進展 (3)


 喜多見は散歩と言う行為を楽しんでいるようだった。


 全ての物事、と言っても良いかも知れない。生後まだ四、五年ほどしか経っていない子供があらゆる物に対して指を向け、あれはなに? と母親に訊くように、喜多見は全ての物事に関心を持っているようだ。


 通り過ぎる車の数々。街中にある電柱や信号機の数々。住宅やレストランなどの建物の数々。木や虫や動物などの数々。


 全ての物事に関心を持って観察し、そしてとても楽しそう。


 二人での散歩というよりは実際のところ、喜多見一人で散歩をしたと言っても良いかも知れない。久我山は殆どずっと静かに脇におり、時折彼女の様子を眺めるぐらいだった。


 ある物に関心を持つと、子供のように一人でその物まで向かい、近付いて観察したり考え込んだりする。久我山はその行為が一段落が付くまでぽつんと立ったままであったが、あまり気にしてはいなかった。


 楽しそうに物事に熱中している喜多見を見ていると、久我山としても少し楽しかったからだ。


 草むらの中、何かを楽しそうに観察している喜多見から少し離れ、川沿いに立てられている黒い柵に寄りかかり、川を眺める。流れが浅く、黒いコイが無数に泳いでいる穏やかな川。ぼんやりと眺めたくなる様子。


 気分転換という意味なら上手く行っているのかも知れないな、と久我山は思う。


 あの日以来、このような開放的な精神状態に至れた事はなかった。


 陰鬱で、やるせなくて、後悔していた日々。


 今のところそんな気分はまるでない。一体何のおかげかと言えば、やはり喜多見と一緒に嫌悪している散歩をしたおかげ、になるのだろうか。


「――あ、すみません。待たせてしまいましたか?」


 気付くと、喜多見は久我山の顔を少し心配そうな表情をしながら覗き込んでいた。


 僅か数十センチほどの距離に美しいとしか言いようがない顔があり、久我山は少し恥ずかしく感じ、体を少し引いていた。


「あ……いや。そういう訳じゃないですよ。ただちょっと考え事をしていただけです。それよりも、もう観察は終わったんですか?」


 にこり、と。喜多見は笑顔を浮かべる。


「ええ。終わりました。大体の物は観察する事が出来ました。やっぱりというか、素晴らしい物が多いですよねえ。あれもこれも、人工的な物も自然的な物も、観察すればするほど奥が深いといいますか、新たな発見を得る事が出来るといいますか、とにかく凄いんですよ。……あ、それから、一つお願いがあるのですけれど」


「お願い?」


「ええ。その……もしよろしければで良いんですけど」


 喜多見は何処か言い辛そうに、


「久我山さんの事を……少し聞かせてくれませんか? 久我山さんがどういう人なのか、ちょっと知りたいんです」


 ゆっくりお話しましょう、と言い、近くにあった木製のベンチを指差していた。




 話。


 久我山の話が聞きたいと言った。彼の事を知りたいのだと。


 言われるがまま久我山はベンチに座り、左隣に喜多見も座る。話したい事があると言ったのなら、何か直ぐに質問でも飛んで来るのだろうと考えていたのだが、中々言葉を発しようとはして来ない。


