別離 (6)


 慎重に行きましょう、と。喜多見は目の前に存在する脱出口に視線を向けながら言う。


「とにもかくにも、慎重にです。なるべく振動を与えないように気を付けながら、一歩一歩進んで行く事にしましょう。


 私が先陣を切ります。出来る限り周囲の状況を観察し、何か変化があればすぐにお知らせしますし、場合によっては久我山さんに伝える前に行動を起こします。久我山さんは私のすぐ後ろに付いて来て下さい」


「分かりました。……喜多見さん、どうかよろしくお願いします」


「久我山さんこそ、頼みましたよ。瓦礫を吹っ飛ばして私を守って下さいね」


 喜多見はそう言って小さく笑っていた。


「……さて、それでは行きましょう」


 喜多見の視線は前。脱出口に向き、その中に慎重に体を滑り込ませていた。


 腕から胴体、そして足。喜多見の体は十数秒をかけて、完全に入り込む。彼女は穴の中で周囲を見渡しつつ、


「とりあえず、数人ぐらい入っても平気そうではあります。久我山さん、どうか慎重に入って来て下さい。周囲の瓦礫は勿論、足下にもなるべく振動を加えないように」


「分かり、ました」


 久我山は大きく深呼吸を行い、意を決して体を滑り込ませていた。


 上下左右。存在するのは瓦礫のみ。灰色で構成された物体が膨大に存在し、辛うじて人が通れるほどの空間を生み出していた。不安定な物である事は入る前から分かっていたが、穴の中から見ると、何故こんな空間が維持出来るのか不思議だと思えていた。


 壁は勿論、地面に対しても気を遣いながら進んで行く。


 喜多見の先に存在する明かりに向けて、着実に。




 久我山は、視界に映るその光が遙か彼方に存在しているように感じていた。


 十五メートルほど先に存在するその光。だがその光までの距離は長く感じてしまう。それは単に歩みが慎重になっているからだけではなく、周囲に存在している物全てに意識を向け神経を磨り減らしているから、そう感じているのだろう。


 喜多見は言葉を発さず、周囲に存在する物に視線を向けている。恐らく彼女の脳内では視覚に関する膨大な処理が行われ、ほんの僅かな変化――それこそ数センチ単位の変化すら逃さないように、観察を行っているのだろう。


 全てが辛うじて保っているこの空間では、僅かな変化によって全てが変わりかねない。久我山も慎重に進みながら、なるべく変化を監視しようと思っていた。


 体感時間数十分、実時間数分程度の歩みの後、


 ようやく、外まで残り数メートルほど、という距離まで近付いていた。




 すぐ傍には外がある。


 太陽の光に照らされた外が、久我山達を待っていた。


 一時間ほど暗い空間の中に居たせいだろうか、久我山にはその眩い光がとても神々しい物に感じられていた。知っているはずの太陽光とは思えない。光その物にまるで――ある種の〝魔力〟があるように感じられる。


 〝早く……〟


 〝早くこっちへ……〟


 〝さぁ、私は待っていますよ……〟


 精神的な疲労が蓄積されていたからだろう。久我山はそんな幻聴を聞いていた。


 だが久我山はそれが幻聴である事には気付かず、そんな声が何処から聞こえている、と。ぼんやり思うぐらい。


 何時の間にか、張り詰めていた集中の糸は完全に切れていた。その幻聴や光に完全に意識は囚われ、周囲を観察する意思は完全に途切れてしまった。


 迂闊、としか言いようがない。


 ゴールが見えた時にこそミスが生じやすいのは久我山も分かっていた。分かってはいたが、しかし。それが今この場で起きようとしている事にはまるで気付かず、また気付く余裕も完全に失われていた。


 完全なる空白の間。周囲を警戒する意識が途切れた間は、ほんの数秒程度。


 ――一歩。


 久我山は足を思い切り前に踏み出して、ハッと気付いていた。


 足元の先には大きな瓦礫が一つ、転がっている。位置的には避けられない。蹴飛ばしてしまう。


 だが足はもう止まらない。気付いても止めるには遅すぎた。


 久我山はそのまま、その瓦礫を思い切り蹴飛ばしてしまう。


 それは許容量を超えた振動を与えるには充分だった。


「――久我山さん!」


 喜多見の叫び声が聞こえた時、


 久我山は冷静に、死んだ、と思っていた。


 ギリギリのバランスを保っていた空間が崩落する。その一連の光景はスローモーションのように見える。それまで周囲に存在していた瓦礫がせきを切ったように――轟音を伴いながら雪崩のように降り注いで来る。 


 一つ当たり数百キロにも及ぶ瓦礫が降り注いで来るが、久我山には抵抗らしい抵抗も出来ない。只々自分を押し潰そうとする物達を受け入れるしかない。


 後悔する瞬間も、絶望する瞬間も与えられない。


 久我山の視界の全てが、暗黒に染まっていた。

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