第一章 …… 出逢

出逢 (1)


 ……ジリリリリリ。


 うるさいと、思う。


 何かが鳴っている事はぼんやりとした意識の中でも気付いたのだが、この繰り返し鳴っているのは一体何なのか、何故止まる気配がないのか、それらの事が分かるまでは数秒の時間を必要とした。


 分かれば何でもない。何時もの目覚ましの音だ。


 ゆっくりと――久我山は目を開けていた。


 ぼんやりとした視界に飛び込んで来るのは見慣れた光景。薄暗い部屋の天井。半透明の傘が付いた電灯と火災報知機と、白い天井。それ以外には何も見えない。


 頭をゆっくりと曲げれば、棚の上に置かれている何時も使用している青いアナログ式の目覚まし時計が目に入った。


 その時計に表示されている時刻は朝の六時三十分。予めセットした時刻になり、アラームがやかましく鳴っていた。


「……分かってるよ」


 昨日目覚ましをセットした記憶はないのだが、無意識の内にしてしまったのだろうか。


 酷い眠気を纏ったままベッドから手を伸ばし、時計の頭上に付いているボタンを乱暴に押し、アラームを止めていた。


 仰向けの姿勢に体を戻し、ぼんやりと考え事をする。


「また、あの夢を見たな」


 ここ最近、見ている夢。


 久我山ともう一人の久我山。二人の自分が居る夢。もう何回見ただろうか。少なくとも十数回には及んでいるだろうが、正確な数は分からない。


 悪夢の回数など数えていないからだ。


 あの夢の続きも、何度も見ている。恐らくこれからもずっと……もしかすると一生見続ける夢なのかも知れない。


 だが、それは仕方ない。


 悪夢として出て来る事を久我山は行ったのだから。


 幾ら見たくないと思っていても、そんな事は脳には関係ないだろう。深層心理に刻まれた経験が夢として現れる事は――。


 ――やめよう、と。久我山は思考を止めていた。


 あの夢の事は考えたくない。これ以上考えても意味はない。


 夢の事など、今は何処かに放り投げたい。




 無理やり思考を中断した久我山は起き上がり、ベッドから抜け出て、自分の部屋の扉を開けようとする。


 だが開ける前にふと、一つの物が視界に入った。


 いや、入ってしまったと言うべきか。


 それは部屋の壁に取り付けられている黒のハンガーラック。金属製であり相当な重量をかけても壊れない物。


 くそっ、と。久我山は悪態をついていた。


 嫌な物を見てしまった。外そうかどうか迷っている物なのだが、あの夢をこれからも見続けるのなら外してしまうべきか。壁に打ち付けられている物だが無理やりにでも外し、燃えないゴミとして捨ててしまえば良い。


 一つ溜息を吐き、扉を開けて今度こそ部屋から出て行く。


 木張りの薄暗い廊下を渡り、階段を降り、居間へと続く扉の前に着く。一呼吸をして気分を落ち着かせてから居間の中に入った。


 居間は何も変わらない。何時もの光景だ。


 数畳ほどの広さの部屋の中には、テーブルが一つ。その上に食器が乗っており、椅子が三人分あり、点けていないテレビが鎮座しており、そして――母が居る。


「あ……お、おはよう」


 と、声を発したのは息子である久我山。


 母は椅子に座り、テーブルの上に置かれていたご飯と味噌汁、それに卵焼きやブロッコリーのサラダなど食べていた。


 久我山の声に反応して、母は顔だけをこちらに向ける。


 酷く気まずそうな表情。何か嫌な物でも見てしまったかのような、そんな物。


「うん……おはよう」


 小さな声でそれだけ言うと、視線を久我山から逸らし、また黙々と朝食を食べ始めた。


「あー。今日の朝、いや夜にさ」


 久我山は会話を続けようとする。この場の雰囲気がもう少しマシになって欲しかった。こんな息苦しさを感じながら食事はしたくなかった。


「また、あの夢見たんだよ。あの最近見ている悪夢。だから前々から話していた通り、ちょっと専門的な病院に通おうかと思っているんだけど、どうかな」


「うん……良いと思うわよ」


 視線を向けようとはしない。


 言葉だけが向けられる。


「そ、それでさ。専門的な病院に通うとなると多分、お母さんも一緒に来ないといけなくなるらしいんだよね。客観的な視点から僕の様子を知る必要があるみたいだとか。だからその時は、よろしくね」


「うん、うん……。分かったわ」


 変わらず、母は視線を向けようとせず、典型的な上の空の返事をする。


 ただ、そのような態度を見せる事に関して久我山が不満を抱く事はない。何故なら母がそのような態度を取るのは、当然と言っても良いからだ。


 あの状況に遭遇すれば、こんな態度になるのも無理もない。


 この態度になった事に関して誰かを責める必要があるのなら、それは久我山を責める事になる。ことの発端は彼にあるのだ。


 ――そう。


 もしあの時失敗していなければ。


 もっと別の方法を取っていれば。


 そうすれば、きっと――。


 湧き上がりそうになった過去の記憶を、頭を振る事によって無理やり追い出す。


 思考するだけ無駄な事をまた考えようとしている。少しでも気を抜くと意識の中に入り込み、久我山の心中を大きく揺らそうとする。


 止めなければいけない。こんな思考は。


 過ぎた事をやり直すのは、出来ないのだから。


 久我山は溜息を吐いてから台所へと向かった。そこには母が作ってくれた朝食が置かれているはずだ。




 一月初旬。高校の冬期休暇期間。


 日々通っていた高校も中断し、十二月後半から一月前半に掛けての二週間程度の休暇期間中、久我山は引き籠りのような日々を送っていた。クリスマスを迎えても年が明けても、祝う気持ちなど微塵にもなれず、ただただ家の中で鬱屈とした気分で過ごし続ける毎日。


 そんな気分になる理由はある。大きな理由が一つ。


 それ、を経験したから。


 それを経験して以来、久我山はどうしようもなくなってしまった。趣味であるゲームやパソコンなどに触れる事もなくなり、唯々自室でぼうっと過ごす日々を送っている。何も行動する気になれない。気を抜けばあの日の事ばかり考えている。夢にまで見る――それの事を。


 普通の学生であれば相当に心躍る休み期間に、どうしようもないほどにうんざりとした日々を過ごし続けていた。


 そして久我山は、こんな日々は何時までも終わりなく続くんだろう、と思っていた。


 それが自分の行く末なのだろう、と。

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