死さについていけず、けだるい暑さとエアコンの冷気のギャップで疲れ切っていた。

 スマホが低く鳴った。


「今まで、いろいろとありがとう。これから君の言うとおりにする。」


 玲唯のLINEから、それだけの文章が来ていた。俺はすぐに立ち上がって、暑い室外へ、そしてさらに暑い屋外へ出る。自転車にまたがり、朦朧とした青い空と熱いアスファルトの間を駆けた。最寄りまで、20分。体が溶けてしまうような感覚を味わいながら、水一滴すら飲まずに。

 電車が来るまでの数分の間に自販機でスポーツドリンクを買った。あんまり味が好きじゃない、と苦い顔をした彼が思い出される。のどの奥に酸っぱくて気持ち悪い感じが残る。

 とろとろと停車した電車の一号車へ乗り込む。空いている車内の窓から、街並みと青空がのぞく。俺は閉まったドアにもたれて、海へと向かう電車に揺られた。心だけが線路の上をはるか先まで走っていて、その先にはあの駅があった。

 あの時、玲唯の知り合いの女子大生二人が降りた同じ駅で降り、快速に乗り換える。さっきよりはまだ君に追いつけそうなスピードで走っている。線路は日差しをギラリと反射する。街並みが少しずつ、後ろへ流れていく。

 あの駅へ近づくに連れて、だんだんあの日に近づいていく気がした。夏の盛りだった頃へ時が戻っていく。いろんな生命が空へ伸びていって、そこへ自分たちも負けじとついていくような。

 訳の分からないまま渦中に放り込まれて、とにかくこの夏を生きた。玲唯と二人で。


 あの駅で、君と見上げた空、聞こえた音、全てが浮かんできて、同時にそこで今、一人きりな君を思い浮かべた。もう玲唯が駅についているかはわからなかったが、君が一人でそこにいる景色は鮮やかに頭の中で迫ってきた。次来る電車に飛び込もうと決めて、フェンスにもたれかかりながら、空や遠くに見える海や、自分がきれいだと思うもののすべてを心で吸収している君が。君はそこで今、久しぶりにちゃんと呼吸ができているんだろう。

 そこへ、自分は今向かっている。自分はその景色に必要なのか?自分は何をしたいんだ?俺のやりたい事。玲唯の気持ちに関係なく、本当に望むこと。


 お前が大事にしたいものって何なんだよ。死ぬ前くらい、自分勝手になれよ。


 自分で玲唯に言った言葉だけど、今度は自分へ投げてみる。俺は死ぬ前ではないけれど、今、自分勝手になるとしたら、一つだけ願いがあった。

 君に、生きてほしい。

 それこそわがままで自分勝手だけど、どうしても君が俺のいる世界からいなくなってしまうのは嫌だった。告白はしない。友達のままでいい。そばにいられればいいし、ずっとそばにいなくてもたまに元気な笑顔を見せてくれればいい。

 それすらもなくなってしまえば、勇気を出したって触れられないところに君が行ってしまえば、たぶん俺自身も君が行ってしまった死後の世界へ憧れてしまう。


 でも、この世界にとどまったところで、君は笑えるんだろうか。薄い桜の花びらは、すぐに散ってしまうから記憶の中で美しくいられるのだということ。夏まで残された桜の花はきっと暑さでしおれて醜いだろうということ。

 君がこの世界をはやめに出発したいのだということ。


 いや、君は自殺する理由すらも言ってくれなかった。彼が何を辛いと思ってきたのか知らなければ、それが本当に死ぬほどのことなのかも分からない。彼は思い詰めてしまっていただけなんじゃないか。自殺の相談じゃなくて悩みの相談に乗ってあげれば、今頃玲唯の心も軽くなっていたんじゃないか。

 今からでも遅くない。君に会って、こう言おう。「君が生きるために何でもするから、生きてほしい」と。二人で全力で生きて、醜い桜でもいいから生きて、それで行き詰ったらもう一回あの駅へ行けばいいじゃないか。

