決意 (5)


 普段では食する事はおろか、見る事もないような山菜がメインとなっている食事を久我山は取り、満足したところで温泉に浸かる事になる。彼と喜多見は適当に着替えを持って行き旅館にある大浴場へ赴く。


 旅館の廊下を幾つか渡り脱衣所に着き、適当に服を脱いで、がらり、と浴場へと続く扉を開けて中に入っていた。


 浴場はかなり広かった。面積はサッカーコート半分ほどもあるだろうか。大理石で壁や地面は覆われており、熱い湯気が空間内を充満している。利用者は久我山を含めても数人程度であり、かなり空いていた。この浴場は扉続きで外へと繋がっており、その先には露天風呂も備わっていた。


 久我山は露天風呂の方をメインに浸かる事にする。適当に掛け湯した後に浴場を通り、露天風呂へと続く扉を開けていた。


 おぉ、と本日二度目の小さな声が漏れていた。


 部屋から見えた景色が目の前に存在する。白銀の平原に漆黒の空間。しかもここには無数のライトが設置されており、その景色を淡く照らしていた。


 ともすれば部屋から見た時よりも美しい景色。それが広がっている。


 その光景に数秒ほど視線を送ってから、大きな石で囲まれた露天風呂にゆっくりと浸かっていた。


 今のところ久我山以外にこの露天風呂に浸かっている人は居ない。独り占めの状態だ。


「……気持ち、良いな」


 肩までゆっくりと浸かったところで、久我山は呟く。


 外気温の低さ、そして温泉自体の熱さ。この二つのバランスが丁度良かった。外気温の厳しい低さは温泉の熱によって緩和され、とても心地良い状態となっている。浸かろうと思えば数時間でも浸かれるような、そんな感覚を得ていた。


 こんな心地よさは、今まで経験した事がない。


 しばし、ぼうっとしていた。体を覆う心地良さに委ね、何を考える事もなくただぼうっとしたまま数分ほど居たのだが、


「喜多見さんも、心地良く感じているのかな」


 恐らく隣では喜多見も同じく温泉に浸かっている事だろう。屋外が室内か、この光景を視界に収めているのかどうかなどは分からないが、それでも恐らく……自分と同じように、心地良い気分になっているのではないかと想像する。


 喜多見が美しい姿で。


 綺麗な体に透明な湯を纏わせて。


「…………」


 想像するだけで、ただでさえ高まっている頭の熱が、さらに高まりそうだった。




 数十分後。


 ゆったりと浸かっていた風呂によって体も程良く温まったところで上がり、久我山は浴衣を着た後、自分の部屋に帰ろうと歩いていた。遊技場に向かう前に、部屋の縁側で少し休むのも良いかも知れない。


 と、廊下の奥に見慣れた喜多見が立っているのが見えた。久我山と同じように浴衣を着ているが、久我山は薄い青色で彼女は薄い橙色になる。この旅館の貸し出しだ。

「あれ、部屋の中で待っていれば良いって言ったんだけど……」


 久我山は風呂に向かう前にそのように言っていた。ともかく喜多見の元へ向かい、声を掛ける。


「喜多見……さん」


「あ、久我山さん」


 喜多見は久我山の姿に気付き、ひらり、と浴衣をはためかせていた。


 そしてその喜多見の姿は――とても綺麗な物だった。


 普段から喜多見の見た目――つまり容姿が良い事は知っていた。いわゆる〝美少女〟と呼べる存在である事は理解はしていた。だが今日のこの姿は、そんな一つの単語で済ませてしまうのは足りないと思えてしまう。


 しっとりと濡れた金髪に、上気した頬、ちらりと覗かせる首元の肌。


 そのどれもが素晴らしい。思わずその辺りに視線を巡らせてしまう。


「あのう、久我山さん?」


 その声でハッとしていた。


「あ――いや、部屋の中じゃなかったのでびっくりしました。それじゃあ、さっき約束した通り遊技場に行きましょうか」


 じろじろと視線を送っていたのは秘密にして置きたい。すぐに約束を持ち出して喜多見の手を軽く掴み、遊技場へと向かって行く事にする。


「……? 分かりました」


 どうやら久我山の目線には気付かなかったようで、若干の疑問の表情を浮かべながらも、素直に付いて行く。


 気兼ねし過ぎ、と思うかも知れない。相手は人間ではなく<Cell>なのだからその辺りの気兼ねは不要だろう、と考える人も居るかも知れない。


 だが、久我山はそんな風には思えなかった。


 勿論、客観的に見れば<Cell>である事、機械である事は間違いなく、喜多見自身もそうであると主張している事も理解している。


 ただ、久我山にしてみれば喜多見は、そんな存在に収まるような物とは思えないのだ。


 単なる<Cell>ではなく、もっと別の何かのような。人よりも人らしい、そんな存在のような……。




 この旅館の端のスペースにある遊技場は実に、その古風な名称が正確だった。


 と言うのも、半世紀以上前に流行っていた遊具が設けられているのだ。所々に錆が見受けられるピンボールマシン、商品が少ないクレーンゲーム等々。今の時代ではまず見る事がなくなった物ばかりが存在していた。


