別離 (3)

 

 …………。


 ゆっくりと、久我山の意識は覚醒していた。


 何が何だか分からない。一体何が起きたのか、どうもよく分からない。


 分かる事があるとすればそれは、この空間は何故か息苦しい事と、視界が効かないほどに暗い事ぐらい。記憶にある限り、そんな状態では間違いなくなかった。息苦しさも暗闇も間違いなく存在していない、無縁の場所であったはずだ。


 先程見ていた光景は夢だったのか、と思わず考える。


 デパートも買い物も、全ては夢を見ていただけだったのか。全ては幻であり、今ここが現実なのだろうか。それとも今も夢を見ているのだろうか。


 曖昧な意識の中、曖昧な思考に浸かってしまう。


 横になったまま、久我山は数十秒ほどぼんやりとしていた。


「久我山さん。居ますか?」


 ぼんやりとした意識の中にその声が飛び込む。一瞬誰かは分からなかった。だが数秒考える事により、その声が喜多見の物である事に気付いていた。


 そしてその声を聞く事により、久我山の意識は明晰になる。


 先程まで見ていた物は夢ではなく、また今も夢の中に居る訳でもない。現実としてここに居る事を理解していた。


「――は、はい。居ます」


 声が少し、しわがれていた。


 大きく咳き込むと、少しではあるが喉の調子が戻っていた。埃を吸い込んでいたような感覚がある。


「待って下さい。今明かりを点けますから」


 目の前がパッと白い光に覆われる。


 目を凝らしてその光の先を見れば、喜多見が手に電灯らしき物を持って立っていた。その服のあちこちには灰色の埃が付着している。電灯によって照らされた事により、空気中にも相当量の埃が浮遊している事が分かった。


「大丈夫ですか? 久我山さん」


 喜多見は小走りで駆け寄る。


 今まで見た事がない、焦りと心配さが窺える表情が現れていた。


「た、多分大丈夫だと思いますけど……。でも一体、何がどうなっているんですかね、これ」


 何が何だか分からない、と言う久我山の感想は変わらない。何故周囲は暗闇に覆われているのか、何故埃が舞っているのか、等々。気になる事は無数に存在している。


「地震、です」


 対して喜多見は確信めいた表情で言う。


「震度七は確実にある地震です。電波の状態が良くなくて正確な情報は得られていないんですけど、それでも巨大地震。直下型地震が起きた事は間違いないです」


 巨大地震と言われ、なるほど、と久我山はひとまず納得していた。


 確かにそのような事でも起きない限り、一瞬にしてここまで景色が変化する事などまずあり得ないだろう。幾らかの物が崩れ落ちて停電したのだろうか。


 凄い地震でしたよ、と喜多見。


「立っている事は勿論、安定して座る事も出来ないような、そんな激しい横揺れでした。明かりは殆ど一瞬にして消えてしまって、その後に響いたのは恐ろしい轟音です。その轟音の正体はすぐには分かりませんでしたが……」


 喜多見は電灯を周囲に向けていた。


「コレを見てしまえば、その正体は嫌でも気付く事になりました」


 そう言われたので、何気ない気持ちで久我山も周囲に視線を向けたのだが――思わず思考が停止してしまっていた。


 瓦礫。


 あるのは、只々瓦礫だった。


 ごつごつとした灰色の瓦礫ばかりが周りを囲んでおり、その中に辛うじて久我山達が居る空間が存在している、という状況。先程まで存在していた華やかさに包まれた光景は何処にも存在しない。全てが変わってしまっている。


 巨大地震が起きた、と言われただけではそこまで動揺には至らなかった。日本ではそれなりの頻度で巨大地震が起きており、久我山もある程度の規模の物は経験して来た。だから彼が今まで経験した地震を元に考え、幾らかの物が崩れて停電したのではないか、と思うぐらいだった。


