決意 (9)
静まり返った広い畳の部屋に居るのは、これで二回目。
部屋は薄暗く、見えるのは月明りに照らされた僅かな内部だけ。
この光景を見るのも今日で最後になる。この先このような旅館に泊まる事はあるのかも分からない。
隣では喜多見が布団の上で横になり、目を閉じている。つい先程までは裸を見られた事に対して恥ずかしそうな様子を一時間に渡って見せていたが、現在待機モードに入った彼女は、すやすやと気持ち良さそうな表情をして目を閉じていた。
「…………」
久我山も同じように布団の中に入り、横になって目を瞑った。
明日には帰る事になる。雪道を歩いてバスに乗って電車に乗って、そしてその先には、また何時も通りの日々が待っているのだろう。
そこにあるのは変わらない光景。
変えなければいけないのに、変わっていない世界。
「……くそっ」
思わず悪態を付き、寝返りを打っていた。
先程まで存在していた気分、喜多見の胸を見た事による高揚感は消え去っていた。
代わりに現れるのは、何時も通りの感情。何時まで経っても先に進めない自分自身に対する憤りの感情。そればかりが浮かんでしまう。
何時までこうしているのだろうか。
早く忘れてしまいたい。嫌な記憶を欠片ほどもなく忘れてしまえば、こんなに悩まなくても良いのだから。だが久我山の頭は素直に忘れてはくれないのだろう。嫌な事ほど鮮明に何時までも覚え続けるのだろう。
久我山は目を僅かに開けて、目を瞑っている喜多見に視線を送る。
喜多見はどうだろうか。<Cell>である彼女はもしかしたら、忘れたいと思う事を簡単に忘れる事が出来るのかも知れない。自分の記憶を自由自在に操り、過去に対してのしがらみを抱えないまま過ごす事が出来るのかも知れない。
もしそれが可能だとしたら……久我山としてはどうしても、羨ましいと感じてしまう。
「……喜多見さんは、どうなんだろうな」
呟いてもう一度寝返りを行い、とにかく早く眠ってしまおうと考えたのだが、
「はい、なんですか?」
と、言葉が帰って来た。
久我山は思わず飛び上がっていた。
目を瞑り待機モードに入っていたはずの喜多見は、横になったまま目をぱっちりと開けて、久我山に向けて微笑みを送っていた。
「えっ、と……。喜多見さん。待機モードに入っていたはずじゃ」
「久我山さん、きちんと説明書を読んでないんですね」
可笑しそうに喜多見は笑う。
「ちゃんと書いてますよ。電源を落としている状態とは違って、待機モードに入って
いると呼び掛けられたら直ぐに返答するって。ちゃんと音は聞こえているんですよ」
「そ、そうでしたっけ」
喜多見がそう言うのであればその通りなのだろう。そして彼女の言う通り、久我山はあまり説明書を読み込んでもいない。
「それで、独り言、ですか?」
静かに訊いて来る。
「ああ……。うん、まあ。そんな感じです」
「そうですか……」
沈黙が流れる。
久我山も喜多見も喋らない時間が、少し続いた。
そしてそんな時間の中でふと、一つ訊いてみようと考えていた。
それは久我山がずっと考えていて、しかし明確な答えが出せていない物。
喜多見なら果たして、この命題にどんな答えを述べてくれるのだろうか。
「……喜多見さん、一つ質問しても良いですか?」
「ええ、構いませんよ」
久我山は喜多見の顔を、真っ直ぐと見つめる。
視線同士が混ざり合うが、それから逸らす事はない。
「こんな事を訊くのは変かも知れませんけど……。喜多見さんは、人間が生きる意味って何だと思いますか? 何故人は生きるんだと思いますか?」
「……ほんとに、変な質問ですね」
大切な質問でもありますけど、と喜多見は付け加える。
「すみません。ちょっと訊いて見たかったんです、この事を。僕がここ最近考えている事ではあるんですけど、良さそうな答えが全然、思い付かなくて。だから喜多見さんに訊いてみたかったんです。喜多見さんの答えを、聞いてみたくて」
良いですよ、と言って喜多見は布団から体を起こしていた。
久我山も同様に起き上がり、座り合って見つめ合う。
「そうですね、それに付いて述べる事は出来ますけど……少しだけ考える時間を下さい。大切な質問ですから、考える時間が欲しいんです」
そう言って喜多見は、窓の外を眺める。
視線の先にあるのは、恐らく月。月をぼうっと見ながら――何処か悲しそうな、そんな表情になっているように見える。
一体どうしてそんな表情になっているのかは、分からない。
そうして数分程経った頃、喜多見はゆっくりと口を開いていた。
「……楽しみ続ける、笑顔であり続ける事が、人生の意味。人の生きる意味じゃないかと、私は思いました」
