進展 (2)
散歩当日の朝。相変わらず悪夢を見て起床し、日々を過ごすのが億劫になっていた久我山は、何時ものように自室に引き籠っていたところ母から声を掛けられた。
昨日と同じように、何の前触れもなく。
「あ、のさ。今日は晴れている事だし、散歩にでも行って来たら?」
その言葉を上手く飲み込む事が出来なかった。
いきなり声を掛けて来た事もそうだが、母は久我山が散歩が嫌いであると言う事は前々から知っている事であり、理解しているはず。だからここ数年間は、そんな提案すらして来る事もなかった。
なのに突然、そんな事を当然のように言って来る。
どう答えたら良いか分からずしばし沈黙していると、母は慌てたように言葉を幾つか述べた。
「ほら、昨日届いたロボット……<Cell>だっけ。それがあるでしょう。喜多見って、あなたが名付けた物。昨日説明書をよく読んだらね、一緒に連れ添って散歩させるのが良いらしいのよ。何でも、外界の情報を直接体験する事によってね、色々と成長するらしいの」
「成長……」
久我山は呟く。
確かに母の言う通り、<Cell>は外界の情報に触れる事により、様々な学習を積み重ねて行く事、つまり成長する事が出来る。予めインプットされた情報では実世界との齟齬が生まれる場合――例えば今この瞬間に起きた出来事、つい最近定義が変わった物事など――がある。
それらを修正するには主に二つの方法があり、一つはネットワークを介して最新の情報に更新する事。そしてもう一つは実際に<Cell>の目で確認し更新する事だ。
「色々な事を実際に学んで理解して、そうすると私には良く分からないけど、良い変化をもたらすらしいのよね。だから、一緒に連れて散歩に出掛けたら良いんじゃないかって、思ってね。一人で出しても何かトラブルがあったら、困るし……」
「…………」
久我山は無言のまま考える。
散歩は嫌いでありその感想が変わるとは到底思えないが……しかし、あえてその嫌悪する事を行えば、もしかするとこの自分を取り巻いている閉塞感、鬱屈とした気分が少しは変わるかも知れない。
かも知れない、という曖昧な話。
だが曖昧な話に乗ってみるのも、そこまで悪くないかも知れない。
「……ああ、うん。分かったよ。とりあえずその辺の川沿いを歩いてみようかと思う。一時間ほどで良いよね」
「よ、良かったわ。それじゃあ、よろしくね」
母は要件が済んだ事に対して明らかに安堵した表情を浮かべ、部屋から出て行った。
久我山は座っていた椅子から立ち上がり、腕時計や財布等を身に付けながら、ふと思う。
母は僕の事を怖がっているのかも知れない、と。
「…………」
久我山の視線の先には喜多見。彼女は眠っているような状態にしていた。
ような、とは電源をオフにしているだけだ。その状態ではまさに人間のように立つ事は出来ず活動する事も出来ない。
よってこの場合、人間が眠る時と同じように何処かで横になる必要があるのだが。
「……僕にとっては、かなり非現実的な光景だな」
部屋の隅に置かれた白いベッド。そのベッドは本来彼だけが使用している物だが、今は先客が居て使用されている。それが誰かと言えば、目を閉じて静かに横になっている喜多見だ。
その状態の喜多見を見ていると、機械にはとても思えない。
可憐な少女がベッドの上で寝ているようにしかとても見えないし、何も知らない第三者から見ても、やはりそう見えるだろう。
昨日の夜。喜多見の調整が終わり幾らかの会話を行った後、消費電力を削減する為に彼女の電源を一度切る事にしたのだが、問題になったのは一体何処で横にさせるか、という点。
見た目は人間そのままである以上、人間と同じように布団やベッドの上で横にさせるべきだと――もっとも彼女自身は何処でも良いと言っていたが――久我山は考えたので、さて何処で横にさせるべきかと悩んでいたところ、その悩みを知った母が提案したのだ。
あなたのベッドの上で寝させれば良いんじゃない、と。
