決意 (8)
再び夜になった。
夕食も食べ終わり一息ついたところで、久我山達は温泉に入る事にする。昨日と同じように下着やタオルの用意をしていると、喜多見がおずおずと言った調子で声をかけて来た。
「あの、久我山さん。これからお風呂ですよね。ここに泊まるのも最後の日ですし、折角だからと思いまして……」
窓の傍。部屋の外に付いている風呂を指差した。
「あれ、使ってみませんか?」
「備え付けの物、ですか」
確かに一度も使わずに帰るのは何だか勿体ないかも知れない。折角あるのだから、どんな感じなのか一度試してみるのも有りかも知れない。
もっともそこまで良い物かどうかは分からない。少なくとも開放感で言えば露天風呂の方が遙かに上のはずだ。
「……そうですね。じゃあ使ってみましょうか。それじゃあ喜多見さんが先に入って下さい。僕はその間、適当に旅館内を見て回りますから」
そう言って久我山は立ち上がる。
とりあえず昨日のクレーンゲームのリベンジでもして気分を変えようか。喜多見のアドバイス通りに操作してみようか、などと考えていると――。
くいっ、と。喜多見は久我山の服の袖を掴んでいた。
「その……。出来ればで良いんですけど」
喜多見は僅かに赤面していた。それは頬だけではなく、耳までも少し赤いように見える。
「二人一緒に入りたいなぁ、と思いまして……」
「二人、って……」
凄い提案だ、というのが久我山の感想。
喜多見と一緒に温泉に入る……それは想像するだけでのぼせそうな物であり、とても平常心を保っていられない物にもなりそうなのも目に見えている。
喜多見は人間ではないとは言え、見た目は殆ど人間その物。広くもない風呂に一緒に入るとなれば、どうしても視線は彼女ばかりに向けられる事になるだろう。失礼なのは幾ら分かっていても視線は向いてしまう。それは男の性とも言える。
「嫌、ですか?」
喜多見は不安そうな表情で訊いて来る。対して久我山はすぐに否定した。
「嫌ではないですよ。ただその……唐突な提案で驚いているのと……その、喜多見さんはそれで大丈夫ですか? 僕が傍に居ても?」
それは、と喜多見の声は小さくなる。
「恥ずかしい、と言えば、恥ずかしいです。でも私は……久我山さんと一緒に入りたいなって、そう思ったんです。傍で一緒に、温泉の心地良さに浸りたいと……」
顔を赤くしながらも、そう訴えて来る。
久我山はそんな訴えを――喜多見のお願いを断る気など、全くなかった。
とても静かな空間だった。
風呂の中には二人。
一人は久我山であり、マナー違反なのは分かりつつも喜多見に見られたくない物を隠す為、腰にタオルを巻いたまま湯船に浸かっている。
そしてもう一人はすぐ横に居る喜多見。彼女も同様に体にタオルを巻いて――ただし胸辺りはその大きさゆえ、どうしても少し覗かせていた――同じように浸かっていた。
分かってはいた。
分かってはいたのだがやはり、目線は喜多見の体に向いてしまっていた。
真珠のような白い肌。ほっそりとした首。タオルから垣間見える大きな胸。それに透明な湯の下にある綺麗で長い足……。
目線を抑える事がどうにも出来ない。意思は抑えようと必死のつもりなのだが、止める事はまるで出来ていない。暴れている、と言っても良いかも知れない。
ただ、何時までもこんな状態で居る訳にも行かない。無理やり視線を剥がして外の景色を見れば、黒い上空には月がある
白く輝く月。それが久我山達を淡く照らしていた。
「良い月、ですよね」
気付けば、喜多見は久我山と同じように空を見上げていた。
「そうですね……。とっても良い月、です」
「……久我山さん。どうでした? この二日間は楽しかったですか?」
喜多見は静かに訊く。
楽しかったか、どうか。
久我山は、時折湧き上がる感情の事は無視して、答えた。
「勿論、楽しかったですよ。初めての物事を沢山体験しました。喜多見さんから色々な事を教えて貰ったし、とても有意義でした。普通の高校生ではこう言う体験は中々出来ないでしょうね」
一般的な高校生はこんな良い旅館に平日泊まる事はまずないだろう。あり得て休日だ。
「ですよねぇ。普通の高校生が平日に温泉に浸かってのんびり、と言うのは中々難しい事だと思います」
