現地視察、地上20メートルから
朝、部活前に玲唯からLINEがあった。
「今日学校の前で待ち合わせできる?」
「午後からなら」
そう返信すると、「じゃあ十三時に学校ね」と返ってきた。
冷房をきかせてもサウナのようになっている体育館。ボールをつく音とキュッという体育館履きの足音、両チームのかけ声が熱気を高めていた。
相手選手のパスが自分の手の間を抜けてきれいに通る。受け取った選手はそこから迷わずに3ポイントシュート。なんとか外れて、そのリバウンドを取った相手チームがシュートを放ち、ボールは悔しいほどきれいにリングを抜けた。
やりきった雰囲気の歓声と、残り時間を表示していたタイマーの音が同時に響いた。青とピンクのビブスがそれぞれ一列になって向かい合い、挨拶を交わす。
練習試合が終了して片付けが終わると、俺はすぐに正門へ向かった。
正門を出て左、濃い緑の葉が人一人入れるほどの木陰を作ったスペースに、玲唯はいた。レモン色のTシャツが、風を受けてかすかになびく。
「おつかれ」
片手をあげた玲唯は、少し硬い表情だった。
「ありがとう。今日はどこ行くの?」
部活が終わってもなお止まらない汗を腕で拭いながら尋ねる。
「このへんのビルを見たいなと思って」
この学校の近くは、いろいろな会社のビルがたくさんある。
「なんでまた、ビルなの」
玲唯が答える前に、明るい声が意外に近くで聞こえた。声で誰か分かった。佐奈だ。
「二人とも、何してんの?」
ふり返ると、佐奈が肩から白いバッグを提げて笑っている。
「えっと、俺は部活帰りで、玲唯は補習だって」
玲唯に、自殺のことは佐奈には話すなといわれているので、とっさに誤魔化した。
「そうなんだ。そういえば、玲唯は大丈夫だったの?全然学校来てなかったけど」
佐奈は何も知らないので、いたって明るい口調だ。聞かれている玲唯本人がなかなか答えないので、代わりに何か言っておく。
「うん。体調も治ったみたい。ほら、今日学校来たし」
「そう?玲唯、あんまり元気そうじゃないけど」
「今日は補習で疲れたらしいよ。早く帰りたいって」
何で俺が小さい子の親みたいに全部話してるんだろうと思った。
「佐奈は?」
「私も、これから部活」
「そっか、がんばって」
全く話さない玲唯に少し怪訝な表情を残したまま、佐奈は学校の中へ消えていった。
「なあ、何で佐奈が話してるのに何も答えなかったんだ」
自分のことながら、叱る口調まで親みたいだと思った。
「なんて答えたらいいのかわからなかった」
お前が訊かれてたんだからお前が答えろよ、と言いかけて、やめる。たぶん今の玲唯には、人の質問に答える余裕も、人に言われた言葉を受け止めて反省する余裕もなかった。ずっと黙って、斜め下をぼんやり見つめている姿を見ればわかる。
「そうだ、なんでビルを見たいんだっけ」
話題を変えたら、何かしら話せるだろうか。
はじめ、玲唯は俺の言葉を無視したと思った。
あとで俺の声がそもそも聞こえていなかったかもしれないと思い直したときに、唐突に返事が返ってきた。
「飛び降りるのに、いいビルを探したいから」
そう、彼は今自殺の方法を探しているのだ。その事実を忘れそうになっていた。その状況だから暗くて当然だし、受け答えができなくても責められない。
「わかった。じゃあ一緒に見よう」
炎天下を歩き出す。さっきの佐奈との会話が思い出されて、暑さもあいまってイライラしてしまう。どうして佐奈に自殺のことを言ってはいけないのか。重い話だから、伝えにくいのも分かる。だけどなんで俺だけ、と思ってしまう。俺だけに話せて、佐奈に話せない理由でもあるのだろうか。
いくら好きな人でも、玲唯から相談されたことは自分だけで受け止めるには重すぎた。玲唯のために親友の佐奈にまで嘘をついて、何をやってるんだろうという気持ちになる。
でもそれを玲唯に言うと余計に彼を追い詰めてしまうので、言わない。
「飛び降り自殺に適したビルには、いくつか条件があるんだ」
彼は平然と自分の自殺について話す。でも俺は、もうその言葉を平然と受け止められない。本当に彼がこの世からいなくなってしまう情景を、想像してしまうから。
「一つは、地上20メートル以上の高さであること。大体ビルの7階か8階くらい。それ以下だと、死ねない確率が高いんだって。二つ目は……」
玲唯の話していることも頭に入らず、ただ単にお前は生きてくれ、と心の中で思うだけだった。暑さが思考力を奪って、部活で使い倒した足の筋肉が張っている。
「この近くにビルはたくさんあるんだけど、ほとんどが関係者以外入れないビルもあるから、意外と探すのは大変だと思う。それで……」
玲唯はなぜが自殺の話になったとたんよどみなく話し出す。でも、どうして自殺を考えるまでに至ったのか、肝心なところがわからない。
「ちょっと、待ってくれ。いったん休憩しよう」
コンビニの前でそう声をかけると、玲唯は立ち止まってくれた。
「いったんコンビニで昼飯買わせてくれ」
「わかった」
