別離 (7)
……視界の全てが暗黒に染まっていても、意識は残っているようだった。
まだ死んではいない。
物を考えている自分が存在している事を久我山は認識していた。視界は効かず暗黒の世界に居ても、確かに自分はこうして存在している。それだけは間違いない。
間違いないが、しかし。
何故、存在出来るのか。
瓦礫に押し潰されても生きていられる人間は存在しない。
あの少女のように死んでしまう、はずなのだ。
「……?」
久我山は閉じていた目を開けていた。
空間は残っていた。倒れている久我山の視線の数十センチほど先には、外へと続く穴の姿もハッキリと見える。確かに崩落が始まった空間は今もあり続けている。あり続けているはずがないのに存在している。
それは何故か。何がこの空間を支えているのか。
要因、となり得そうな物。
久我山は直感的に思い浮かぶ物があり、視線は真横を向いていた。
そしてその直感は当たっていた。
「だ……大丈夫、ですか? 久我山さん」
声の主である喜多見は、両腕を以て崩れゆこうとしている瓦礫の山を必死に支えていた。
その華奢に見える腕で、何トンあるのかも分からない物達から抵抗している。彼女の腕の所々にはヒビが入り、今にも砕け散りそうだった。
「き、喜多見さん!」
久我山は立ち上がろうとするが――何故か、出来ない。
腰の辺りが何かで抑え付けられているような感覚を得ていた。そのせいで上手く立ち上がる事が出来ない。一体何なんだ、と苛立ちを覚えながら腰を確認して、
鉄の、棒。
数センチほどの太さの黒い鉄棒が、腰に突き刺さっている事を理解する。
おびただしい量の出血を起こしている。
「――ァ」
自覚した途端、激痛に襲われていた。
呻き声を上げ、身を捩らせる。今までに経験した事がない痛みだった。とても我慢する事など出来ない。身を捩らせ苦悶の声を漏らさざるを得ない種類の物。激痛の海に呑まれ正気を失いそうになる――が、久我山は何とか踏みとどまろうとする。
落ち着け、落ち着け、落ち着け……。
何度も何度もそう呟き、痛みを何とか支配しようとする。
苦悶している場合ではないのだ。一刻も早く行動を起こさなければ――。
意思が体をある程度支配する事に成功し、久我山はゆっくりと立ち上がろうとする。突き刺さった鉄棒が一センチでも体と擦れる度に、気が狂いそうになるほどの激痛に襲われるが、それでも――神経が千切れると思えるほどの痛みを纏いながらも、鉄棒を引き抜きつつ、よろめきながら立ち上がっていた。
血は止まらないが、それに意識を向けている場合でもない。
一刻も早く、脱出しなければいけない。
「き、喜多見さん……」
久我山は息絶え絶えに呼びかける。
対して喜多見は、酷く申し訳なさそうな表情を浮かべ、視線を落としていた。
「申し訳、ありません。全ての瓦礫を支える事は出来ませんでした。空間を辛うじて維持する事が、私に出来る精一杯の事でした」
「……いや、それだけでも充分、です」
酷い怪我は負った。だが命を助けて貰った結果、怪我を負っただけの話だ。喜多見に落ち度などあるはずがない。
「とりあえず、早く外に出て下さい」
喜多見は静かな声で――とても大量の瓦礫を支えているとは思えない冷静な声で言う。
「外に無事に出ましたら、誰かに助けを求めて下さい。それと、出来る限り清潔なタオルを見付けて、負傷した箇所をキツく抑えて下さい。そして安静に。出来る限り横になって、体力が消費するのを避けて下さい」
「それは……それは、分かりました。でも、喜多見さんは? 喜多見さんはどうやって脱出するんですか?」
その問いに、喜多見は静かに答えていた。
「――駄目です。私は、脱出出来ません」
嫌な言葉を、
嫌な言葉を、聞いてしまった。
「だ、脱出出来ないって……」
言葉は聞こえても理解する事が出来ない。
いや、理解したくない。
「余裕が……ないんです」
喜多見は静かに、淡々と事実を述べようとする。
「こうして空間を支えているのが限界で、一歩も動けないんです。ましてや空間を支えたままこの場を移動するなんて絶対に不可能なんです。ですから……外に出る事は、出来ないんです」
ミシリ、と言う嫌な音が響き、喜多見の腕のヒビは広がる。
支えている瓦礫の位置も徐々に下がって来ている。それは明らかに限界が近い事の証拠だった。意思でどうにか出来る段階ではなく、体が持たない証拠。どれだけ意思が強かったとしても体が持たなければ意味がない。
それは分かっている。
分かってはいる……。
「だから、久我山さんは早く外に出て下さい。そして出たらこの場所から離れて下さい。なるべく遠くに。この空間が完全に崩落した衝撃で、無数の瓦礫が飛来する可能性もありますから」
「……どうすれば」
久我山はただ、訊く。
この現状を受け入れる事。
それはとても、とても出来そうにない。
抗う術を見付けなければ、いけない。
「どうすれば……良いんですか。僕はどうしたら良いんですか。どうしたら喜多見さんを助ける事が出来るんですか。教えて下さい。……そうだ、何かで瓦礫を支えれば良いんじゃないですか?」
久我山の脇腹の痛み。それはもう感じなくなっていた。
