夢の記録

夢の記録 (下)


 ボクが部屋に戻って来た。


 無表情であり、どんな感情も読み取れない。


 そこに居る人間は〝何か〟がなかった。人の根幹を為すはずの何かが完全に消えていた。


 僕は部屋の隅に置かれたベッドに腰掛け、ボクの姿を観察する。


 ボクは部屋に戻ったかと思うと、椅子に乗っていた袋を地面に放り投げ、椅子に座りパソコンを点け、何か文章を打ち始めた。


 カタカタカタ、と言うキーボードを叩く無機質な音が部屋に響く。


 その行為は何分にも及んでいた。僕は気になった。一体何を書いているのだろう、と。そう思いボクの傍に近付き、後ろからパソコンの画面を覗き見た。


 そこには……。


「……まぁ、そうか。そうだよな」


 そう言ってパソコンから離れて、ベッドに戻る。




 思い出していた。


 この夢の中では僕は何かを忘れていた。ずっと何かを忘れたまま過ごしていた。そしてそれが一体何であるか。あのロープを見た瞬間に思い出していた。


 ただ思い出してはいても、それは間違いであって欲しかった。勘違いであって欲しかった。容易に認める事は出来ない事だったから。


 でも……画面上には残念な事に、事実が出ている。


 何か、と言う点が嫌と言うほどはっきりと、示されている。


 これから起こる事。


 恐らくそれは嫌な事実。目を背けたい事実。出来る事ならそれを見る事なく、ここから一刻も早く出たい。


 だが恐らくそれは出来ないし、してはいけない事だ。


 ちゃんと直視しなければいけないのだろう。


 ボクがした事、は。この夢の中だけではなく、現実でも起きた事なのだから。




 十数分程かけて、ボクは文章を打ち終えたようだ。


 機械音が響き、パソコンの隣にあるプリンターから印刷された紙が何枚か出て来る。それを一つに纏めて何回か折り畳んだ後、ボクは部屋から出て行った。


「…………」


 再びベッドから立ち上がり、机の上に置かれたソレを確認する。


 長方形のその紙には、明朝体の文字で大きく、


『ごめんなさい』


 と、記されていた。




 かち、かち、かち、かち、かち、かち…………。


 時計の音が、凄くうるさく聞こえる。


 この音には慣れているはずなのに、今は全くそう思えない。


 ただ只管に、うるさい。うるさすぎる。


 これは――そう、異物。異物の音だ。神経に射し込んで来るようであり、聞いていると頭がおかしくなりそうだ。


 いや、あるいは既におかしくなっているのかも知れない。頭がおかしくなっていなければ、あんな事、するはずもないのだから。


 薄暗闇が回りを覆っている。棚の上に置かれているアナログ時計を確認すると、午前一時頃。ボクは小さな間接照明だけを点け、作業を行っていた。


 ロープを手に取り椅子の上に立ち、壁に取りけられている金属製のハンガーラックに一方をしっかりと固定させる。


 何度も引っ張り、十分な強度がある事と――そして結び目が解けない事を確認してから、ロープのもう一方を円形状にした。


「…………」


 終始無言のまま、ボクはその作業を続けている。


 そして無言なのはボクだけではなく、僕も同じ。その一連の光景を無言で見続けている。


 ……無言で見続けるしかない。言葉を発する気になんてなれないし、仮に発したところでどうにもならない。ボクには聞こえないのだから。


 聞こえずに、ただ作業を続けるだけなのだから。


 作業を開始して数分が経った頃合いには、全ての準備を終えたようだ。ボクは椅子から降り、そして薄暗闇の中、印刷された紙を手に取り読んでいる。


 じっと、食い入るように。


 恐らく最終チェックだろう。文面にミスがないかを確認しているのだ。


 文字通り最後の確認。後で訂正は効かない。


 それが終わったのか、机の上に紙を置いたボクは、少しだけ――僕が居るベッドを見た。


 一瞬僕の姿が見えたのかと思ったがそう言う訳でもなく、直ぐに目線を逸らし、再び椅子に向かって行く。


 ……始まろうと、していた。


 椅子の上に立ち、先程のロープの一方――円形状となった部分を、首に通す。


 しっかりとロープを首に固定し、そして一つ息を吐く。


 ボクは僅かに震えていた。特に指先が定まらず常に動いている状態。ボクの体はこれから何が起きるのかを理解し、拒否しようとしているのだろうか。それだけは駄目だ、と訴えているのだろうか。


 だけど、止まる事はないだろう。


 止まっていれば恐らく、僕がこんな夢を見ている事はないのだから。


 ボクは自分が立っている椅子を、思い切り、前に蹴飛ばしていた。




 ……あまり、もう。


 見たくない。




 もう充分だ。充分に理解した。


 あの日あの時、一体僕は何をしたのか。それは本当に理解した。


 だからもう充分だ。第三者の視点で見せ付けられるのは、もう充分。


 もう勘弁して欲しい。


 本当に、勘弁して欲しい……。




 〝僕〟は失敗した。


 三十秒ほどは吊っていたのだろうが、その最中に激しい痙攣が生じたのだろう。体の重みと痙攣の激しさにロープが耐えられず、絶命に至る前に千切れて意識を失ったまま床に落下し、その際に強かに後頭部を打ち付けていた。


 そして大きな物音に気付いた母が一体何事かと僕の部屋に向かい、首にロープを巻き付けた姿を見付けていた。




 こうして、この夢。


 夢であり現実でもあるこの光景は、ここで終わり、繰り返し見る事にもなる。


 この日以来母との関係はぎくしゃくしたままだ。息子が自殺しようとした場面に遭遇して――しかも遺書まであって――関係が以前のままで居られる訳もない。ぎくしゃくして当然だ。


 僕の自殺の理由は、何もないから、になる。


 学力はないし、友達も居ないし、未来への希望もない。


 だから僕は生きて行くのが億劫になり、耐えられなくなり、自殺の道を選んでいた。


 偶然生き残る事になった僕ではあるけど、これからどうすれば良いのか分からなくなっていた。もう一度自殺する気はどういう訳か失せていた。それは未練があるから、とか。怖くなったから、などと言う訳ではなく、理由は分からないが何故か、自殺する意思がすっぽりと抜け落ちていたのだ。死にたい、と思っていた自分の感情はまるで嘘であったかのように、消失している。自殺未遂を行った事により深層心理に影響を及ぼしたのか、あるいは後頭部に強い衝撃を受けた事によって脳にダメージを負ったからなのか、はたまた別の理由か。それは分からない。


 ただ、かと言って生きたいと考えている訳でもない。生きたいと思える理由も相変わらずないからだ。未来への希望などは変わらず存在しなかった。




 僕は完全に、宙に浮いていた。


 何をしたいのか、どうしたいのか、まるで分からず漂うばかりだった。




 自殺未遂の一件以来、僕は日中はぼんやりと過ごし夜は悪夢に苛まれる、という繰り返しを行う事になった。冬期休暇の間それが途切れる事はなかった。そしてこれが途切れる日など来ないのではないか、と考えていた時に――。


 僕は、喜多見と出会っていたのだ。

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