余談 (3)


 人の姿はまるでなく、また音を発する物も殆どない。暗闇の道の中には久我山しかおらず、車も殆ど通らない寂しい道になる。そしてその道を通っている際にも絶えず寒さに晒される。


 防寒着としてコートを着ているが、あまり十分とは言えないようだ。首元から冷気が入り込み、全身に届いてしまう。マフラーを着ればまだ良かったかも知れないが、手元にない状況で考えてもあまり意味はない。


 そうして凍えながら歩く事、十数分。


 久我山は目的地に着いていた。


「…………」


 ただじっと、デパートの跡地を見つめる。


 当たり前と言うべきだが、そこは太陽が出ていた時に見えた景色と何ら変わりない。精々変化があるとすれば、光量が殆どないぐらいだろう。モニュメントも建設されていない現状ではそこに光を灯す必要性もなく、ただただ暗い場所としてあるだけだ。


 音は相変わらず殆どない。


 人々の姿も見えない。


 そして――現実、と言うべきか。


 喜多見の姿は何処にも確認する事が出来ない。


 早々都合が良い事が起こる訳もなかった。


 どうして久我山の前から姿を消したのか分からないが――しかしそれは、恐らく何か明確な目的があっての事だろう。何らかの目的、事情があり、久我山の前から姿を消す必要があった。


 と言う事であれば、ここのように久我山が訪れる可能性がある場所に、喜多見が自ら訪れる訳がない。当たり前の話だ。


 当たり前の話に久我山は気付かない。


 あるいは、気付きたくない。


「……何やってんだろうな、僕は」


 自分自身に呆れ、そして家に帰ろうと考える。


 もう何も得る物は恐らくないだろう。ここにある物は変わりはしない。それならば早く家に帰ってこの寒さから抜け出したい。


 くるり、と踵を返す。


 足が向く先は駅の方向。電車に乗って早く帰りたい。帰って早く眠りたい。


 早くこの気分から一時的にで良いから、抜け出したい――。




 ちらり、と。


 何かが、見えたような気がした。




 久我山は立ち止まり、視線を一点に集中させる。


 視線はそのデパートの跡地の隣に向けられている。


 建立されたばかりのビルが二棟横並びに建っているのだが、そのビルの間の路地に――間違いない。久我山は確信出来る。その姿に関して見間違う事はないという確信があった。


 喜多見が立っていたのだ。


 細い路地から顔を僅かに出し、視線はデパートの跡地に向けられている。久我山の存在に気付いている様子ではない。


 思わず遠くから声を掛けようとして――ギリギリ、踏み留まっていた。


 してはいけない。ここでしてはいけない、と。


 喜多見までの距離が十数メートルほどある今この位置から声を掛けても、人間よりも強力な脚力を用いて……恐らく、逃げられてしまう。


 今まで姿を消していた点を考えると、そのような行動を取ってもおかしくはない。声をかけるのであれば、もっと近付いてからなければいけない。


 ではどうするか。


 久我山は密かに忍び寄る事に決める。喜多見はデパートの跡地をじっと見つめているのだから、気付かれないように後ろに回り込む。そしてその距離が数メートル程度まで近付いたところで声をかけるべきだろう。


 一つ幸運なのは、昼間この辺りを歩き回り地形に関しては大分頭の中に入っている事。喜多見が居るビルの路地も、何処から伸びているのかは大方の予測は付いている。地形が分からず困る事はない。


 行動に移す。


 久我山は再び駅に向かって歩き出す――ふりをして、そのままぐるりと遠回りをして、喜多見が居る路地の反対側に回り込んでいた。勿論、彼女が何時移動するのかも分からないので、なるべく早歩きで行った。


 路地の前に着いたところで、今度は早歩きではなく、とてもゆっくりとその路地の中に入り込んで行く。


 足音をなるべく立たせないようにしながら、進む。


 ほんの僅かにでも音を発しないように、一センチ角の石すら踏んで音を発さないように気を付けながら、慎重に進んで行く。足と視界の二種の感覚を研ぎ澄ませ、音という物を出来るだけ封殺しながら進んで行く。


 久我山の人生の中で、ここまで足下に気を付けながら歩いたのは二度目になる。


 一度目は一年前。瓦礫の穴から抜け出す時だ。


 だが――もしかしたら、身体能力が全て人間よりも上である喜多見には、僅かにしか発してない足音も聞こえているかも知れない。


 しかしそれはもう、気にしていても仕方ない。


 今はただ静かに、進んで行くだけだ。




 その後ろ姿が見えて来る。


 徐々に近付き、徐々に鮮明に映る。


 間違いなく、喜多見だ。彼女は何処かで見た事があるような気がする、白いガウンを着ていた。どうやら近付いている事にはまるで気付いておらず、ただじっとビルの間から、そのデパートの跡地を見つめているようだ。


