4 変化

 高校二年生の春に学校を休んで以来、堀塚は一度も登校することなく、夏休みを迎えた。

 その間、彼は三日に一度の頻度でククリの元へ通った。


 何故ククリに会いに行くのか。彼自身にも、明確な理由は分からなかったが、おそらく、何か変化を期待していたのだろう。


 実際、彼には多少の変化があった。


 彼は姿が見えないように努めながら、木の側に二つの鉢植えを置く。鉢植えには朝顔の花と夕顔の蕾が植えられており、ククリは目を輝かせた。


「まあ、可愛いらしい! 朝顔…と、もう片方の花はどんな名前なのですか? 薄い紫色の、朝顔によく似ていますが…」

「夕顔と言うらしい」

「そうなんですね! 教えてくれてありがとうございます」


 ククリはガラス越しに花の輪郭をなぞる。ここに来てから、すっかり癖になっていた。


「異界学の本で読んだのですけれど、この季節は夏休みなんですよね? リツさんは、何処か行く予定はあるのですか?」

「ない」

「では、ここに来る頻度は変わらないのですか?」 

「そうだな」

「嬉しいです。あ、そうだ。リツさんは、色水の実験をしたことはありますか? 朝顔の花を水につけて揉み、できた色水で絵を描くんです」

「少しだけやったことがある」


 堀塚は鉢植に水の入ったペットボトルを刺しながら答えた。

 朝顔といい、色水の実験といい、小学生の頃を思い出す。理科の授業で、女子も男子も関係なくはしゃいでいた記憶がある。

 逆さになったペットボトルから、水嵩が減っていく。支柱に巻きついた蔓が、心なしか動いたような気がした。

 ククリは、夏風のような声色で呟くように言った。


「私も、やったことがあります。その時、友人は誰よりもはしゃいでいて、色水の入ったコップを間違えて倒していました。

 彼女はクラスメイトから大ブーイングを食らって、号泣してしまって。…まあ、その次の日、登下校路に生えている朝顔の花を刈り取って、三リットルの色水を作って、クラスメイトと昼休み遊んでいましたけど」

「お前の友人、強いな」

「もちろんですとも。彼女は強いんです!」


 自慢げな声に、彼は苦笑した。友人の話になると、ククリはテンションが跳ね上がる。未確認生物のくせに、普通の女子高生のようだ。否、彼は既に彼女のことを異界人として認めつつあった。それほどまでに、彼女の話は普通で、身近だった。



 夏休み中盤。入道雲が立ち上り、ぽつりぽつりと雨が降る。祖父母の家にあった赤い番傘を差した彼は、いつかの夏祭りに買ったヒーローもののお面を身につけ、彼女のいる瓶に触れていた。


「本当に、分厚いガラスみたいだな」

「ですよね。一応貴金属の一種なんですけど、詳しいことは私にも分からなくて」

「瓶みたいな形をしているのは何故だ?」

「さあ…? その方が、何かと都合がいいんでしょうね。私は体内でエネルギーの循環を確立しているので、空気さえあれば生きられますけど…この形状は、空気のみを入れるためでしょうかね?」


 話している間、ククリは後ろを向いていた。姿を見せたがらない堀塚への配慮だった。彼女の後ろ姿は、完全に人間の女子高生そのものだった。

 今日の昼間、彼らは瓶について話そうと決めていた。

 しかし、急に雨が降り出し、瓶の中に水が入ってきた。水が溜まっていくような音に、彼は蓋が空いてたのかとツッコミ、このままでは彼女が溺死してしまうのではと、慌てて道具を運び、事なきを得た。


 現在は、瓶の先端に傘を括りつけることで、瓶中の浸水を防いでいる。巨大な瓶には梯子がかけられ、彼はその中腹にいた。

 いまだに鳴り止まない心臓に、堀塚はため息を吐く。それほどまでに、緊張し、焦った。未確認とはいえ目の前で人に死なれるのは、目覚めが悪い。

 焦った理由は、きっとそれだけではないのだろう。

 すっかり濡れてしまった彼女に、彼はタオルを渡す。彼女はそれを受け取り、「ありがとう」と言った。表情は見えないが、声の調子から彼女が笑っているのだと分かった。



 夏休み終盤に差し掛かり、堀塚の家に、夏休みに入ってから三度目の電話が掛かってきた。

 相手は、学校の担任だった。

 担任の名前を見た瞬間、堀塚はドクリと心臓が脈打つのを感じた。電話を母に押し付け、部屋に籠る。彼らの話し声が聞こえないよう、ヘッドホンをつけて大音量で適当な音楽を流し、布団を被った。

 音楽のリズムに関係なく、ズキズキと頭が痛んだ。何もしていないのに、冷や汗が出た。心臓が早鐘を打つ。胃の中が荒れている。視界が歪み、溢れそうになった涙を堪えた。


 電話が鳴る時、かけてきた相手が担任だった時、決まって体調が悪くなる。

 担任が悪いわけではない。むしろ彼は、学校に行けない堀塚を見捨てず、根気強く付き合ってくれる。だからこそ、教師の名前を見るたびに申し訳なくなった。情けないとも思った。

 ふと、机に散乱したノートと、教科書に目が行った。

 勉強は、勿論やっている。けれど、追いつけない。堀塚が2つ進む間に、周りの生徒は3つ進んでいる。たった1つの違いでも、堀塚にとっては負担だった。

 高校一年生の頃、無理をして、取り繕って、食いついていた。けれど、疲労は溜まっていく一方で、ある日を境に眠れなくなった。それでも授業は進んでいくから、気合いで前に進んだ。

 躓きながら進んで、進んで、進んで。

 もう、何もかも辞めてしまいたいと思った矢先、祖父母が死んだ。


「サボってんのは、分かってる。いかなきゃいけないのも、分かってる。けど、だからって、どうしろって言うんだよ。俺は、もう、嫌なんだよ。頑張って頑張って頑張ってぶっ壊れて。これ以、何を、頑張れってんだよ」


 叫ばないように喉を絞り、布団の中で掠れた声で発した。外で母が担任と話す声が聞こえた。

 成績は最初から悪かった。内申点を稼いで、なんとか進級できたくらいだ。責任感も、人の話を最後まで聞くという意識も、その時に身についた。

 背伸びをして、自分の98%の力を出して入れる学校を選んでしまった。中学の頃からの友人もいたので、選んだはずの道だった。けれど、もう友人は堀塚のことを友達だと思ってはいないだろう。何かあったわけではない。ただ、堀塚が自分で立ち止まっただけだ。


「どうすればいいのか、分かんねえよ……」


 堀塚は蹲る。部屋の外では、母親が「プリントを取りに来て欲しいんですって」と、心配そうに言っていた。

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