余談 (5)


 そっ、と。


 喜多見は久我山に近付く。一歩一歩近付き、その距離が数十センチほどになったところで立ち止まっていた。


 そして喜多見はゆっくりと手を動かし、その掌で久我山の頬に触れ、さらさら、と労わるように優しく撫でる。


 久我山さん、と喜多見のハッキリとした声。


「久我山さんは私の事、好きだと言ってくれましたけど……。私だって、あなたの事が大好きなんですよ」


 面と向かって伝えられる愛の言葉。


 久我山は僅かな恥ずかしさと共に、膨大な喜びの感情が湧いていた。


「大好きです。とっても大好きです。久我山さんは私の事を想って行動してくれましたから。


 バッテリー不足で倒れた時も、私を背負って長い道を歩いて送ってくれました。


 私にお礼をしたいと思って、洋服のお店に連れて行ってくれた事もありました。


 そして――私を助けたいと思って、身を挺して救ってくれた事もありました。


 こんなに気に掛けてくれたらもう、大好きになるに決まっています。あなたのずっと傍に居たい。あなたの事を愛しながら傍に居続けたい。出来る事なら結婚だってしたい」


 だが、


 そう言った後、喜多見は久我山から一歩、距離を置いていた。


 近付いた筈の距離は、離れる。


「でも――気付いたんです。一年前に私は気付いたんです。それは駄目だと言う事に。何となくその可能性がある事は分かっていましたが、あの震災の時に確信を抱いたんです」


「……駄目って、何が?」


「久我山さんは……私の事、機械ではなく、人間だと思っているんですよね。一年前も、それに先程も。そのように答えていましたよね」


「ええ、そうですけど」


 喜多見は数秒ほど、無言になり、


「そこが駄目、なんです」


 そう言って、また一歩距離を離していた。


「……どう言う事なのか、本当に分かりません」


 久我山は苛立ちの感情を覚えていた。


「機械じゃなくて人間だと思うのが――僕がそう思うのが、一体何が駄目なんですか?」


 またも数秒、喜多見は無言になる。


「久我山さん。私はあなたの事が大好きです。どれぐらい好きかと言いますと、あなたに命の危機が迫った時、自分の身を挺してでも助けたいと思うぐらい好きです。私という存在を捨ててでも助けたい人なんです。愛によって生まれた、この世に存在する唯一無二の人なんです」


 そして、と喜多見は続ける。


「私に何らかの危機が迫った時。自分の身を挺してでも私を助けたいと久我山さんは思っていますし、そうしてしまうほどに私を愛しています。一年前の震災時。それを私は身を以て体感しました。久我山さんは私の代わりに犠牲になろうとしてしまいました。


 何故、そんな事をしてしまったのか?


 それは久我山さんにとって私は、単なる機械と見ていないからです。人間と同等な存在だと思い、捉え、そして接している。だから犠牲になろうとしてしまった。私にはとても受け入れられない選択肢を取ってしまった。……さあ久我山さん。分かりますか? 主張がぶつかっている事に」


〝主張がぶつかっている〟


 久我山はその言葉の意味を理解しようと数秒考え込み、やがて気付いていた。


「……ああ、そうか。僕と喜多見さんはお互いの事を助けたいと思っているのか。それも同じように、自分を犠牲にしてでも」


「そうです。これ、かなり大きな問題なんですよ。分かりますか?」


「……いえ。主張がぶつかっているのは確かに分かりますけど、具体的にどんな問題があるんですか?」


「そうですね……じゃあ、簡単な例え話をしましょうか。


 私と久我山さん。その二人に何らかの危機に見舞われているとしましょう。それも命や存在を脅かすほどの危機。他者の力ではどうにも解決出来ないほどの危機です。


 さて、その時もし、どちらか一人を犠牲にすればもう一人は助かる、という状況が来たとします。その場合、私達はどんな選択肢を取ろうとすると思いますか?」


「どんな選択肢って――」


 久我山は考え込もうとして、すぐにハッとする。


 これは、だ。


「……気付きましたか。そうです、私は久我山さんを、久我山さんは私を犠牲にしたくないから、どちらか、という選択肢を取る事が出来ないんですよ。これが本当に不味いんです」


 喜多見は小さく息を吐く。


「そのような状況が、これから生きて行く中で起こらないとは言えません。震災のように、何時か私達の身に危機的状況が再び迫るかも知れません。


 そしてもし、例に挙げたような状況――二人の内、一人を犠牲にすればもう一人は助かる、というような状況が実際に起きた時――恐らくこのままだと、どちらも犠牲になってしまいます。どちらか、と言う選択肢をお互い取れませんから」


 くるり、と。


 喜多見は久我山に対して背を向けていた。


 それは何処か、彼を拒絶するように。


「だから、傍に居続ける事は出来ないんです。危険すぎますから。……この事にハッキリ気付いたのは、久我山さんが昏睡状態に陥って入院していた時です。


 そう、気付いたんです。これは凄く不味い状態になっている、と。互いにこの考えを持ち続ける限り不幸な結末に至ってしまう可能性がある、と。それは避けなければいけません。それだけは絶対に、絶対に避けなければいけないんです。


 だから……私は姿を消す事にしました。そして気付かれないように、そっと久我山さんを見守り続けるつもりでした。でもまぁ、あのデパート跡地が偶然目に入って、懐かしくなってついぼうっと見てたら、その姿を久我山さんに発見されるとは。間抜けですね、私は」


 背を向けたまま、再び溜息を吐く喜多見。


 やがて体を久我山に向ける。


 何時も通りと呼べそうな、笑顔を浮かべて。


「そういう訳なので――お別れなんです。傍に居続ける事は出来ないんですよ。そうすると、不幸になるかも知れませんから」

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