別離 (8)
久我山は思う。
これで良いんだ、と。
これが客観的に判断して正しいのかどうか、それは分からない。だが少なくとも、久我山の視点から見ればこの行動は正しいと思えていた。自分が今持ちうる限りの物を使って、最愛の人を救う――その行動だけは正しいと、そう思う。
久我山は暗闇の中に居る。
今度は瞼を開けている。だがもう何も見えない。
何がどうなっているのか、もう分からない。
まだ瓦礫の中に居て奇跡的に生きているのか、それともとっくに死んで、いわゆる死後の世界に居るのか、その判断も出来ない。
体があるのかどうかも……分からない。
後悔は勿論していない。
悔いも当然ない。
視界が断絶する瞬間。喜多見は確かに穴の向こう――外界にギリギリ着いたのが確認出来た。それなら十分だ。喜多見を救えたのなら、それだけで良い。
僕の命はこれで十分だと、久我山は思う。
これ以上は望まない。最後の最期に好きな女性を救う事が出来たのだから。心を動かし、命を救ってくれた存在を確かに救う事が出来たのだから。だからもう充分だ。命が消えても文句の一つもない。
満ち足りた数ヶ月間だった。
生きていて良かった、と実感出来た数ヶ月間だった……。
…………。
……何だろう、と。久我山はぼんやり思う。
声が、聞こえているような気がした。
何処からかは分からない。
だが確かに声が響いて来る。それにその声の他に、何か重い物を動かしているような音も聞こえる。これも何なのか、よく分からない。
分からない。
何が起きているのか把握出来ない。
「……さん!」
この声は……そう、恐らく喜多見だろうか。誰かの名前を呼んでいるような。
誰を呼んでいるのかは、よく聞こえない。
「……久我山さん!」
ああ、やっと聞こえていた。
自分の名前を呼ばれている。それも喜多見の声で。
と言う事は、喜多見はあの瓦礫の穴から無事に抜け出せた事になる。それなら良かった。本当に良かった。
「久我山さん。起きて下さい!」
ぱちり、と。軽めに頬を叩かれていた。
そしてその頬を叩かれた感覚で、久我山は自分が生きている事に気付いていた。
生きていなければ感覚などはない。体は確かに存在し、そしてその体を誰かが軽く叩く。ではそれは誰か、誰が叩いたのか……。
答えは一つだけ。
久我山はその一つを確認する為に、重い瞼を開けていた。
空が出迎えていた。
青く澄み切った、雲一つない空。思わず吸い込まれたくなるような、空の中に溶け込んで行きたくなるような、美しい空がある。
そしてその空の中に、一人の少女の顔。
瞼を緩ませて、今にも泣き出しそうな表情で久我山を見つめている、喜多見の姿。
「……久我山さん。独り言、聞こえていましたよ」
喜多見は久我山の手を取り、ぎゅっ、と。強い力で握り締めていた。
「後悔はないって。悔いはないって。でも……嘘でしょう、そんなの。そんな事言っているのに、涙、流しているじゃないですか」
喜多見の手は久我山の手から頬に向かい、彼の頬に伝った涙を静かに拭う。
格好悪いな、と久我山はぼんやり思う。
格好良い事をしたつもりだった。悔いも後悔もなく、喜多見を助けたつもりだった。全てはそれで良いと思い込みたかった。それが全てだと思いたかった。
だが、心の何処かで思ってしまったのだろう。
生きたい、と。
喜多見と共に生きたい――と。
「ほんっと、久我山さんって頭が悪いんですね。私ちゃんと言ったじゃないですか、死んだらお終いだって。まるで聞いていないんですから……」
そう言いながら、
ぽた、ぽた、と。
喜多見は大粒の涙をこぼしていた。
嬉しくて、
喜多見はただ静かに、泣き続けていた。
そして、
喜多見はこの後、久我山の前から姿を消していた。
第五章 …… 別離 (了)
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