第二回ミーティング

 玲唯の部屋の窓から、雨に濡れた景色が見える。雨の幕がおろされていて、街はかすんで見えづらい。そのせいで、この部屋は外界から遮断された安全な基地のように思えた。蛍光灯の明かりが薄暗い外と室内の違いをより際立たせる。

 カサ、と、布と布の擦れる音がする。

「もう、どれかに決めちゃおうかな」

 玲唯は、「首吊り」や「飛び降り」など物騒な文字がたくさん並んだ紙を見ながら言った。そのうちいくつかは「実現不可能」ということで二重線で消されている。彼はベッドに腰掛けていて、椅子に座っている俺より位置が低い。

「消去法でいこう。まず痛いやつから消してこう」

 俺が言った通り、玲唯が文字の上に線を引いて消していく。すると、「首吊り」「電車への飛び込み」「飛び降り」の三つが残った。ちなみに、首吊りは「痛くない可能性がある」だけだ。

「飛び降りは、この前いいビルがなかったから削除かな」

 この前は暑さと体力を見て早めに切り上げてしまったので、もう少し探せばいいビルがあるのかもしれないが。

「首吊りは、いやだな。美しくない」

 美しくない、という表現が芸術家みたいだ。でもそれはわがままなんかじゃなくて、せめて死ぬ時くらいは、という切実な思いなのだろう。

「電車への飛び込みは、他人に迷惑がかかるから」

 玲唯がそう言いながら「電車への飛び込み」を削除すると、紙の上のすべての項目が消えていた。しばらく、何も言わず二人でその紙を見つめた。時計の針が進む音まで聞こえた。雨の音が部屋の中を埋めて、息ができなくなりそうだった。

「ないんだね」

 玲唯は膝を抱えて、ベッドの上で体育座りをした。明らかに、今までで一番沈んでいる。

 これまでも玲唯の様子はおかしかったが、どこか別の世界を夢見ているような感じもあった。この世界がだめなら、次に行けばいいと、そこに少しでも希望があった。

 だけど、今はもう、それすらもなかった。一生出られない暗い檻の中、と言えばいいのだろうか。そんな言葉でも生ぬるい気がした。死んでも、救われない。そんな絶望を、彼は今、体育座りをした膝の間から見ているのだ。そして、その絶望の本当に深いところは、俺には理解できない。

「死ねないんだ」

 死ねない、というのは、生きる、ということで、それは普通嬉しいことのはずだった。俺も玲唯に生きてほしいと、ひそかに思っていた。でもそんなことすらもくつがえしてしまうほど、彼は「死ねない」ことに苦しんでいた。

 これまでの夏休みの間、彼が時々楽しそうな表情を見せたのは、死ぬことを考えていたからなのだ。他人に迷惑かけずに、なるべく痛くない方法で、自分が納得できる、美しいと思える死に方で、死ぬ。そのことがこの世界で唯一の明るいことだったのだろう。

 彼は、死んだほうがいいんじゃないか。それは彼のためであり、もっと言えば彼の心の救いのため。俺は、好きな人がなるべく明るく死ねるように、助けたい。

 だから余計かもしれないことを言う。

「この前はビル全部見切れなかったからさ、もう一回条件に合うところ探してみない?」

「条件に合うところなんてないよ」

 取り付く島もない即答。

「そうだ、飛び降りだってさ、別にビルからじゃなくていいんじゃないか。例えば海の方まで行けば自殺の名所とかあるだろうし。きれいな景色見て死ねるかもしれない」

「めんどくさいし。もうこれ以上探すのはしんどい」

 すべてあきらめた口調で返される。

「じゃあ、なるべく近場でさ、飛び降り自殺にいいところ探そうよ。絶対どっかあるって」

「ないよ」

 もう彼は、本当にそういうところがないのかなんて考えていない。話す言葉が事実かどうかも気にしないほど、投げやりだった。それでも俺は言葉をつなぐ。

「電車へ飛び込むのもさ、自動運転の車両で人があんまりいない駅だったら、自殺を見てトラウマになる人も少ないんじゃないか」

 だんだん苦し紛れになってきた。

「いや、もういい。どうせ人に迷惑かかるから」

 どうして自分がこんなに必死になっているのか分からなかったが、とにかく何かをしてあげたかった。条件に合った死に方をうまく見つけて、玲唯が一瞬でも笑顔になること。死ぬその瞬間だけは明るくいられること。そのためだけに、何でもしたかった。