 マニア向け、と表現する事は出来るかも知れないし聞こえも少しは良いだろうが。実際のところはあまり予算をかけていないだけだろう。


 この旅館の中で唯一、あまり予算をかけていないと感じる場所になるかも知れない。


 喜多見は遊技場の中にある、塗装が大分剥げている卓球台に興味深そうに視線を向けつつ、


「へえ、卓球ですか。もしかしてですけどこれって……温泉卓球って奴が出来るんですかね?何故なのかはよく分かりませんけど、昔は温泉に浸かった後で卓球するのが文化としてあったとか」


 卓球台の状態に関してはまるで気にする様子もなく、喜多見はそう呟いている。少し勘違いしているような気もするが、突っ込みはしない。


 喜多見にしてみれば道具の古さに関してはあまり気にならないのかも知れない。こうして目の前にある物は新鮮な物ばかり――実際に初めて見る物ばかりだから。あるいはその古さを気に入るかも知れない。


「じゃ、早速一試合やってみませんか? 久我山さん」


 何時の間に借りたのか。その手には二つのラケットと白いピンポン玉がある。


「……うん、良いですね」


 喜多見のような綺麗な女の子と一緒に、卓球。


 こんな光景を見る事になるとは思わなかった。少なくとも数ヶ月前の久我山であれば想像すら出来ない事だっただろう。しかし今、現実として目の前で起きている。


 喜多見とテーブルを挟んで向かい合う。久我山が持っているラケットはシェイクハンド。喜多見が持っているラケットはペンホルダー。なお彼女はどちらでも使おうと思えば使えるそうだ。


「さ、それじゃ行きますよー」


 そう言って、喜多見は持っていたピンポン玉を真上に軽く放っていた。




 喜多見は強かった。


 それも当然と言えば当然だろうか。喜多見は卓球の直接的な経験はないとは言え、身体能力は基本的に人間より上であり、学習を積み重ね同じ過ちは繰り返さない。少し時間を掛けてしまえば、学んだ改善点を自らの体に反映し、あっと言う間に強くなって行くのは予想出来ていた。


 試合が始まったばかりの時は幾つかポイントを取る事は出来たが、最終的には大敗と言う結果で終わる。恐らくそれは久我山が弱いと言うよりは喜多見が強いだけだろう。何度か人間には可能とは思えない動きを見せており、プロ選手でもなければまともに太刀打ちする事は出来ないのかも知れない。


 根本的なところに差がある。学習した物は忘れない、という差が。


 試合が一区切り付いたところで大きく息を吐き、久我山は膝に手を付く。


「つ、強いですね。喜多見さん」


「いやぁ、ズルしているような物ですから」


 喜多見は笑顔を見せながら、そう言う。


 喜多見からしてみればこれはそのように映る物なのだろうか。もっとも久我山にはズルをしているとは思えない。彼女は彼女なりの正攻法で挑んだだけのようにしか。


「でも久我山さんも、かなり凄いですよ。粘り方が」


「そう、ですか? まぁ必死に頑張っただけですよ……。次はその、あれやってみませんか? クレーンゲーム」


 久我山の指と視線の先にあるのは、古びた姿を見せている数台のクレーンゲーム。入っている景品は幾つかの動物のぬいぐるみであり、一プレイ百円との表記がされている。


 このまま勝負に負けっぱなしで終わるのは少し悔しかった。ここは一つリベンジをしたい。


 しかし体を直接的に使う物ではとても勝てそうもない。それは身を以て実感している。よって体を使うのではなく……精神。精神的な物に作用されやすい勝負事ならまだ勝ち目があるはずだと考えていた。


 もっともクレーンゲームに勝ち負けがあると言えないような気もするが、そんな細かい事は今はどうでも良かった。


 とにかく喜多見よりも多く、景品を取りたい。


「良いですね。私、こう言うクレーンゲームって一度で良いのでやってみたかったんですよ」


「一プレイ百円ですから……一人二千円。二千円内でより多く取った方が勝ち、とかどうですか?」


「良いじゃないですか。面白そうですねぇ」


 喜多見は深く頷いて、


「それじゃ、やりましょうかー」


 喜多見はうきうきとした表情でクレーンゲームの傍に向かう。


 久我山は一つ大きく息を吐いた後、同じように向かって行った。




 負けていた。


 二千円全てを投じても上手く行かず景品が取れない久我山に対して、少し離れたところに居る喜多見は景品を一つ当たり数百円程度の出費で次々と取って行ったようだった。


 遊んでいる最中にこのクレーンゲームをネットで調べたが、いわゆる確率機――一定金額を投入しないと景品を取る事が出来ないタイプのゲーム――でもない。公平な機会が与えられているのにも関わらず生まれる差。その差の原因はよく分からなかった。


「視点の問題ですよ」


 部屋に戻る道。数個のぬいぐるみを抱えながら喜多見は久我山の疑問に対して、当たり前のように言った。


「視点?」


「そうです、視点です。久我山さんも分かっている通り、あれは確率機ではありません。良心的と言いますか、自分の操作次第で商品を取る事が出来る数少ないタイプのゲーム機です。で、そうなると考えなければいけないのは、視点です。