 ……もう少し。


 もう少しだけ近付いてから、声をかける。


 一歩一歩、詰めて行く距離。


 気付けば、手を伸ばせば届きそうなまでに近付いていた。


 もう、良いだろうか。


 これ以上近付かなくても――大丈夫なはずだ。声をかけても良いだろう。いや、もう声をかける事を我慢するのは難しい。


 一年ぶりに会えたのだから。


 早く会話をしたいのだから。


 だからもう、とても待てない。


 久我山は意を決し、静かに空気を吸い込んで、喜多見に向けて大きな声を投げかける事にする。


 それは疑問と、嬉しさに満ちた声で。




「――喜多見さん。どうしたの?」




 ビクッ、と。喜多見の体が思い切り跳ねていた。


 ゆっくりと――本当にゆっくりと、その体は久我山に向かれて行く。顔がゆっくりと見えて来る。僅かな明かりに照らされたその表情は、


 驚きに満ちていた。


「く、久我山さん。どうしてここに……」


 姿だけではなく、声も間違いなく喜多見の物だ。


「どうしてここに、って言われても……。色々な場所を歩いていたり、色々な物を見ていたりしてたら、偶然、喜多見さんの姿を見付けたんですよ」


「偶然、ですか」


 そう言い、喜多見はその顔を何処か残念そうに背けていた。


 気配、と言って良いだろう。


 久我山は喜多見が、次に何をしようとしているのか、何となく分かった。


 だから先に言う事にする。


「また、姿を消すつもり?」


「え――」


 喜多見は驚きの表情を浮かべたまま、久我山に視線を向けていた。


 実に分かりやすいと言える。言葉など一言も発さなくとも、それが正解である、と示していた。気配が周囲に漏れ出ていた。


「どうして、分かったんですか?」


「どうしてって言いますか……。気配、って言う物。上手くは言えないんですけど、喜多見さんからそんな気配が漂っていたんですよ。また消えてしまいそうな、そんな気配が」


「気配、ですか……」


 喜多見は大きくうなだれていた。


「そうですね、確かにそんな事を考えていました。また姿を消そうかな、と」


 姿を消す……。


 この点が何故なのか、久我山は気になっている。


 何故、喜多見は久我山の前から姿を消したのか。何らかの理由があるのは分かるが、ではその具体的な理由は? どんな理由で姿を消す事になったのか? それは喜多見の問題か、それとも久我山の問題か、あるいは両方か?


 だが――それがどんな理由であれ、このまま姿を消す事を認める訳にはいかない。


 理由は聞かなければいけない。


 しっかりと聞き、その上で考えなければいけない。


「……喜多見さん。とりあえず、その、話をしませんか? もう色々な事を話したいんです。この一年間にあった事を、色々と」


「それは……それは構いません。ただ、その前に一つ、訊いておきたいんです」


 喜多見は顔を上げて、久我山を見つめる。


 何処かその表情には、意思を決めたような、あるいは覚悟を決めたような、そんな凛々しさがある物が浮かんでいた。


 こんな表情をする喜多見は、初めて見るだろう。




「久我山さんは――私の事、機械だと思いますか? それとも人間だと思いますか? 今ここで、正直に、答えて下さい」




 静かに響く喜多見の声を聞いて、久我山は疑問に思う。


 この問いは分からない、と。


 どう言う意図があっての物なのだろうか。機械であるか人間であるかの選択肢をここで提示し答えて欲しい、というその意図は? 喜多見はこの問いによって久我山の何を知りたいのか。何を読み取ろうとしているのか……。


 分からない。どうもよく分からない、としか言いようがない。


 分からない以上、ひとまず正直な思いを述べる事にする。


「そう、ですね……」


 正直な答えは一つしかない。


「僕は喜多見さんの事を、人間だと思っていますよ」


 この考えは一年前から変わっていない。


 久我山は喜多見の事を人間だと――人間と完全に同等な存在だと捉えている。これは旅館の時以来、一切変わらない考えになる。


 これだけは間違いない、と。


 少なくとも久我山から見ればそうであると、確信している。


「そう、なんですか……」


 ハッキリと、喜多見は酷く残念そうな表情を浮かべていた。


 それに対して久我山は困惑してしまう。何故この表情を浮かべるのか。何かおかしな事を言ったか。


 確かに物質的な意味では喜多見は人間とは言えないだろう。その事に関しては以前、彼女も述べていた。自分の考えと違うから落胆したのだろうか。


 いや――違う。


 喜多見が今浮かべているこの表情はまるで、自分の望む答えを得られなかった、あるいは、期待が叶えられなかった、とでも言い表せそうな物だ。単に意見に隔たりがあるから生まれた物ではない。何か別の、もっと別の理由があるような。


 しかもそれは久我山が気付いていないだけで、とても重大な問題でもあるような。


「喜多見さん。一体今の質問には――」


 どう言う意味があるんですか? と発する前に、


 喜多見は、ぱぁっ、とした笑顔を浮かべていた。


 それは一年ぶりに見る事が出来た、喜多見らしい表情。普通の人間では中々至る事が出来ない、純度が極めて高い笑顔。


「……ええ、そうですね。久我山さんの言う通り、少しお話をしましょうか。すぐに消える、なんて事はもうしませんから」


「それは分かりましたけど……」


 喜多見は久我山の手を取る。


「それから、久我山さん」


 喜多見は手を取りながら、そして久我山を見つめながら言う。


 笑顔は消え、名残惜しそうな表情で、


「気になっていますよね。どうして私が久我山さんの目の前から姿を消したのか。何も言わずに去ったのか」


「そうです。それに関しては物凄く、と言って良いほどに気になっています」


「その問いにはちゃんと答えます。答えますけど……最後にさせて貰っても良いですか? 会話の最後に」


 喜多見は小さく、消え入りそうな声で付け足す。


「別れる、前に」


 と。


 会話の最後。別れる前。


 その言葉の意味するところは、一つしかない。


「……喜多見、さん?」


「久我山さん。多分私達、一緒に過ごしてはいけないと思うんですよ」


 喜多見は笑った。


 それは哀しみに満ちあふれた、笑顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る