別離 (2)
三月。春が訪れ始めてはいるが、まだ寒い日が続く頃。
久我山が通う木川高校は、学生達が待ち望んでいた春休みという長期休暇に入っていた。
クラスメイト達はそれぞれの楽しみを抱きながら日々を過ごしているだろう。以前――喜多見に出会う以前の久我山であれば、この休み期間の間もずっと引き籠っていただろう。何もする気にはなれずに。
しかし今は違った。
以前の彼であれば想像も出来ないような空間に居た。
「わぁ……。綺麗な服がたくさんありますねえ」
目の前では、喜多見が実に楽しそうに陳列されている色取り取りの服を眺めている。
その服の種類や名前は久我山にはさっぱりではあったが、そんな事はどうでも良く感じていた。喜多見が嬉しそうであれば、それだけで良かった。
「ところで久我山さん。ほんとにどれでも買ってくれるんですか?」
喜多見は目を輝かせながら訊く。
もちろん、と久我山は即答する。
「数着ぐらいなら。喜多見さんには色々と世話になっていますし、ここはひとつお礼と言う事で」
そう言いながら何気なく、近くに並べられていた服の値段タグを見て……思わず数秒身動きが止まるが、いや何とかなるだろう、と思い直す。
見た目からは全く想像も出来ない値段ではあるが、数着程度であれば買えない事もない。
久我山と喜多見はデパートの中に居た。
自宅から電車で数本乗り継いだ場所にある、敷地面積がサッカーコート二つ分程ある、五階建てのデパート。その一角にある高級ブランドの洋服店に訪れている。来店した理由は久我山が述べた通り、喜多見に対する自分なりの感謝の気持ちを、サプライズ、という形で表そうと思ったからだ。
喜多見には一方的に助けられているが、彼女に対して何かをしてあげた事は久我山の記憶にある限りでは殆どない。それは流石に格好悪いと感じていた。出来る限りの事を彼女に対してしてあげたい、と考えていた。
とは言え、金銭面の問題は悩んだ。
アルバイトも特に行っていない久我山に継続して得ている収入は存在せず、また流石に親から貰う訳にも行かない。
そこで考えた結果、今まで貯めていたお年玉貯金を崩す事にしていた。小学生の頃から今に至るまで毎年溜め続けたおかげで貯金額はそれなりの桁にはなっている。
洋服店と言う選択は勘だった。そもそも喜多見がどんな物が好きかなのかは分からず、訊いてしまってはサプライズにはならない。色々と考えた結果、恐らく洋服であればハズレないだろう、という推測を立てていた。
そしてその推測は正しかったのだろう。
喜多見は何時もよりも二割り増しほどの輝いた目を見せ、本当に嬉しそうに、楽しそうにあちこちを見て回っている。
この姿を見れば正しい選択であったと実感し、安堵していた。
「久我山さぁん。こう言うのは似合うと思いますか?」
喜多見は一つの服を手に取っていた。白地の長袖シャツに薄くピンク色の花の模様が全体に散りばめられている物。
「似合うと思いますよ」
そもそも喜多見の整った容姿を考えると、何を着ても似合いそうではある。
それでもあえて似合わない服と考えるのなら、パンクロッカーが着そうな服ぐらいだろうか。だがどんな服であろうと着こなしてしまうような気もする。
「そうですか。じゃあこれにしようかな……。いやいや、これも良いですねぇ」
喜多見は悩み、あちこちに視線を送りどうするべきかと思案している。
その様子を見ながら久我山は、思わず笑みを浮かべていた。
微笑ましい光景だった。目の前では自分にとって大切な存在が、どれにしようかと一所懸命に悩み、何度も何度も比較しているその姿は実に可愛らしい物だった。
本当に、ここに訪れたのは正しい選択だった。
「久我山さん。どっちの方が良いか、ちょっと選んでくださいー」
喜多見は幾つかの衣類を手に取りながら呼んでいる。
時刻は午後二時頃の事だった。
買い物は一時間ほどで終わる事になる。
幾つかの服が入った白い買い物袋を持ちながら、久我山と喜多見はデパート内にあるベンチに座り休んでいた。
白色が基調とされた空間の中には、明るい店頭音楽が流れ、とても煌びやかに見える。
折角デパートに訪れた、と言う事でこの後はデパート内に設けられている映画館に寄る事になった。最近上映開始されて、巷ではそれなりに有名となっている映画を観る予定だ。
