3 事情

 帰宅した堀塚は、リビングを通り過ぎて自身の部屋の扉を開ける。

 部屋に入る直前、台所にいた母が、お玉を持ったまま気遣わしげに彼に近づいた。


「おかえり。どうだった? ……行けた?」


 心配そうな彼女に、彼は首を横に振り、黙ったまま部屋に入り、鍵を閉めた。

 扉越しに、何十回も聞いた「何か、困ったことがあったら相談してね。母さんはいつでも味方だから」に飽き飽きしつつ、カモフラージュのために持っていた学生鞄を下ろした。

 最も、彼のスマホには見守り機能が入れられており、母からは彼が何処に行っていたか筒抜けだが。祖父母の家に行っていると分かっているから、彼女も深くは踏み込んでこないのだろう。


 堀塚は、部屋に入るなりどっと重くなった体を引きずるようにして椅子に座った。

 机上に散らばった勉強道具たちには、一週間は手をつけていない。こうしている間にも、同級生は先へ進んでいく。

 早く勉強しなければという焦燥感と、もう追いつけないのだからやっても無駄だという諦観がひしめき合っている。

 今日は、諦めの方が強いらしい。


 堀塚は、くしゃくしゃになったプリントをゴミ箱に捨て、カーテンを閉めた。

 外から侵入する小学生の笑い声を聞かないよう、イヤホンを付け、お気に入りの曲を大音量で聞いた。しかし、明日への希望を抱かせるようなアップテンポが耳障りで、すぐに止めた。

 好きだったはずなのに、今は嫌いだ。これなら、未確認生物の歌声の方がよほど、聞き心地がいい。


「…何考えてんだ俺は」


 馬鹿馬鹿しい。ベッドに横になり、布団を被った。特に理由もなく視線を彷徨わせているうちに、意識が微睡む。不快感を抱くくらいなら眠ってしまえと思ったが、小学生の笑い声に起こされてしまった。




 三日後の昼間。堀塚はまた巨大な瓶の側にある、苔生した木の裏側にいた。未確認生物は、今回も嬉しそうに話しかける。


「嬉しい。また会えました。今日は、私の故郷の花のことでも聞いていただけませんか」


 未確認生物の態度は、今回も変わらなかった。数日経てば本性を現すかという予想は外れた。彼女は意気揚々と口ずさむ。踊るように、軽やかに。

 陽だまりのような声色に、堀塚は堪えきれずに吐き捨てた。


「…なんで、そんなに友好的なんだ。お前の目的は、なんなんだよ」

「ですから、リツさんとお話しすることですよ」


 雲が泳いでいる様を、ククリは見ていた。瓶の口から差し込む光に手を伸ばし、ポツリと溢す。


「……いえ、本当は、誰でもよかったんです。私はただ、誰かとお話ししたかった。…知っていますか?」


 ククリは瓶の底を撫でた。


「一人は、寂しいです」


 彼女の声が、自室で蹲る自分を連想させ、堀塚はそれ以上は何も言えなくなった。

 一人の辛さは、知っている。

 しばらくの間、二人は黙ったままだった。

 数十分経ち、一向に話し始めない彼女に、彼は痺れを切らした。ただ、安易に顔を晒すのは不用心だ。彼はパーカーのフードを深く被ると、木の影からそっと顔を覗かせる。


 一体、どんな形をしているのだろう。

 初めて会った時は咄嗟に隠れたので、未確認生物の姿は彼には分からない。

 タコのような足や、異様に長い腕を持っていたり、こちらが生物と認識できないほど歪んだ姿だったりするのだろうか。

 それとも、彼と同じ、人間のような姿だろうか。

 まるで、見ては行けないものを覗くような、罪悪感に苛まれた。彼は、脈打つ肌に汗を流したまま、息を吸う。


 瓶の淵が見えてきた。つるりと光を反射する様は、硝子のようだ。瓶の底の縁に、白い布が見えた。布の面積が広がり、高さを増していく。白い布は、ダボっとしたワンピースのようだった。