部活の後昼食を食べていないので、空腹だった。涼しいコンビニに入って適当なパンとジュースを買い、それを歩道の端っこで食べる。のどにつっかえるのを水分で無理やり流して、何とか栄養補給は完了。
「とりあえず、駅前にビルが多いからそこまで少し歩こう」
俺の昼食が終わると、玲唯は追い立てられるようにすぐ歩き出す。彼の後ろを歩きながら、ずっと訊きたかったことが頭の中で回る。
一緒にいて自殺方法を考えたりしていたらいずれ分かると思っていたが、一向に彼から「そのこと」を話す気配がない。直接訊かない方がいいと思っていたが、このまま何も聞けないよりはましなのかもしれない。
まだ迷いながら、それでも声を出してみる。
「そもそもさ、」
玲唯は振り向かない。だからどんな表情をしているのかもわからない。
「どうして、自殺をしようと思ったの」
「それは、答えなきゃダメな質問?」
彼が振り向く。
「いや、べつに。答えたくなかったらいいよ」
そんなわけはなかった。押しつけがましいかもしれないが、俺はこれだけ玲唯のことを心配していて、彼が辛いことの理由すら聞けないなんておかしいと思った。確かにあの時は「何でもする」なんて言ってしまったけど、それはいずれ玲唯から何かを話してくれるという前提だった。
あの時は、何が何でも知りたかったのだ。大好きな人が、どんな理由で自殺を考えるまでに追い詰められていったのか。知らずにはいられなかった、という方が正しいかもしれない。
「じゃあ、答えない」
彼はやっぱりそっけない。
「まず、あそこ行こう」
玲唯が指さしたのは、病院やカラオケなどが各階に店を構えているビルだ。あまり広くはないが、高さは7階まである。
そのビルを目指して、駅前のごちゃごちゃとした道へ入っていく。
ビルへ着くと、玲唯は迷わず階段を上り始めた。俺も力の入らない足を踏ん張って狭い階段をついていった。階段を上りながら見つけた窓は玲唯がすべてチェックするが、ビルにある窓はすべて勝手に開けられないようになっていて、おまけに屋上も立ち入り禁止だった。
「まあ、そうだよね」
いつも通り、玲唯はうまくいかないことに対してショックを受けている様子はない。ただ試行錯誤に集中するあまり、視野が狭まって苦しそうな感じがあった。
「次、行こう。次はあのビルがいい気がする」
そうやって、また同じようなビルへ向かう。そのビルには一カ所、窓がほんの少し開いているところがあって、玲唯の細さなら通れる隙間だった。死ねる確率が高いのは地上20メートル、7階からだ。この窓があるのは6階だが、頭から落ちれば死ねる確率は低くないだろう。しかし、窓の隙間から下をのぞき込んだ玲唯は、首を振った。
「通行人が多い。夜なら少ないかもしれないけど、夜はビル自体開いてないだろうし」
「通行人が多いと、ダメなのか」
「人の上に落ちるとクッションになって死ねなかったり、逆に僕が飛び降りたのに巻き込まれて無関係な人がケガする可能性があるから」
あくまで冷静を装ってはいるが、何度もビルを回るたびに、玲唯がうつむいてぼうっとする時間は長くなった。目は夜更かしをして携帯を見ている時みたいにうつろになっていて、もう彼が何の判断もつけられないのは明白だった。
「今日は、ここまでにしよう」
俺の提案に、玲唯は少しのあいだ体を硬直させて、でもやっとのことでうなずいた。
「うん。また今度にする」
肌を焼くような日差しと、地面からも立ち上ってくる暑さに耐えながら、何とか駅へたどり着く。冷房の効いた電車へ乗り込み、座席に腰掛けると少し安心した。玲唯は眠たそうな顔をしている。
たった二駅乗っただけ。そのあいだにゆっくりとした時間が流れた。汗が服を通り越して座席にまで染み込む。
車内は明るい光に満ちていた。窓が、そのまま外に手を伸ばせそうなほどきれいだ。窓ガラスと、湿った暑さをまとう透き通った空気の、その先。ビルの林が一枚絵のように整って見える。外にいるときは溶けそうな気がした建物すらも、きつい日差しにくっきり浮かび上がる。
ちょうど昼下がり、一番時計を見なくなる時間帯だ。思わずまどろんで、意識が飛びそうになった瞬間、俺たちの最寄りについた。
「おりるよ」
「うーん」
眠そうに目をこする玲唯の手を取って、電車の外へ連れ出す。いきなり手を握ってしまったことに自分で慌てる。手と手の触れるところに、じんわり汗がにじむ。柔らかく包むように、でもこの手が決して逃げてしまわないように。
今、玲唯の指を握ったこと。なぜかこの感触を、先ずっと覚えていようと思った。
ホームには蝉の鳴く声がしていた。玲唯の手を離して、寂しくなった片手の位置に困りながら、歩く。部活で使ったナップザックがさっきより重く感じる。玲唯は隣で、レモン色のTシャツをまとって、眠そうに肩を揺らしながら歩いていた。その姿がいとおしくて、もう一度彼の手を握りたくなったけど、やめておいた。
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