順番は逆の方が良かったかな、と久我山は思う。買い物の時間が終わったのは映画の上映時刻が押し迫っていたからであり、映画が先であればもう数時間延長も出来ていた。久我山としては何時間でも喜多見が楽しそうな表情を浮かべているのを見たいところだった。
今度訪れる際はしっかりと予定を立てよう、と考えていると、隣に居る喜多見が声をかけて来た。
「……久我山さん」
それまでの楽しげな雰囲気は感じられず、少し真剣な空気が漂う物。
「どうしました?」
「その……最近、お母さんとの関係はどうですか? すみません。こんなところで訊く事じゃないとは思うんですけど、どうしても気になったので」
「……ああ、その事ですか。大丈夫ですよ」
確かに気になる事だろう。
これに関しては喜多見もあえて深く訊いては来なかったのだろうが、何時までもそのままで居る訳には行かないと考えたに違いない。
「最近は……まぁ、なんというか。少しずつだけどマシになって来た感じ、ですね。良くはなって来ていますよ」
あの日以来壊れてしまった親との関係は少しずつではあるが、良くはなって来ている。
一日の中での会話の量も増えており、母との間にあった距離感も縮まっているような気もする。未だに直接的にあの日を話題に出す事はないが……だがその内、話し合いの場が持たれる事にはなるだろう。
今であれば、あの日の事を話し合えるかも知れない。
直視して、逃げずに。
そして過去の自分と決別する事も出来るかも知れない。
そのように関係が良くなった理由は、間違いなく喜多見のおかげだ。
喜多見が居るから、心中に存在していた棘が大分丸まり、落ち着いて来たのだろう。
それにあの日の事だけではなく、抱えていたコンプレックス。頭が悪い事、友達が居ない事などに関してもあまり気にならなくなっていた。それも喜多見のおかげだ。
人生は楽しまなければ損、という言葉。
教えて貰った、その答え。
この答えは久我山にとって救いであり、悩み続けていた日々から脱却しつつあった。
喜多見は言う。――死ねば全てが無関係になるのなら、それまでを楽しく生きなければ人生の意味がない、と。楽しんで生きなければ損である、と――。
それを聞いて久我山は、楽しもうと決めていた。
楽しみながら生きて行こうとする。勉強が出来る出来ないや、友達が居るか居ないか、それらは大きな問題ではない。それらで人生の全てが決まる訳ではない。大切なのは楽しもうとする事。自らの状況を理解しそれでも楽しみを見付けて生きようとする事。それが大切なのだ。
――久我山はそのような人生の方針を抱くようになっている。それが答えだと捉え、なるべくそれに準じて生きようと、そう思っていた。
「関係が良くなっているんですか? それは良かったですっ!」
がしっ、と。喜多見は久我山の手を取っていた。
洋服店で見せた時よりも五割増しほどの明るい眼差しを纏っていた。その眼は宝石以上の輝きを放っている。この世に存在するどんな宝石よりも眩く見える。
「そ、そんな喜ばなくても良いですよ。何時か解決しなきゃいけない事ですし、むしろ遅過ぎたぐらいですから。もっと早く何とかするべきでした」
「それはそうかも知れませんけど……でも、良い事じゃないですか。私、嬉しいで
す。久我山さんが前進してくれたのは、本当に」
喜多見は小さく息を吐き、
「実はですね、ちょっと心配していたんです。私がもしかして……」
何か言葉を続けようとしていたが、数秒ほど無言になり、やがて首を左右に振っていた。
「いえ、これはきっと杞憂ですね。自意識過剰と言うか心配し過ぎと言いますか。今の言葉は忘れて下さい」
さあ、と喜多見は立ち上がり、手を差し出す。
「そろそろ映画館に向かいましょうか。良い頃合いだと思いますし」
「え、ええ」
気になりはした。喜多見は一体何を言おうとしたのか。
だが考えてもよく分からない。だからそれはまた後で考える事に決めて、その差し出された手を取って立ち上がろうとした時。
ぐらり、と。
地面が真横にズレていた。
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