 だが、大間違いだった。


 あまりにも想像の外に位置する光景だった。


 ここまでなるとは全く思っていなかった。最新の耐震技術、免震技術が施されている建物でもこんな有様になるとは。科学技術がかなり発達したこの時代であっても。


 おびただしい瓦礫は人々に警告しているかのようだ。


 自然の脅威には敵わないのだと。人間が作り上げた物など簡単に崩れてしまうのだ、と。


「この崩れ方は……恐らく、上層階が落ちて来たのだと思います」


 喜多見は目を細めつつ言う。


「上層階って言いますと……ここは確か地下二階だから、その上が落ちて来たって事ですか?」


 久我山は立ち上がりつつ訊く。もし喜多見の言う通りだとすると、久我山達の真上には一体何千トンにも及ぶ瓦礫が積み重なっているのか。


「正確には分かりませんが、その可能性は充分にあり得ます。目視で確認する限りでも数百トン以上の瓦礫が周囲を覆っているので、少なくとも地下一階、それに地上一階部分も大方潰れてしまった、と考えた方が良さそうです」


 その言葉を聞いて、思わず久我山の中に絶望の感情が湧きかけていた。


 仮にその言葉通り潰れてしまっているのなら、ここから脱出する事は非常に難しくなっているのではないか。存在していた出入口は跡形もなく消失しているのではないか。


 その感情の推移に気付いたのだろうか。喜多見は、ですが、と少し笑みを浮かべながら続けていた。


「状況はまだ幸運と言えますよ。探索出来るだけの空間はありますし、それに今のところ空気に関しても充分存在しています。元々の出入口が潰されてしまったとしても、崩落によって脱出出来る場所が新たに生まれているかも知れません」


 喜多見の視線は久我山に向く。


「ところで久我山さん。何処か怪我はありませんか? 痛みとかありますか?」


「……いや、ないと思います」


 自分の身体を見たり触ったりしたが、痛みはなく出血しているところもなさそうだ。五体満足の状態ではある。


 良かったです、と喜多見は息を漏らす。


「それを聞いて安心しました。勿論、病院に行って検査を幾らか受けないと正確には分かりませんけど、それでも……ひとまずは無事で、良かったです」


 行きましょう、と喜多見は手を伸ばしていた。


「とにもかくにも、動かないと始まりませんからね。一緒に此処から出ましょう」


 喜多見は希望に満ちた表情だった。


 この状況でその表情を浮かべられるのは、恐らく喜多見のような存在ぐらいだろう。人間であればこの状況に動揺し、怯え、不安定な状態に陥るのが正常と言えてしまう。


 だが喜多見はそうはならない。


 そうなってしまう、ある種の弱さは備えていない。


 そしてその弱さを見せない姿。それは今の久我山にとって、とても頼りになる物だった。


「……分かりました。喜多見さん」


 久我山は小さく頷き、その差し伸べられた手を取っていた。




 まるで異界の洞窟の中。数メートル先の光景すら想像も出来ない洞窟の中を歩いているようだった。ここは本当に先程まで居た場所なのかと疑いたくなる。


 周囲に存在している膨大な瓦礫。


 暗闇が永遠と続いているように見える空間。


 漂う大量の埃。


 そのどれもが非現実的。どうしても中々受け入れられない。易々と受け入れるほどの余裕はどうしてもなかった。


 久我山は辺りに視線を向けて自分以外の人の姿を探しているのだが、一向に見付かっていなかった。地震が起きる前にはそれなりの数の人の姿は確認出来たのにも関わらず、今はまるで確認出来ない。地震が起きて崩れ落ちる前に殆どの人が避難した――そう考えたいところではあるが、とても現実的ではない。現実的な答えとしては、


 殆どの人が瓦礫に潰されている、という事。


 思わずその光景を想像してしまい、ごくっ、と久我山は唾を飲み込んで立ち止まりかけてしまったが――。


「大丈夫ですか? 久我山さん」


 久我山の想像を止めてくれたのは喜多見だった。彼女は彼の表情を見て、何を考えたのかすぐに察したのか、今は、と少し大きな声で言う。


「色々と、本当に色々と思うところはあるのは分かります。考えてしまう事があるのは分かります。……でも、今はともかく。ゆっくりと先へ進みましょう。進んで進んで、出口を探しましょう。それだけをなるべく、考えましょう」


 その言葉を聞いて、久我山は一つ大きく深呼吸を行っていた。


「……そうですね」


 久我山は意識に活を入れる。


 恐ろしい事実は恐らく存在する。しかし今、その事実に視線を向けても意味がない。視線を向けて考えても事態は変化しない。


 今考えるべき事は一つ。


 それはこの空間を探索して、出口を探す事。


 冷静に、しかし着実に。


 その意識で探索を行えば、良い結果が迎えに来てくれるかも知れないから。


 久我山は再び歩みを進めていた。




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