5 友人
夏休みも残り三日となったが、堀塚は相変わらずククリの元に来ていた。
「それで、友人がですね……」
ククリの話に曖昧に頷く。
ここ最近、堀塚は上の空だ。
理由は言わずもがな。プリントを取りに行くか否かで、迷っている。勿論、行ったほうがいいのは分かっているが、中々行く気になれず、ここまで来てしまった。
俯く彼に、彼女は少しだけ黙り、すぐに笑顔になった。
「そういえば、リツさんは、夏休みが明けたら何処かに行く予定はありますか?」
彼の肩が跳ね上がる。彼は、話すかどうか迷ったものの、誤魔化すのも面倒な気がして、けれど弱点を晒すのも嫌で、なんでもない様子を取り繕った。
「ああ、学校担任からプリントを取りに来いって言われててな。今度、取りに行くつもりなんだ」
ヒーローの面の裏でヘラりと笑った堀塚に、ククリは首を傾げる。
「……リツさんは、行きたくないのですか?」
「え」
見抜かれた。堀塚は、最初呆気に取られたが、答えを間違えたことに後悔し、また、ククリの反応に恐怖を抱いた。
彼女は後ろを向いており、表情は分からない。だからこそ、怖い。後ろを向けと言っておいてなんでザマだと、遠くで思う自分もいた。
今、彼女は何を思っているのだろうか。堀塚を呆れたか。軽蔑したか。何をやっているんだと嘲るか。理由もなく学校を行きたくないと曰うなど、ふざけているのかと怒るのか。
ぶわりと汗が吹き出し、胃が荒れる。
彼女の反応を見たくなかった。見れば、もっと自分が惨めになる。
「リツさん」
嫌だ。聞きたくない。
耳を塞ぎかけたその時。
ーーふと、夏の暖かな風が堀塚の頬を掬った。
「リツさん。落ち着いてください。私は異界学を学んでいる身です。脈略もありませんが、今から知識の確認をさせてください。今はどうか、私の声を聞いていただけませんか」
無表情でも、笑んでもいない、祖母のような口調だった。彼女の声はこちらを責めるでもなく、バカにするでもなく、哀れんでいる様子すら見受けられなかった。
強張った肩の力が、少しずつ、抜けていく。
瓶の側であぐらをかいていた彼は、ククリの背中を見た。
彼女は、一拍の間を開けた後、あくまで淡々とした声で言った。
「リツさんが持ってきてくれた植木鉢の形からして、貴方の世界には様々な学校のシステムがあるはずです。
全日制、通信制、専門、夜間などですね。奨学金制度もあるとお見受けします。また、義務教育を終えているのでどこかで働くことも可能なはずです。
休養を取るのも、生存戦略の一つでしょう」
「そして、貴方は生きているので、多くの選択肢があります。豊富な可能性があります」
抑揚のない態度は、本当にただ知識を述べているだけのように感じた。それが、今はありがたかった。
なんの感情も向けてほしくなかった。
哀れんでほしくない。馬鹿にされたくない。気遣わないでほしい。怒らないでほしい。突き放さないでほしい。安易に肯定されたくない。
彼女は、それを完全に把握していたわけではないのだろう。ただ、知識を確認するためなのもあるが、堀塚のために話したのは確かだと思った。そこに、どのような感情が含まれていたのかは分からない。
彼女は異界の人で、この世界の人間ではないのだから。
堀塚は、聞こえた言葉の羅列をシャットアウトしないように、何度も脳の中で繰り返した。綿を合わせて糸を紡ぐように、慎重に彼女の言葉を繋ぎ合わせる。
聞き流しそうになった言葉たちが、徐々に形となっていく。
何故だか、彼は泣きそうになった。
「…豊富な可能性、か」
「はい」
ククリの声色が戻る。彼女の声が、パッと華やいだ気がした。
ーーー
その日の夜、堀塚はベッドに寝転がり、シミ一つない天井を見上げながら、考えていた。
今更、学校に行ってどうなるというのだろう。
もう、3ヶ月以上休んでしまった。勉強はしているから、追いつくことはできるのだろうか。追いついて、また、周りと並ぶために頑張るのか。常に、全力で、休む暇もなく。
そして、また、繰り返す。
けれど、それを理由に逃げてもいいのだろうか。
いつかの未来で、埃を被った小汚い自分を想像し、青ざめた。彼の目は死んでいて、面倒そうに日々息をしているのだ。死のうとしても怖くて死ねず、ただ意味のない生を、奴隷のように淡々と生きて。
挫折を経験し、立ち上がらなくなった姿だ。全てを諦めた姿だ。
そうはなりたくないと思った。けれど、頑張り続けるのは嫌だった。休む暇がほしい。しかしそうすると、勉強についていけなくなる。けれど頑張ればまた壊れてしまう。だが、それでは周囲から引き離される。
堀塚は、きっとクラスメイトから蔑まれているだろう。勉強についていけない愚か者だと、心のどこかで笑われているに違いない。
外から聞こえるはずもない、小学生の笑い声に、涙腺が熱くなった。
「豊富な可能性があります」
彼女の言葉を繰り返す。
そうであってほしいと、願う。
翌日の朝、堀塚は重い体を起こして、久々に学校のジャージを着た。