一緒に横になって寝れば良いんじゃない、と。
反対した。<Cell>である事は分かっていてもそれは気まずい。見た目は同年代ほどの少女であり、とても一緒に横になって眠る事など出来そうにない……などの言葉を述べていた。
ただ――言葉とは裏腹に、実際は嫌ではなかった。
美少女とベッドの上で横になって一緒に寝る――正確に言えば喜多見は寝ている訳ではないが、ともかく寝ているような状況。確かに気まずさは感じるだろうが、それでも傍で横になってみたい。
だから一度は反対した久我山も、母にもう一度提案されると嫌々従ったふりをした。下心の精神を出来る限り隠したつもりだった。
そうして、久我山は一緒に横になって一晩を明かした。
……明かしたのだが、緊張して一睡も出来なかった。
喜多見は電源を切る前には、
「私の事は気にせず、寝てくださいね」
と可愛らしく言っていたが、久我山にはそんな余裕は完全になかった。
誰かと一緒に横になって寝る事――しかもその誰かの見た目は美少女――を完全に甘く見ており、緊張して眠るどころではなく、はち切れそうな心音を鎮めるのに精一杯。
考えないようにしようと思っても、意識に登るのは喜多見の顔。眩く美しい顔。
その顔を意識しまえばもう落ち着かない。すぐ隣で横になっているという事実だけで心臓の鼓動は収まらず、頭は酷く混雑し、とてもリラックスして眠りに落ちる事など出来なかった。
おおよその必要品を持った久我山は喜多見を起こす事にする。ただ起こすと言っても首の後ろにあるスイッチを長押しすれば良いだけだ。
眠っているように見える喜多見の傍まで行き、少しためらってから首元に手を伸ばし、髪をかき分けてスイッチの場所を探る。
傍から見れば怪しい以外の表現しようがない行為を数秒行っていると、ようやくスイッチらしき物に触れる事が出来たので、長押し。そのまま五秒ほど待っていると、パチリ、と彼女の目が開かれていた。
目の周辺が淡い緑色に輝き、起動が開始した事を通知する。
「んーっ。気持ち良く休む事が出来ました」
一つ伸びをして、喜多見は立ち上がり久我山に視線を向ける。
スッキリとした真っ直ぐな眼差し。今の久我山とはまるで対照的だ。明るく輝いて、はきはきとしている。眼差しにも性格が現れているようにも見える。
「久我山さん、おはようございます。ご用件は何でしょうか? 私に出来る事であれば、何なりとお申し付けくださいね」
ご用件、と言えるほどではないかも知れないが、申し付ける事にする。
「あー。その、今日。ちょっと出かけませんか? 歩いて外の景色を見て回ると多分、色々な情報が得られるんじゃないかと思うんです。喜多見さんの中にある情報がアップデート出来ると思うんですけど、どうでしょう」
「ええと、つまり……」
喜多見は僅かに首を傾げて、
「散歩、を行うという事ですか?」
「まぁ、そういう事です」
母の言葉を伝えるにしてもちょっと省略し過ぎたな、と久我山が思っていると、
「それはぜひ!」
いきなり、久我山の手を握って来た。
とても嬉しそうな表情。まさかこのような表情を見せて手を取って来るとは思わず、久我山は困惑してしまう。
「ちょっ……」
「とても嬉しいです! 情報のアップデートが出来るのも勿論ですけど、それに私はこの目で街中にある物を見てみたいんです。私には色々な物事や概念はインプットされていますが、実際に見るのとはまるで違いますからね。百聞は一見に如かずって奴です。誘って頂きありがとうございます!」
表情だけではなく、声も歓喜に溢れている。ここまで喜びの表情――もっともこれは言うなら予め〝組まれた喜び〟だろうが――を見せてくれた事は、久我山としても嬉しかった。
こうして話は冒頭に戻る。
久我山と喜多見は並びながら、川を歩いていた。
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