「……喜多見さんは」
久我山も同じように訊いてみる事にした。
「喜多見さんは楽しかったですか? この二日間は」
「もちろんですよ」
喜多見は即答する。朗らかな笑顔を浮かべて、久我山を見つめながら。
「とっても楽しかったです。久我山さんと卓球するのは楽しかったですし、一緒にクレーンゲームするのも楽しかったですし、スキーを一緒に滑るのも楽しかったです。夢のような……素晴らしい、二日間でした」
「それは……良かったです」
久我山は再び月に視線を送る。
喜多見が楽しければそれで良いだろう。時折湧き上がる感情など、彼がどうにかすれば良いだけなのだから。彼女に伝えて気を病ませてしまったら申し訳ない。
ぼんやりと月を眺める。
思考も止め、只々三十万キロほど離れた衛星に視線を送っていると、喜多見が久我山に近寄っていた。その距離間は十数センチほど。
「き、喜多見さん?」
「なんで月を何時までも見ているのか、ちょっと気になりまして……」
喜多見の視線は月に向く。
「……あ、そう言えば今、月には数百人単位のコロニーが出来上がって、ほぼ自給自足の生活が出来るらしいですね。私も一度、月に行ってみたいです。きっと面白い経験が得られそうですし、『地球の出』のような景色を見たいですから」
「え、ええ……」
喜多見は気付いていない。
近寄った事によりタオルがずれ、その胸の大部分が見えてしまっている事に。
声をかけて直させた方が良いのは分かるのだが、頭はそう考えても口は動かず、視線だけ向けている状態。
釘付け、と言った状態。
「あ、そう言えば火星の植民化計画も進んでいるらしいんですよね。まだ数人程度の宇宙飛行士が、火星上で放射線の強さとか植物が生育するかどうかとか研究している段階ですけど、でも近い内に今の月のように、数百人単位のコロニーが出来そうですよね」
「そ、そうですね……」
「それに、深宇宙の探検計画も持ち上がっているんですよね。EMドライブも実用化されつつあって、残る深宇宙探検の問題は、コールドスリープ装置の実用化と宇宙船の超長時間の維持ぐらい。その内太陽系から飛び出して人類が活動する事も、夢じゃなくなるかも知れませんね」
「多分、そうだと思います……」
「――もう、さっきから棒読み気味の返事ばかりですけど、ちゃんと私の話聞いていますか?」
少し眉を膨らませて、喜多見は久我山を見る。
タイミングが悪かった。久我山の目線は喜多見の胸に向けられており、そして彼女はそんな彼の顔を見てしまった。つまり視線の位置に関しては気付く事になる。
言い訳は効かない状況だ。
「えっ……」
と、言葉を発したのは喜多見。
自分の胸と、久我山の顔。その二つに何度か目線を行き来した後――。
「す、すみませんっ」
声を発して、慌てて久我山から離れていた。
顔を真っ赤にして、実に恥ずかしそうに。
「……あー、いや」
とりあえず、幾らかの言い訳を行おうとする。
「その……これは僕がもう少し早く声をかければ良かった、ですね。ちょっとその、気を取られてしまいましたけど、冷静になって言っていれば、良かったです……」
発せられたのは言い訳にもならない言葉だが、喜多見は自分の体を隠しながら、私のせいですよ、と小さく返していた。
「これはその、私の学習不足と言うべき物です。羞恥心と言う物は勿論ありますし、久我山さんに対してあまり体を見せないようにしていたつもりなんですけど。所詮は意味と定義を学習しただけなので、現実世界でしっかりと隠す為には努力が足りなかった、というか。もっとこう、男の人に対する視線を気にするべきだった、というか……」
もぞもぞ、と。喜多見は恥ずかしそうに身をよじる。
「……ええと、その」
久我山はどう言葉をかければ良いのかも分からない。喜多見ほどではないにしろ、気恥ずかしい気分を得ており、とても落ち着いて温泉に浸かる事は出来そうにない。
よって、
「その、喜多見さん。そろそろ上がりましょうか」
「そ、そうですね」
喜多見も同様の結論に達したようで、温泉から上がる事になった。
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