余談 (8)


 さよならの時間です、と喜多見は言った。


 気が付けば時刻は午後十時を回っており、寒さも一段と増していた。


 喜多見は後ろ手に組み、久我山に向けて少し残念そうな表情を浮かべる。


「そう、ですか。さよなら、ですかね」


「そうですよ。もう十時を回っていますし、寒いんですから、そろそろ家に帰るべきです。お母さんも心配していますよ。……だから、帰りましょう」


 久我山はゆっくりと頷いていた。


 名残惜しい気持ちは残っており、それが消える事はないだろう。だが、もう終わりにした方が良い。何時まで居ても決めた事は変わらないし、変えてはいけないのだから。


 一度決めた事は、そのままにするべきだ。


「ところで……さよならする前に、一つ訊きたかった事があるんですよ」


 喜多見はそう言う。


「と、言いますと?」


「いえ、久我山さんにとって私は、どう言う存在だったのかな、と思いまして。私の事を一言で表現してみて欲しいんです。自由に、思うままに」


「…………」


 久我山は考える。


 まず、友達と形容して良い関係ではない。友達の領域は完全に超えている。すると一見順当そうな表現として浮かぶのは、恋人。


 しかしこれも考えていると、何処か違うように思えていた。


 恋人という言葉で表現しては、何かが足りない。それだけでこの関係を表してはいけないような、そんな気がする。


 少し考えた後、当て嵌まりそうな単語を思い付いていた。


 だがその思い付いた単語はどうも飛躍してしまった物のようにも思えたが、ひとまず述べる事にした。


「……そうですね。僕から見れば喜多見さんは――神様、でしたよ」


 か、かみさま? と喜多見は驚きの声を上げていた。


「そう、神様だと思うんです。友達ではないし、恋人……も、何処か違うような気がするんです。それで言い表して良いともあまり思えなかったんです。


 だから僕にとって喜多見さんは、神様のような存在。僕の前に降臨してくれて、何もかも変えてくれた、そんな特別な存在だと……思いました」


「――神様、ですかぁ」


 喜多見は可笑しそうに笑う。


「私、人間を超えて、神様になっちゃいましたね。……でもまぁ、神様に相応しいように過ごさないといけませんね」


「あの……最後に僕からも一つ、訊いても良いですか?」


 一つ、ほんの些細な疑問ではあるが一つ、分からない事が残っている。


 別れる前にその答えを聞いておきたい。


「はぁい? 何ですか?」


 喜多見は笑いながら訊き返す。


「覚えていますかね。一年ぐらい前、喜多見さんに出会ってすぐの頃。確か出会って……次の日ぐらいに、散歩に出掛けた事がありましたよね」


「ええ、ちゃんと覚えていますよ」


「で、その散歩の帰り道、神社に僕達は行きましたよね。そこで折角と言う事で本殿の前で手を合わせて祈ったんですけど……。


 あの時、喜多見さんは何か呟いていたんですよ。その時は何を言っているのか分からなかったんですけど……折角ですし、嫌でなければ何を言っていたのか、教えてくれませんか?」


 あ、その事ですか。と喜多見。


「というか、私が呟いていた事に気付いていたんですね。やだ、恥ずかしいなぁ。

 何を言っていたか、ですよね。ふふ、少し恥ずかしい事ですけど、じゃあ言っちゃいます。これで最後ですし」


 少し照れくさそうな表情になって、喜多見は明かした。


「『久我山さんと仲良くなれますように。それに出来れば、私を好きになりますように……』と、呟いていたんですよ」


 叶いましたね、と喜多見は小さく笑い、


 そうですね、と久我山も小さく笑っていた。




 さようなら、と言って、喜多見はビルから降りて行った。




 残されたのは久我山一人。がらり、とした屋上の景色が彼を包んでいる。


 今から追い駆ければ喜多見に追い付けるかも知れない。また会えるかも知れない。そこで必死に頼み込めば昔のように過ごす事は出来るかも知れない。


 だが、それはしない。


 してはいけないと決めたのだから、もう考えない。


「……そう。これが最善だ。二人で考えた最善なんだから」


 約束は破らない。これで終わりだ。


 ――久我山は空を見上げる。


 星々が久我山を見つめ、そして久我山も星々を見つめる。星にはすぐ隣に星が存在するが、彼にはすぐ隣に〝星〟が居ない。それを考えると寂しさをどうしても覚えてしまう。


 だが、久我山は気付く。


 それは違う、と。


 空に浮かんでいる星々の間には、数百万、数千万光年のような広大な距離が存在している。近接しているように見えてその実、距離はかなり離れているのだ。それに比べれば同じ地球に居る時点で、久我山と喜多見は近いと言えるだろう。どれほど離れていても、精々二万キロ程度にしかならない。星々と比べれば誤差と言い切ってしまえる物だ。


 それに――喜多見は言っていた。


 ひっそりと久我山を見守り続ける、と。


 具体的に何処に居るのか分からなくとも、それでも存在する事は間違いないのだ。間違いなく存在し、そして必ず久我山を見守り続けているのだ……。


 そこまで考えた時、久我山は気付いていた。


「これ、神社で喜多見さんが言った事と似ているな」


 約一年前。喜多見が言った神様の存在に対する問いの考え。具体的に何処に居るのかは分からなくとも、恐らく何処かには居て人々を見守っていると言う考え。それと合致している。それに先程、久我山は喜多見を神様のような存在だと評した……。


 喜多見は本当に、神様のような存在だろうか?


「……いや」


 自問自答した久我山は、緩やかに首を左右に振っていた。


「それは違いますよね。喜多見さん」


 それは違う。


 喜多見は神様のような存在ではない。


 そのような遠方に居る存在ではない。


 喜多見が何であるか。その答えは一つしかない。


 確固とした答えが、一つ。




 ふっ、と。


 何処からか、風に乗って流れるように、


「そうですよ。私は機械ではないし、神様でもなくて――。人、なんでしょう?」


 と言う、声が聞こえていた。





                   人の領域 - The Border Line -  (了)

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