 その時は一人にはしないから。一緒に死のう。


 違う。彼は、そこまで俺に信頼を置いているのだろうか。ただ一緒に自殺の方法を調べただけ。「辛い」なんて一言も彼は洩らさなかった。自殺する理由も話さなかった。

 それは俺を信頼していなかったからで、下手に何かを相談して「その状況でも生きろ」なんて言われるのが怖かったんじゃないか。そんな俺が、最期に彼の隣にいようだなんて、おこがましいというか、勘違いにもほどがあった。

 俺の方は命を懸けてでも助けになりたい人でも、彼の方は違ったんだ。


 それに、生きたら生きた分だけ、玲唯にとってつらい日々が増えるだけなのかもしれない。

 だんだん追い詰められていって、もう何をしても笑えない状態になってしまったら。受け答えすらもおっくうになっていた彼と最後に会った時のことを考えれば、これ以上生きろなんて、ほんの少しの間でも彼に酷なことなんじゃないか。

 一瞬でも早く、死なせてあげて方がいいいのかもしれない。

 だから一緒に生きることも、限界まで生きることもそんなことは不可能で、俺にできることは一つ、そっとしておいてあげること。玲唯が自分の意志で死ぬための手伝いという役割を、俺はもう果たしたのだから。


 そうは思ってみても、やっぱりこれから電車に轢かれて粉々になろうとしている彼のことを、何もしないで放っておくわけにはいかない気がした。

 だってもう一度壊れてしまったら元に戻らない、後悔してももう遅いのだから。最後に一度だけ、確認することくらい許される気がした。本当に死んでしまっていいのか。生きる希望を自ら消してしまっていいのか。

 その質問に彼が自信をもってうなずくなら、俺も笑顔で彼を送ろう。


 それも違った。好きな人が死ぬ前に、笑顔になんてなれるわけがない。泣きわめきながら「生きてくれ」なんて口走ってしまうかもしれない。玲唯に直接会ってしまったら、どんな思いがあふれ出てしまうか分からない。もし冷静に見送ることができたとしても、俺の姿はあの景色に不必要だ。

 玲唯の最期に見たい「美しい」情景の中に、俺はいない。だからこそ彼はLINE一つで俺に感謝だけを伝えたのだろう。


 いや、でも本当に俺が望むことは、玲唯に生きてもらうことだし……。


 だめだ。ずっと思考が同じところをめぐるばっかりで、何も考えられない。


 どうすればいいのかもわからずに、とりあえず快速を降りて、各駅停車に乗り換える。あと七駅で、あの駅についてしまう。線路が高架になって、空との距離が近くなる。何が正しいのか。生きることか。死ぬことか。彼にとって大事なことか、俺にとって大事なことか。

 あの駅へ近づくたびに、何も選べなくなっている自分に気づく。こういう時に何も決定できない自分が情けなかった。どうしよう。分からないけど、電車はレールの上しか走らない。確実に、君に生きてもらう方へ向かっている。

 一度、止まってくれと思った。一回時を止めてほしい。考える時間が欲しい。君が生きるのに疲れて心を壊してしまったり、自殺して永遠に体を失ってしまう前の今の状態を、とどめておいてほしい。


 繊細につくりこまれたつぼみが静かに開き、薄い花びらが笑顔を咲かす。散る前の桜のような儚い君の笑い方。

 この夏になってから、何度君が死ぬ場面を思い浮かべただろう。その中で、君はいつも笑っていた。笑っていたから、俺も彼の自殺を無理やり止めるようなことは言わなかった。

 君は言った。

 最期に見る風景が大事だと。

 そして俺は、最期に笑っている君を望んで、自殺の方法を一緒に調べた。


 あと一駅。電車が前駅に停車する。もたれかかっていたドアが開いて、その外へ。


 ホームの屋根に邪魔されて小さくなった空は、秋へ向かって色あせていた。


 Fin.

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君の最期を決定する。 雨乃よるる @yrrurainy

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