学生鞄は、いつもと変わらない。中には、水に濡れた後に乾かして、皺のできた紙と、プリントを入れる用の分厚いファイルが入っている。皺のある紙には、下手くそな紫色の朝顔の絵が描いてあった。
「…行くか」
堀塚は、ゆっくりと部屋のドアノブを回し、廊下を通って玄関へ向かう。
玄関では、靴を履こうとしている両親がおり、驚いた様子で彼を見た。
「おはよう」
彼は、少し背を曲げたままで言う。母親が、「おはよう。大丈夫? 無理してない?」と聞いてきたので、首を横に振った。
父親は、無言で彼の肩を叩いた。少し力の籠った、応援するような叩き方だと思った。
彼は、扉の前で立ち止まる。
両親の視線を感じた。責めてはいない。ただ、何かを待っていたようだった。
『生存戦略のうちの一つでしょう』
彼は、小さく息を吸い、玄関の扉を開く。重い扉を開けると、眩しい太陽の光が降り注ぎ、思わず目を細めた。
「行ってきます」と、彼は言った。
「行ってらっしゃい」と、両親が言った。
学校に行き、職員室を尋ねると、担任が歓迎してくれた。最初、彼の姿に目を見開き、嬉しそうに口元を緩ませる。それを見て、彼は自然と謝っていた。両親といい、担任といい、彼らをここまで心配させていたのに、自分のことばかりだ。
担任は、「堀塚、来てくれて嬉しいよ」と、彼の肘を軽く叩いた。その言葉に既視感があったが、ククリがよく言っていたなと思い至り、頬が痒くなった。
担任と別れ、教室へ向かう。約3ヶ月ぶりの学校は、知らない世界のようで疎外感もあったし、怖くもあった。けれど、来た以上は、進むしかない。
誰にも会いませんようにと祈りながら、豪邸に忍び込んだコソ泥のように、足音を顰めて歩いた。
教室に着く。担任から、彼の席は教室の隅の窓際にあると聞いている。
誰もいませんようにと願いながら、ドアに手をかける。そっとやろうとしたのに、間違えて勢いよくドアを開けてしまった。
ガタン! と音がなり、教室の中が目に入る。
教室で机を拭いている近藤の姿も目に入った。
「…」
「…」
二人して固まる。堀塚は、血の気が引いていくのを感じた。
近藤は、中学生からの友人だ。向こうは、堀塚を覚えているのだろうか。気まずい。自分は、どの面さげて、近藤と会っているんだ。
自己嫌悪が爆発しそうになった。
それを止めたのは、近藤だった。
「…よう」
彼は、机から布巾を退け、堀塚に言う。こちらに招くようなニュアンスだった。
「……よう」
堀塚はぎこちなく返し、教室の中に足を踏み入れる。
席順は、当たり前だが変わっていた。見知らぬ掲示物に、この前あった体育祭の集合写真。勿論、堀塚はいない。
彼は、自分が異物のように感じてならなかった。あまりの居た堪れなさに踵を返そうとしたところを、目的を思い出しどうにか踏みとどまる。
「…プリント、取りに来た」
「おう。これだよな」
近藤は、拭いていた机の中を漁り、紙の束を取り出した。
堀塚は、冷や汗が流れるのを耐えながら、束を受け取る。今すぐ逃げ出してしまいたかった。終始近藤から目を逸らしたままだったのは、何を言われるのかと怖かったからだ。
「…じゃあ」
「ああ。……あ、ちょっと待ってくれ」
近藤が生徒手帳から紙を一枚破り取り、胸ポケットに付いていたシャーペンで何かを書く。なんだなんだと眉を顰める堀塚に、彼はたった今書き終えた紙を渡した。
「…これは」
「俺の電話番号。スマホ買い替えたから。で、なんかあったら言ってくれ。できる限り、手伝う」
「…ああ、サンキューな。でも、なんで」
「友達だからだ」
すんなりと、まるで当たり前だとでも言うように、近藤は答える。
堀塚は、初めて彼と目を合わせた。体育会系の部活に所属している彼は、最後に会った時よりも焼けていた。堀塚が不登校になり、話さなくなってから時間は経っているはずなのに、近藤は、友達のまま、ここにいた。
ふと、机が目に留まった。堀塚の机は、埃を被っておらず、綺麗だった。先ほども机を拭いてくれていたので、近藤が定期的に掃除をしてくれていたのだろう。
—心配、されていたのか。友人に。
息が震えた気がした。堀塚は、急いでプリントを鞄に仕舞い、近藤のメモをポケットに入れる。泣かないようにしながら、彼は近藤を見た。
「ありがとう」
「いいよ、これくらい」
近藤は、「じゃあ、俺、顧問に呼ばれてるから」と教室から出ようとして、止まる。彼は堀塚に背を向けたまま言った。
「俺は……なん、つーか、さ。堀塚が笑えてるんなら、それが、いいと思う。学校に来ても、来なくても、どっちでもいい。…どっちでも、いいんだ」
近藤の表情は見えなかった。それでも、優しい目つきなのだと思った。
ポチャンと、彼の言葉が雫となって、湖に波紋を作った気がした。雫は湖に浸透し、堀塚の心の深くまで、響いていく。
堀塚は、ふいに、自分が恵まれているのだと知った。
「…ああ、ありがとう!」
駆けていく近藤の背中に向かって声を掛ける。近藤は、気にするなとでも言うように、軽く手をあげた。
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