現地視察、ホームドアのない駅 2
電車は、ある一つの駅に停まる。
「ここ、降りよ」
玲唯がいきなり立ち上がった。俺もそれに続いてホームへ降りる。外の暑さに覚悟していたが、外へ出た瞬間涼やかな風が肌を撫でた。
天空にあるような不思議な駅だった。ホームに障壁はほとんどなく、ところどころバス停の雨除けのような小さい屋根がついているだけ。屋根も壁もない。眼下に小さく、アスファルトに熱を受け続ける道路と、暑さに溶けるような住宅や店舗が広がっていた。
そして、正面の遠方に、海がほんの少しのぞく。きらきらと海面が波打つのが小さく見える。海の底のが透けて見えるみたいに、深い青だ。
ホームは高い緑のフェンスで囲われていた。塗料がところどころはげて、さびた茶色が見えている。
フェンスへ寄って下を見ると、そこは道幅の広い道路になっている。このフェンスはしっかりした金属で作られているのでなかなか破れないだろうが、もし落ちたらその先は硬いアスファルト、という恐怖は消えない。その緊張感でさえも、このホームに吹き抜ける不思議な開放感に一役買っている。
「気持ちいいね、ここ」
玲唯はすがすがしい顔でフェンスにもたれかかり、空を見上げた。
「思い浮かべた景色、そのまんまの駅だ」
「俺も。こんな感じのところ想像してた」
玲唯と同じ情景を思い浮かべていたこと、その場所へ行けたことに、うれしさがこみ上げる。この景色に好きな人と二人きりというシチュエーションが、あの女子大生の言ったとおり「青春」そのものみたいで。
街の音や風の音が、混ざり合って区別がつかなくなり、波の音みたいに心地良く鼓膜を震えさせる。二人以外は誰もいないこのホームで、二人の心は空と同じ色に染まる。
玲唯の手が、あとちょっと、指を開くだけで触れられそうな距離にあった。
この景色にあまりにも似合いすぎて、君は空の色に溶けて消えてしまいそうだ。
玲唯が異性だったらどんなにいいか、なんてことも思ってみる。異性だったらそもそも俺なんかと一緒にここまで来ないのかもしれないが。
誰にも遠慮せずに青春を楽しめたらいいのに。触れたら、好意がばれたら気持ち悪がられるかもしれないなんて考えなくて済んだらいいのに。でもほんの少しなら、許されるか。あくまで友達として、元気づけるように。なんか変にやさしい手つきじゃなくて、がしっと力強く手を握れば。そう、まずは数センチ指を動かすだけ。
開こうとした指を、唐突に玲唯の声がはばんだ。
「今、死なない方がいいかな」
こんなにきれいな景色の中だから、ぽつりと足下に落ちたその言葉が怖かった。
「僕の死ぬとこ、見たくないよね」
玲唯が、俺の肩に手をかけて優しく言った。あまりに淡泊な玲唯の口調に、こっちが泣きたくなる。
友達としてなのに、なんでこんなに柔らかく触れてくるんだろう、君は。
「そんな顔しないでよ。死ぬのはまた今度にするからさ」
「ごめん。顔に出てたか」
「わかりやすすぎだよ」
玲唯の笑顔は、やっぱりおかしいくらい明るい。
「ごめん。じゃあ、とりあえず今日は帰るか」
「うん」
もたれていたフェンスから、無理やり離れて、玲唯に続く。
反対側のホームに行った。しばらく待つと、各駅停車がやってきて、俺たちはそれに乗った。同時に、あの景色もあとにした。
「この電車は、H駅での事故のため、約20分遅れております」
そのアナウンスが流れてから、少し間があって、玲唯がなにか思い出すような顔をした。怪訝さと、焦りの合わさったようでもある。
「ちょっと待って、もし僕が電車に飛び込んだら、電車が遅れるよね。人身事故の処理ってどのくらい時間かかるんだろ。遅延したら人に迷惑かかるよね」
ぶつぶついいながら、焦った様子でスマホに手を滑らせている。
「え、そんなことあるの?」