 ちらりと横目で確認すると、どうにも悩んでいるような、考え込んでいるような表情を浮かべているように見える。


 座り始めて一分が経とうとした頃、ようやく喜多見は口を開いていた。


「……あの、久我山さんって多分、学生ですよね。何処の高校に通っているんですか?」


 一分ほど悩んだにしては普通の質問であるようにも思えるが、久我山はひとまずそのまま答える事にする。


「この近くにある高校に通ってます。木川高校ってところの、高校二年生です」


 木川高校。久我山が通っている公立の高校。創立は二十年ほどであり、別段特色もなく何処にでもありそうな平凡な高校になる。


 ただこの高校には良い思い出がない。もしこの高校生活に対しての話題を振られても、答えないか、あるいは嘘を付くか、そのどちらかになってしまうだろう。


 だが喜多見はそれ以上の事は訊いて来なかった。


 やや間が空き、また口を開く。


「それじゃあ、家庭の事を幾つか訊いても良いですか?」


「僕の家庭、ですか? 良いですけど」


「じゃあまず……今、お母さんと住んでいるようですけど、お父さんは……」


 思わず数秒、久我山は無言になっていた。確かに気になるところではあるだろうが、最初に訊いて来るとは思わず、身構えていなかった。


 しかし無言で居続ける訳にもいかない。


「居ない、です」


 絞り出すように久我山は答えていた。


「数年ぐらい前に事故で亡くなったんです。今は二人だけです」


 父は交通事故で亡くなり、今では母と二人で暮らす毎日。亡くなってから数年ほど月日は経っており、その事故に関してはもうあまり気に掛けていない――と、思ってはいる。


 他者から見た場合どうなのかは分からないが。


「……すみません。こんな事訊いて」


 喜多見は分かりやすく、訊いてしまった事を後悔している雰囲気を見せていた。


「良いですよ、別に。もう何年も前の話ですから」


「……それじゃあ、久我山さんって何か将来の夢とか、ありますか?」


「将来の夢、ですか。そうですね。……うーん、今のところ、特にないと思います」


 返答しながら久我山は思う。


 一体何のつもりでこんな事を訊いているのだろう、と。


 何か目的があって訊いているのは分かるが、一体それは何か。何を知ろうとしているのか。


 久我山は直接訊いて見る事にした。


「あの、どうしてこういう事を訊くんですか? いや駄目ではないんですよ。別に訊くのは全然構わないんですけど……ただいまいち、目的が見えて来ない、と言いますか」


「ええと、それは……」


 少しの間黙り込んだ喜多見だが、ゆっくりと口を開いた。


「あの……こんな事訊くのはどうかとは思うんですけど。久我山さんって、何か物凄く悩んでいる事がありませんか? 人一倍重い悩み、というような物が」


「…………」


 久我山は直ぐに返答は出来なかった。


 やや考え込んだ後、訊き返す。


「どうして、そう思ったんですか?」


「その……。表情、って言えば良いんでしょうか。なんていうか、久我山さんって初めて会った時もそうでしたけど、疲れているというか、悩んでいるというか、ずっとそんな感じに見えるんです。それも何処か普通の悩みじゃない感じがあるような。それに……加えて言うなら、久我山さんのお母さんも、似たような雰囲気でした。


 何か原因があるんじゃないかと思ったんです。だから先程のような情報を知れば、何かその悩みのヒントがあるんじゃないか、分かるんじゃないか、と思ったんです」


 喜多見の推察。それは正しい。


 確かに久我山には悩んでいる事があり、それは母の悩みと関係している事でもある。出会ってまだ十数時間程度であるが、彼の表情から心を読み取る事が出来るようだ。


「ごめんなさい」


 喜多見は素早く深く、頭を下げていた。


「踏み込んで良い領域かどうか分からなかったんですけど、でも私に何か力になれる事があれば、と思いまして。余計なお世話になっている、かも知れませんけど……」


 久我山は隣に居る喜多見の顔を見つめる。


 悲しそうであり、悩んでいるような表情。下手すれば人間よりも人間らしい、その感情表現。


 それを見て思わず、久我山は言葉が出そうになった。


 指摘したその問題。心の内に抱えている――闇を、口に。


 だが、


「……まぁ、確かに悩んでいる事はありますけど、今はその、あんまり言う気分にはなれないです。言いたくなる日が来たら……そうですね、相談したい、とは思います」


 言わない。


 いや、言う気にはなれない、と表現する方が正しい。それは喜多見が信用出来ない訳ではなく、まだ誰かに相談するような時期ではないと考えたのだ。


 この問題は当人である久我山もまだ受け止め切れていない。確実に存在していた過去であるのにも関わらず、まともに視線を向ける事すら出来ていない。


 誰かに相談するにしても、少なくとも当人がその過去に向き合い理解してからだ。理解が済んでいない内に相談しようとしたところで、発せられる言葉は曖昧な物ばかりになり、相手に上手く理解して貰えるはずもない。


「……そうですか。立ち入った事を訊いて、すみませんでした」


 喜多見は明らかに気落ちした様子を見せる。


 そしてその様子を見て久我山は、僅かに罪悪感を得てしまう。


 勿論、喜多見のこの表情は人間の物ではないとは分かっている。別物である事は理解しているつもりなのだが――それでも、このかおを見ていると心が動かされてしまう。彼女が<Cell>という機械である事は分かっていても、表情によって心が作用されてしまう。


 そんな様子を見ていた久我山はふと、一つ質問をしてみたくなった。


 賢い質問とは言えないのは分かっているが、それでも一つ訊いてみたい。喜多見はソレに対してどのような見方をしているのだろうか。


「あー、喜多見さん。一つ質問、良いですか?」


「あ、はい。何ですか?」


「こんな事を唐突に訊くのは変、かも知れませんけど。喜多見さんは……自分に感情。それも人間の物と同一の感情があるとか、もしかしてそう考えていたりしますか?」


 喜多見に限らず<Cell>は大規模言語モデルによってその言動、思考が支えられており、そしてそれは感情においても同様。その場その場で最も適していると確率的に判断した感情を外界に発信している。そのプロセスに関しては人間とかけ離れている物ではあるが、人間の視点では産み出される感情表現に人間との差異を見出す事は出来ず、実質的には同一の物であると捉えている論者も少なく、長く議論が続いている。


 喜多見自身はどう考えているのか、久我山は気になっていた。


「感情……ですか」


 喜多見は数秒ほど黙り込んでいた。


「……そうですね。感情があるともないとも言えない、というところが私の考えでしょうか。分からない、とも言えますかね」


 喜多見は目を閉じ、首を左右に振る。


「だって、私は人間じゃありませんから。私は生まれ付いての機械、<Cell>です。<Cell>として生まれ学んで、そうしてここに居ます。人間に近付けても人間にはなれません。