「もういいよ。首吊りでいい」

 彼は、立ち上がって、机の上に紙を放った。思わず「え?」と声を出してしまう。

「いいよ。もうそれしかないもん。早く死にたいし」

「首吊りって、室内だろ。きれいな景色見て死にたいんじゃないのか」

「どうでもいい、そんなの」

「でも……」

 あの美しい駅を見て、あんなに嬉しそうにしていたのに。

「優先順位だから。あの紙、まだ持ってる?」

 俺は、自殺方法を探すときの条件が書かれた紙を取り出した。

 一画一画、何かをなぞるように丁寧に書かれた文字。


①人に迷惑をかけない死に方であること。

②痛みの少ない死に方であること。

③美しい死に方であること。


「この順番なの。一番大事なのが、人になるべく迷惑をかけないこと。二番目が痛みの少なさ。美しいかどうかは、もうどうでもいいや」

 彼は、笑いになっていないひきつった笑いを浮かべた。

 絶対違う。玲唯はあきらめているけど、絶対に違う。なぜか強くそう思う。これから死ぬ人が生きている人に迷惑をかけちゃいけない、それだけ聞くと正しいように見えるけど、そうじゃない。

 死ぬ人の気持ちはだれの考えなくていいの?死ぬ瞬間の気持ちは尊重されなくていいの?玲唯の気持ちは、誰が救うの?今まで誰も気遣ってあげられなかったんだから、せめて死ぬ前くらいは大事にして何が悪いの?

「玲唯」

「なに?もういいよ」

 もうこれ以上話しかけないで、そんな意味もこもった言葉を、無視する。

「人の迷惑と、玲唯の気持ちと、どっちが大事なんだ」

 責めたような口調にならないように、気を付けながら。

「人に迷惑かけちゃ、いけないでしょ」

「玲唯は、死ぬ前に見る景色が大事なんだろ」

 自分の遺体の美醜よりも、最後に見る景色が大事だと、確かに彼は言っていた。あの駅を見た帰りの電車で。

「もうどうでもいいって」

「違う。お前の気持ちは、玲唯の気持ちは、どうでもよくなんかない。だいたいお前が死ぬことが誰の迷惑になるんだ?」

「それは、いろんな人の……」

「誰かも分からないんだろ。お前が大事にしたいものって、なんなんだよ。顔も分からない人の苦しみなのか、自分の気持ちなのか」

「でも、トラウマになったら苦しいでしょ。そういうひとを作ってしまうのは嫌だ」

「一人、部屋で首吊って死ぬお前は、苦しくないのか。痛いかもしれないし、すぐ死ねないかもしれないし、最後に見る景色が、この部屋になるんだろ」

 玲唯の部屋は、夏休みの最初に来た時よりまた一段と荒れていた。床にも紙類が落ちているし、部屋全体がさらに厚くホコリをかぶっている。こんなところで孤独に首を吊る玲唯を、想像したくなかった。

「自分の最期に見たい景色ぐらい、誰にも気を遣わずに選べよ。だれも死後にクレームを言いに来たりしないんだからさ」

 感情を消してしまったかのように動かない玲唯に、それでもまだ続ける。言いたいことがまだ伝わっているか不安だったから、もう一言だけ、呼吸を準備して、言い切る。


「死ぬ前くらい、自分勝手になれよ」


 俺の言ったことは、的外れだったかもしれない。彼の本当に望むこととは違ったかもしれない。それでも、もっと自分勝手になった方が玲唯は幸せになれる確信があった。

 玲唯は立ち上がったままうつむいて、ずっと何かを考えていた。それは絶望しかない状況から抜け出そうとしているようにも、絶望しかない状況でさらに苦しめられているようにも見えた。

 風向きが変わり、雨が激しく玲唯の部屋の窓を打つ。曇天から落ちる大粒の雨は、道路のアスファルトをえぐるように降る。

 机の上に放られた紙は、玲唯が握った跡が大きくしわになっていた。

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