肉体的な痛みなど既に何処かに吹き飛んでいた。今の彼が感じている痛みは、この状況によって生まれている物。
今まさに、大事な存在が失われようとしている。
その絶望が痛みとなり、久我山の心を切り裂いていた。
「それは……」
問いに喜多見は、何処か残念そうな、そして何処か悲しそうな表情になる。
「それは、無駄ですよ。支えになりそうな物は近くにありませんから。この重さを支える事が出来る物なんて、何処にも……」
「分からないじゃないですか。何かあるかも知れない。何かが――」
良いんですよ、と喜多見は遮るように言う。
「これは……こうなってしまったのは、仕方ない事ですから」
「何が? 何が仕方ないんだ?」
久我山は思わず、乱暴な言葉使いになってしまっていた。
嫌な言葉だった。〝仕方ない事〟という言葉はまるで銃弾のように心を貫いて来る。そんな言葉でこの状況を受け入れようとするなど、酷く歪んだ事にしか思えない。
仕方ない事、ではない。
そんな言葉一つで、喜多見を見捨てる事など出来ない。
「こうなったのは多分、仕方ない事ですよ。私としては久我山さんが、生きていればそれで良いんです。でも、私が不甲斐ないせいで酷い怪我をさせてしまいましたけど……でもそれも、応急処置を行って病院に向かえば、恐らく大丈夫なはずです。
だから……これで良いんです。私が潰されてしまうのは――不運、仕方のない事なんです」
「…………」
言葉に詰まってしまう。
あまりにも喜多見は、とても受け止める事が出来ない言葉を発し続けている。それらを聞いても言葉など出て来ない。すぐには反応が出来ない。
十数秒かけて、久我山は言葉をひねり出していた。
「……僕には、そんな割り切りは出来ませんよ。だって……」
喜多見の腕にまた一つ、ヒビが走る。
喜多見が壊れて行く。
壊れた先に待っているのは、喪失。
「だって……。喜多見さんは僕にとって、大切な存在なんですよ。ただの<Cell>じゃないし、ただの機械じゃないんですよ。僕は喜多見さんの事が――一人の人間として好きなんです。だから助けたいんです。どうしても、どうやっても、助けたいんですよ」
「……久我山さん。それは、勘違いですよ」
優しい声で、喜多見は否定した。
「私は機械です。ただの機械なんですよ。人にはなれません。人になりたくとも、なれないんです。私を好いてくれるのは嬉しいですけど、でもその愛情は私のような機械なんかじゃなく、ちゃんとした人間に――」
久我山は頭に来た。
それは違うのだ。その主張だけは絶対に誤っているのだ。
「君は機械じゃないんだよ!」
大声を出した瞬間、強烈な眩暈が久我山を襲っていた。
視界は暗転しかけ、上手く立っていられなくなるが――それでも、近くに転がっていた鉄筋を掴んで支え、何とか倒れずに済む。
多量の出血を起こしている中で大声を発するのは、体にとって危険な行為である事は分かっていた。
だが自分の体の事など、今はどうでも良かった。
「さっきから言っているじゃないですか。喜多見さんは機械じゃない。人間なんですよ」
久我山は僅かに視線を下に向け、唇を噛む。
「旅館の時の事、覚えていますか? 最後の夜、喜多見さんは僕の事を想ってくれましたよね。前向きに生きて笑って欲しい、と言ってくれました。あの言葉を聞いた時、僕はほんとに嬉しかったんですよ。感動したんですよ。心を動かされたんですよ。あんな優しい言葉を掛けられたのなんて多分、初めてでしたから。
あんな言葉をかけられるのは、人間以外には居ないんですよ。心を動かして誰かを救う事が出来る存在なんて、それはもう人間以外の何者でもないんですよ」
そう言いながら、久我山は一つの決心を固めていた。
喜多見を何としても救う、と。
瓦礫の下敷きにはさせない。それだけはさせない。
何かを犠牲にしても、救う。
「だから僕は思ったんです。喜多見さんは機械じゃない、と。一人の優しい人間だと。
喜多見さんの内部が機械かどうかなんて、そんな事僕にはほんとにどうでも良いんです。重要なのは、喜多見さんがかけてくれた言葉ですから。その言葉が、喜多見さんが人間である証明をしていると、そう思いますから……」
ぐっ、と。久我山は喜多見に近付いて行く。
血が流れ出している脇腹を押さえながら、一歩一歩近付く。
そうして、瓦礫を支えている喜多見の後ろに立った。目の前には喜多見の背中、それにほんの数十センチ先には光り輝く穴が見える。
もうやるべき事は決まっていた。
あとはただ、持ちうる限りの筋力を使うだけだ。
それさえ出来れば良い。
「久我山さん? 何を――」
「……夢、ですよ」
久我山は静かに言う。
喜多見を救える、という安堵から生まれた、笑みを伴って。
「喜多見さんには夢があるんですよね。この世界になるべく長く存在して、そして様々な物事を経験したいという、夢が。
なら、それを叶えないと駄目じゃないですか」
そう言って久我山は数歩下がり、助走を付けて、
あらん限りの力を込めて、喜多見を突き飛ばしていた。
太陽光が降り注ぐ空間、外へとめがけて。
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