小さく漏れ出た声が震えていた。玲唯がネットの記事を指さしていたので、俺はスマホを借りて読んだ。
電車に轢かれる人身事故は、運転手や見た人のトラウマになる、という記事だった。
高速で向かってきた電車に撥ねられると、体はバラバラになる。その記事では、目撃者がその遺体の様子を生々しく語っていた。撥ねられた肉片を「マグロ」と呼ぶ人がいることも、「亡くなった方と最後に目が合った」という運転手のことも、全て人ごとではなかった。
中には、PTSDの症状長く悩まされ、駅へ行けなくなった人もいるらしい。
記事を全部読み終えて、玲唯にスマホを返す。
「やっぱ電車で自殺するのは、やめとくよ」
玲唯の声は一気に沈んでいた。
「うん。たぶんやめた方がいい」
絶対に、という言葉は使わないようにしたけど、本音は「絶対にやめて欲しい」だった。玲唯の体の繊細な線とか、薄くて淡い花びらが静かに開いたような笑顔が、原形をとどめなくなるのは受け入れられなかった。
「遺体も、きれいじゃないしね」
自殺方法を探すときの三つ目の条件、「美しい死に方であること」。たぶん電車への飛び込みは、これを満たさない。
「いや、遺体はどうでもいいんだ。僕は僕の遺体を見れないから」
「え?」
「どうやっても見れない自分の遺体より、僕が最後に見る景色の方が重要でしょ」
でも、見るも無惨な姿になった遺体を目の前にした家族や、友達はどう思うのか。そんなこと、玲唯の前では声に出せないが。
「それから、人にかける迷惑が一番大事。いろんな人にトラウマを植え付けて死ぬのは嫌だから」
「そうか」
なんとなく腑に落ちない。「美しい」って、死んでいる光景が美しいんじゃなくて、玲唯が最後に見る景色が美しいってことなのか。わかるような、わからないような。
でもきっと、死ぬ直前の玲唯の気持ちが大事なんだろう。人に迷惑かけずに、きれいな景色を見て死ねたなら、すがすがしいだろうから。
脳裏に、ぱっとある光景が浮かんだ。
いつもの透き通るような明るさの笑顔を浮かべて、玲唯がホームに立っている。
空気を押しのけてものすごい速さで駅を通過しようとしていた電車に、まっしぐらに走って飛び込む。
玲唯の細い体がはじける。
鮮烈な赤が電車に、線路に、電車を待っていた人々の足下のアスファルトに、たたきつけられる。
ばらばらの肉片になった玲唯が、あちらこちらに落ちる。
電車は、ずいぶん先で停車する。
止まった電車の後方の車両と、唖然とする人々と、玲唯の破片が、惨劇の残骸として置き去りにされる。
本当に電車に飛び込んだら今思い浮かべたようなことになるのかは分からないけど、確実に彼の体は今とは違う形になる。
無理だ、絶対に。
絶対なんて言葉は使いたくないけど、絶対に無理だ。彼がそこにいなくなること。もう二度と彼の声が聞けないのだということ。
自殺するということはそういうことなのだと、今まで気づかなかった。死はまだ遠いことだから、あえて遠ざけてきた。今もまだ、身近な人の死を自分がどんな風に感じるかなんてわからない。
でもはっきりと、玲唯に生きてほしいと思う。儚いほどに美しい彼の仕草や声が、ずっと続いてほしい。桜に散るなと願うほどの矛盾かもしれないけれど、玲唯には周りがうんざりするほど永く、生きてほしいのだ。
何も言えないままで、俺たちは最寄りのT駅に着いてしまう。無言でホームへ出て、外の暑さに肌がほてる。
改札を出て、別れてしまう前に。
「玲唯」
声をかけると、彼は落ち行く桜花が舞うように、振り向いた。
「今度また、会おう。電車以外で方法を考えよう。それまでは、死ぬなよ」
熱されたアスファルトの上で、かろうじてそれだけ言って、別れた。
入道雲は相変わらず、力強く天を駆けていた。
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