「…………」
久我山は続く言葉を黙って聞いていく。
「人の寿命は精々、百年ぐらいです。その百年と言う時間は長いようでとても、とても短いです。あっと言う間に一日は経ち、あっと言う間に一ヶ月が経ち、あっと言う間に一年が経ち……。時間はどんどん過ぎ去って行くんです。一年と言う短い繰り返しを百回程度。たった百回程度で死が迎えに来てしまうんです」
喜多見は一度、言葉を切る。
「人は……死んでしまったら、そこでお終いだと、私は考えています。
それまで積み上げた実績も功績も何もかも、その当人――かつて存在していた当人とは無縁の物となってしまいます。幾ら善行を積んでいようと、悪行を積んでいようと、必ず人は死に、そしてこの世界から消え去ります。その人自身は居なくなってしまうんです。
誰かの心の中に残る事は出来るかも知れませんし、それを以て人は何時までも生き続けられる――というような事も言えるかも知れませんが。それはハッキリ言って、当人には無関係の事です。幾ら誰かの心の中に残ったとしても、その当人は知り得る事が出来ないんですから。死は人の終着点であり、そこから先に伸びる道はないんです。何処にもないんです」
だったら、と喜多見は言う。
久我山に向けて、ハッキリとした言葉で続けた。
「だったら――人生は、楽しまなければ損じゃないですか?」
それは何処か、確信めいた声色だった。
「死んでしまうと終わりであるのなら、人生は楽しんだ方が良いと思うんです。一分でも一秒でも、限りある時間の中で楽しむ事が出来れば、前向きに生きて誰かと笑い合う事が出来れば、多分それが……最良で、幸せな事。人が百年ほどの期間生きる意味に充分なると、思うんです」
喜多見は再び言葉を切り、
久我山に優しげな目線を送っていた。
安心して良いんですよ、と言うかのような、とても温かみを感じられる物。
「ですから……私としては。久我山さんが何か悩んでいる事があるのなら、是非ともそれを解決してあげたいんです。解決して、健やかで楽しい人生を送って欲しいんです。
前向きに生きて笑って過ごせるような時間を、沢山。あげたいんです」
「…………」
その言葉達がまるで、心に染み込んで行くかのようだった。
浸透し吸収され、そして一つとなる。
今まで、こんな良い言葉をかけられた事など、一度としてない。
知らなかった。言葉によってここまで心が温かくなるのは、知らなかった。聞くだけで心のわだかまりがほぐされ、柔らかくなり、穏やかな気分になる事が出来るなど、知らなかった。
嬉しかった。
こんなにも良い言葉をかけてくれる存在が身近に居るのが、とても嬉しかった。
「――く、久我山さん」
喜多見が驚きの声を上げる。
それもそうだろう。久我山は今、泣いているのだから。
涙を突然流せば誰であろうと驚く。
淡々と溢れ続け、拭っても拭っても止まる気配がまるでない。心が歓喜の泣き声をあげているのだろう。
「……こちらへ、どうぞ」
喜多見は何時の間にか正座し、久我山を手招きしていた。
おいで、と。
久我山は何も考える事も出来ず、ただ泣き続けながら喜多見の傍に寄る。
喜多見はそっと久我山の肩を支え、彼の頭を自分の太ももへと導こうとする。どうやら膝枕をさせてくれるようだ。
身を委ね、膝に頭を乗せる。
柔らかい物が頭や頬に触れる。とても暖かくて心地良くて、それに何処か良い匂いもする。
染み込んで来るその匂いに、安心する。
生きていて良かったと、感じる。
「今、私に出来る事は、これぐらいです。これしか出来ません。これであなたが少しでも、安らかになってくれるのであれば、幸いです」
喜多見の優しい声が聞こえる。
相手を想う声が、しんしんと。
「久我山さんはどうか、幸せになってください。これからの事、もっと先の事を考えて生きてください。そうして、楽しく人生を過ごして下さい。楽しまなければ、損ですから」
「……ありがとう、ございます」
そう答えるのが精一杯だった。
今は言葉を発するよりも、この得られた感情を大切に感じていたかった。何時までもこの感情を、永延と感じていたかった。
久我山は思う。
自分は頭は悪いし、まともな友達一人居ない。意志薄弱で卑屈な人間。だがそんな自分でも、喜多見の為にしたい事はある。
何時か、喜多見が困った時。彼女が何か不味い状況に陥った時。
その時は何とかして力になりたい。身を挺してでも助けたい。
こんなにも優しい喜多見が、好きだから。
第四章 …… 決意 (了)
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