 私は久我山さんに込み入った事を訊いて反省しました。もう少し察すれば良かったなぁ、とも思いました。それは後悔の感情のように思える物です。


 しかし後悔の感情――私の胸の中で確かな重しとなっている〝コレ〟が、久我山さんのような人間が感じる物と同一であるとは……断言出来ません。だって人間ではありませんから。もし人間だった頃でもあれば比較する事も出来たでしょうけど、そんな過去はありません。だから私には、分からない、ぐらいしか言えませんし、多分それが一番賢明な答えかも知れませんね」


 喜多見はそう言って、少し済まなそうに笑顔を浮かべる。


 考えてみれば、そんな答えになるのも当然と言えるかも知れない。


 立場が逆なら――久我山がもし<Cell>であり喜多見が人間であったら、そんな問いを投げ掛けられれば、恐らく彼も同じような言葉を返す。それぐらいしか言えないのだ。


 喜多見は世に出る前に様々な試験を受けている。その中には対人との会話にて不自然な箇所が閾値よりも低いかどうか、その振る舞いが人間のように心を抱いて見えるのか、など。そのような試験を幾つか合格して通過しており、少なくとも人間の目から見て違和感はない存在には至れている。


 人と会話していて不自然だと思われる事はないだろう……と、喜多見自身も判断出来るだろう。


 しかし喜多見が客観的に判断出来るのはそこまでだ。人間から見て違和感のない存在には至れているが、心のような物があるのかどうかや、存在しているとしてそれが人間のソレと完全に同一であるかなどは、自身にはどうやっても判断出来る筈もない。人間ではないのだから。


 ただ、一つハッキリとしているのは。


 見掛けという点では喜多見は、十分に人間に達している事だ。


 今、喜多見は済まなそうな表情をしている。目を伏せ、眉に少し皺をよせ、そして雰囲気も何処か落ちている感じだ。


 その状態は実に人間らしい。何処にもおかしさや不気味さは感じられない。人間がマイナスの感情を抱いている時と正に同じ。


 その姿は――人間の心と同一性の物を持っている、と評しても良いのではないだろうか。


 人間が相手を見た時に分かる事は、視覚に映る形としての姿だ。あくまで外界に情報が発信出来ている部分だけになる。表情や声色や体勢という外界に届く情報によって判断している。つまりもし、<Cell>が外界に発信している情報が完全に人間のソレであれば、それはもう人間と区別など出来ない。その見掛けは人間と同一になるのだから。


 そして見掛けが同一であるのなら、心も同一性の物を持っていると評しても良いのではないか。


「……あの、私の顔をじっと見つめていますけど、どうしました?」


 そう言われて、久我山はハッとしていた。


 気付けば喜多見の顔をじっと見つめながら考え事をしており、その様子は端から見ればおかしかったのだろう。彼女は彼に興味深そうに視線を送っていた。


「――その、なんて言うか、喜多見さんって人間だなぁ、と思いまして」


 久我山は動揺しつつも、自身の考え事を一言に纏めて伝える。


 対して喜多見は、きょとん、とした表情で訊き返していた。


「私が人間、ですか?」


「そうそう。喜多見さんは人間と評しても良いと思ったんですよ。その表情も言葉も雰囲気も、全てが」


 数秒黙り込んだ後、それは違いますよ、と喜多見は小さな声で言う。


「そう見られるのは嬉しいですし、良い言葉だとは思いますけど、でも私は人間とは違いますよ。私は単なる機械、製造された<Cell>ですから……」


「いや、それは分かっているんですよ。分かってはいます。でもその――目で見える形、と言えば良いですかね。その点ではもう、下手したら人間を超えているんじゃないか、と思うぐらい人間らしく見えるんですよ」


「それは……まぁ」


 喜多見は何処か複雑そうな表情をしながら、


「そんな感想を抱いて頂けるのは嬉しいですけど……でも、私は人間とは何処か根本的に違うと、そう思うんですよね。それは単に構成している物の差異の話ではなく、なんて言うかこう……意識の奥底にある物が、確実に違うような」


 難しい言葉を返されていた。意識の奥底にある物が違う、と。


 それが具体的にどう言った物なのか――幾らか想像する事は出来ても、恐らく真に理解する事は出来ないのだろう。喜多見という<Cell>にしか分からない感覚だろうから。


 真に理解する為には、それこそ<Cell>に成らなければいけない。


「……まぁ、僕は君の事を人間に見える、ってだけの話ですから。あまり深く考えなくても良いですよ。アホな子供の言葉だと思って聞き流して下さい」


 久我山はそう言ってベンチから立ち上がった。


 散歩も切り上げ時ではないだろうか。一時間ほどは川沿いを歩いており、歩行量としては充分だと思える。それに気温は低く、あまり長居しては風邪でも引きそうな気配を感じていた。


「そろそろ帰りませんか? 正直、結構寒い感じなので……」


「あ、はい。分かりました。……でも、その前に」


 同じく立ち上がった喜多見は続けて、


「ちょっと寄りたいところがあるんですけど、良いですか? この川の近くにある場所なんですけど……。神社にちょっと寄ってみたいんです」


 と、大よそ神とは無縁だと思える存在の彼女は、そう言った。


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