 久我山さんは最初から、『アレを取ろう』というような感じでクレーンを操作していますよね。アレは取りやすそうだから狙おう、とか。そんな風に考えて。


 でもですね、それはああいうゲーム機では上手く行かないんです。何故だか分かりますか?」


「……いや、分からないです」


 普通は取ろうと思ってクレーンを操作するのではないだろうか。


「何故なら、これらの景品を置く側――店側ですね。その人達は、簡単に取れそうと思えるけどでも実際には簡単に取れないところに、多数の景品を置くからなんです。


 一見、適当に景品は置かれているように見えますけど、でも初期配置はある程度考えられている物なんですよ。だから最初から普通に取ろうと思ってクレーンを操作しても、まず取る事は出来ません。それに第一、普通にやってぼろぼろ取れたら採算が合わないじゃないですか。店側が損をするだけです」


「まぁ、確かに」


 喜多見は頷き、


「私達客側が景品を取ろうと思った場合、それは最初から取る事を意識してクレーンを操作するのではなく、まずは『本当に取りやすそうな物』を探す事が大事なんです。視点を変える必要があるんですよ。


 久我山さん。私達が遊んだクレーンゲームの構造を思い出してみて下さい」


 言われた通りに久我山は思い出す。


 立方体のゲーム機の中は奥側にぬいぐるみ入りの箱が無数に縦に置かれており、手前側には巨大な長方形の穴が空いている。クレーンを操作してその穴に箱を落とせば手に入れる事が出来る仕様だ。なおその穴には橋を渡すように二つの棒が掛けられており、その上にも幾つか箱が置かれているが、こちらは横倒しとなっており、簡単にクレーンで持ち上げられないようになっている。


「多分ですけど、久我山さんは奥側に置かれていた箱を取ろうとしていませんでしたか?」


「ええ、そうですけど」


 それじゃあ難しいんですよ、と喜多見。


「私が取れたのは棒の上にあった箱だけです。奥側の物なんて最初から狙っていませんから。久我山さんは棒の上にあった物を取ろうとしなかったんですか?」


「いえ、勿論取ろうとしましたけど中々上手く行かなかったんですよ。横倒しになっている物はクレーンで上手く持ち上げられないんです。精々出来る事と言ったら引っ掛けたり押すぐらいで――」


 そこまで言って久我山はハッとしていた。


「まさか、これが取りやすい物、ですか?」


 そうです、と喜多見。


「引っ掛けたり押したりすれば良いんです。数百円かけて少しずつ箱を傾けて、穴に落とせば良いんです。地味ですし時間とお金が掛かりそうだと思えるかも知れませんけど――これが『本当に取りやすい物』になるんですよ。奥側に置かれている物はクレーンで挟む事は出来ても、持ち上げて移動させる為には正確な位置を挟まないと途中で落ちてしまいますし、引っ掛けたり押したりして落とすには穴までの距離が離れ過ぎています。これらはある意味――おとり、と言える景品かも知れませんね」


 喜多見は満足げに手元のぬいぐるみを撫でる。


「店の意図を読み取り本当に取りやすい物は何かを考える事……これが大切なんです。そしてこれが、視点の問題、と言う訳です」


「…………」


 久我山は思わず黙り込んでしまった。


 もしかしたらその手の達人には自明の事かも知れないが……久我山からして見れば喜多見のその考え方は、驚くべき物だと思った。


「……喜多見さん」


 久我山は一つ尋ねる事にする。


「はい? なんですか?」


「その考え方と言うか理屈は、自分で思い付いたんですか?」


「まさかぁ」


 喜多見は照れくさそうな表情になった。


「受け売りですよ。ちょっと前、クレーンゲーム攻略動画をネットで見て知ったんです。それに……私、こんな考えを思い付けるとは思えません。私はただの<Cell>なんですから」


「……そう、ですかね」


 言って、久我山はぼんやりと思う。


 喜多見は自分を極めて平坦に見ている、と。


 謙遜する事も驕る事もなく、ただただ平坦に、冷静に。それは機械だから、と言われればそれまでだが、久我山はそんな喜多見が凄いと思った。


 凄い。


 喜多見は凄い。彼女自身はそうは思っていないようだが凄い。自分の事を平坦に見る事が出来る人間は殆ど居ないのだ。どうしてもプライドや信念が混じり、平坦な見方などしたくとも出来なくなる。それが大抵の人間だ。


 だが喜多見はそれが出来る。自分へ平坦な評価を下せる。


 それは――全ての人間が所有するべき能力ではないだろうか。


「あ、久我山さん」


 何か気付いたように喜多見が呼び掛けて来る。


「はい?」


 喜多見の顔を見れば――何故か。とても可笑しそうに見えた。


「これ、久我山さんとちょっと似ていると思いませんか?」


 そう言いつつ両手で差し出すのは、トラのぬいぐるみだった。


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