 艶やかな黒髪が見え、いよいよ心臓が高鳴った。ゆっくりと目で追っていこうとした時、未確認生物が動き、彼は反射的に隠れた。


「…大丈夫」


 寝言にしては大きな声だった。胸が酷く傷んだ。まだ、心臓がドクドクしている。

 一瞬だけ見えた彼女の姿は、普通の女子高生のようだった。しかし、本当に一瞬だったので、彼の妄想かもしれない。彼女のワンピースの足部分が、異形の可能性もある。


「大丈夫ダかラ」


 また、彼女が言った。今度は、アクセントの変な台詞だった。夢の中で、誰かにかけた言葉なのだろうか。それとも、自分自身に向けているのだろうか。

 抑揚のない機械じみた声を聞く度、無性に腹が立った。彼はフードを下ろし、木陰で膝を抱えて横になる。


「…何が、大丈夫なんだよ」


 ここでは、子供の声は聞こえない。




ーーーー



 昼下がりの休み時間。とある高校の教室の隅で、一つの机が埃を被っていた。

 休み時間中の学生の行動は様々だ。しかし、教室の入り口や廊下でたむろする女子や、勉学に励む学生、バスケをする男子がいる中、一人の男子学生は、水道で布巾を濡らしていた。

 そんな彼に話しかける、変わった女子が一人。


「近藤、何してんの?」


 近藤と呼ばれた男子は、布巾を絞りながら答えた。


「雑巾絞ってる。机を拭こうと思ってな」

「ああ、あの教室の隅っこにあるやつね。へえ、拭こうと…。近藤、良い奴だねえ」

「井内だって、机の中のプリント、毎回整理してるんだろ」

「あれは…ま、暇だったからね」


 教室へ移動する近藤の後ろを、井内は着いていく。近藤は教室の隅にある机へ向かい、なぞった指に埃がついたのを確認すると、丁寧に拭き始めた。真剣な表情に、井内はなんとなく気になって聞く。


「…来て欲しいの? 学校」


 近藤の手が止まる。彼が答えない間、井内は小さく足踏みをして、歩数を数えた。歩数が三十歩を超えた時、ようやく彼が口を開いた。


「別に、どうでもいい」


 彼女は、「ふうん」と適当に相槌を打ち、飽きたとばかりに教室から出ていった。




ーーーー



 異界よりも文明が進んでいる、故郷の病院。

 ククリの網膜には、当時の両親の表情が焼きついている。


「検査の結果、ククリさんは、変性特異性細胞症候群の可能性があります。端的に申しますと、不治の病です」

 

 医者の淡々とした言葉に、ククリは初めて、感情が追いつかない感覚を体験した。


 変性特異性細胞症候群。

 発症の原因は不明。週単位で症状がガラリと変容し、発症部分を切り取っても終わらず、半年で死に至る。特効薬は勿論ない。一億人に一人が発症する、極めて特殊な病気だった。

 数時間にものぼる検査を経て、彼女が不治の病だと診断された時、彼女の両親は表情を失っていた。

 彼らの瞳に映るククリも例外ではなく、一瞬、何か不可思議な呪文を唱えられたのではと逃避した。検査が進むたびに険しくなっていく医療従事者たちの顔を見て、何か重大な病気なのではと察しはついていた。

 けれど、まさか自分が不治の病だとは思わなかった。

 死神を呼び込むように、廊下のカーテンが捲れ上がる。


 彼女が次に浮かべたのは、薄っぺらな笑顔だった。土気色の両親を、「私は生きるから大丈夫」と、根拠もない自信をひけらかすようにして宥めた。


「ククリ…」


 彼らは、何かを堪えるように唇を噛み締めた後、ククリを抱きしめた。彼女はその時になってようやく、声を上げて泣いた。

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