人の領域 - The Border Line -

薄幸柄

夢の記録

夢の記録 (上)


 静まり返っている。


 音はまるで聞こえない。人の声や車の音などの、何処にでもあるような日常の音は一切存在しない。聞こえるのは風が静かに吹く音ぐらいだ。


 無音であり、静謐。


 ……しかし、何故だろうか。この空間は少し異様な気がする。


 まるで、現実、じゃないような。




 そうか。分かった。


 ここは多分――夢の中だ。


 夢の中だ、という確信染みた判断が僕の中に広がる。


 そう、ここは夢に違いない。


 夢の中では夜の光景が広がっている。明かりはあまりなく、薄暗く見通しが悪い空間。そしてそんな夢の世界の中、僕の視線の先には一人の後ろ姿が見えていた。


 思い出した。


 そこに居るのは〝ボク〟だ。黒いジャンパーに灰色のズボンを身に付けたボク。物が詰められたレジ袋を持った彼は、コンクリートで舗装された道をゆっくりと歩いている。


 電灯もほとんど建っていない暗い道を、ただゆっくりと。


 数分ほど道を歩いていたボクは、一軒の家の前で立ち止まっていた。


 白い外壁の二階建ての一軒家。見た目は真新しい感じがする物だ。他の人がこの家を見ても、特に印象も感想も抱かないかも知れない。抱くとしたら精々『良い家ですねぇ』という中身がないありきたりの言葉ぐらいだろうか。傍から見れば何処にでもありそうな、何の変哲もない家だろう。


 だけど僕は――この変哲もない家を見て、ふと思っていたのだ。


 嫌な予感がする、と。


 そう思う僕に対して目の前に居るボクはと言うと、ただじっと、その家の玄関前にある黒い門の前に立ち、家を眺めている様子だった。


 身動き一つすらせず、まるで根が生えた木のように突っ立っている。


 僕はボクに色々な方法を用いて接触を図ろうとしてみた。が、声を掛けても全く反応はないし、身体に触ろうとしてみても胴体を捉える事なく僕の手はすり抜けてしまう。まるで幽霊のような状態だった。


 どうにも接触を図る方法はなさそうなので、僕はボクの様子をじっと眺めていたり、家の様子を色々と観察したりした。


 で、分かった事が二つある。


 一つは、ボクはどうやら何かをやろうかどうか、実行しようかどうか、迷っているような様子であるという事。ボクの表情からそんな雰囲気を読み取っただけだが――まぁ夢の中とは言え、これは同じ僕なのだ。多分合っているだろう。


 そして分かった事のもう一つは、ボクの目の前にある家の家主の名前。これは表札を確認したらすぐに分かった。記されている名前は『久我山くがやま』。これは僕の上の名前と同じだ。


 つまりこれは僕が住んでいる家――いやこの夢の中では、ボクが住んでいる家、という事になるのだろう。




 果たして、一体どれほどの時間ボクはそこで立っていたのだろう。体感時間で三十分、実時間では十分程度だろうか。


 一向に行動を起こそうとしないボクに対して飽きが生まれ、何処かに行こうかなぁ、っていうかそろそろ夢から覚めたいなぁ――などと思いながら胡座で地面に座り込んでいた僕だったが、


 突然、門の前で立ったままだったもう一人のボクは、


 スッ、と。門に手を掛けて開いていた。


 慌てて立ち上がった僕は、家の中に入って行くボクに付いて行く。


 短い階段を登り、ポケットから小さな鍵を取り出して玄関の扉を開けるボク。そして開いた扉の中。家の中に入り込んで行く。


 同じように、僕も家の中に入って――。




 突然、頭蓋骨が吹き飛びそうな、激痛が走った。


「がっ……」


 僕は呻き声を発して両手で頭を抱え、地面にうずくまった。


 ドリル――いやそんな優しい物ではなく、先端がほどよく丸まった鉛筆を使って頭に穴を開けられようとしているような、そんなおぞましい痛みが襲い掛かっていた。


 そして同時に、先程得た感覚を再び得る。


 嫌な予感、を。


 僕はこれ以上この家の中に居たくなかった。今すぐ出て行って何処か遠くまで逃げたかった。この場にこれ以上居ると激痛で頭がおかしくなりそうだし、そして何か、とても嫌な事を体験しそうだと、そう思ったから。


 吹き飛びそうな意識の中、先に家の中に入っていたボクの姿を探す。


 激痛のせいかどうかは分からないけど、視界の光景はスローになって動いていた。ボクは何でもなさそうに靴をゆっくりと脱いでいた。右足から脱いで、左足も脱ぐ。白い靴下に着いた毛玉の数さえも数えられそうなほどの、ゆっくりとした世界がある。


 そんな世界の中で、僕は叫んでいた。


「な、なあ。一緒にここから出よう! この場所から離れよう!」


 どうしてボクに向けて叫んだのかは分からない。辛いなら自分だけが出て行けば良い話なのに。


 でも僕はそう叫んでいた。僕だけじゃなくボクにもこの場所から離れて欲しかった。この家の中に居て欲しくなかった。


 ボクは、そのまま先に進もうとする。


 スローの世界の中、靴を脱ぎ終わると下駄箱の中に入れ、レジ袋を持ったまま居間に向かおうとしている。それをどうしてか防ぎたかった僕は無駄だと分かりつつも、彼に手を伸ばして何とかして制止させようとして――。



 夢は終わりを迎えていた。



 僕の意識は覚醒へと向かって行く。それまで周囲に存在していた玄関の姿形、ボクの姿、それに感じていた激痛も全てが曖昧になり消えていく。夢は夢として一つの幻という形で締められていく。


 最後の瞬間。


 意識が完全に覚醒する前に、声を聞いたような気がする。


 ごめん、という声を。

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