初恋の灯火は

桜雪 翠

初恋の灯火は

 星が弾けた。六年ぶりに彼女の笑顔を見た時、そう思った。

「ただいま、穂乃ほの

「……言うの遅いよ」

「だって今日忙しかったし」

 あかりがうちに帰省してからわたしに放った最初の言葉は「星を見に行こう」だった。「ただいま」よりも先に「今夜、星を見に行こう」と言い放った灯がおかしくて、そんな久しぶりに会う織姫と彦星を見に行くようなロマンチックなことを笑顔で言うから、わたしの沈んでいた気持ちも夜空に輝く星を映せるほどには晴れてしまった。

「でも天気良くて助かったよ。穂乃に見せたくてさ」

 公園の高台に着いた時には、二人ともすでに汗だくだった。半袖に短パンでも暑い八月の夜に外へなんて出たくなかった。誘ってきたのが灯じゃなかったらとっくに断って家で勉強していただろう。

「星なんてわたしは毎日見てるけど」

「一緒に見たかったの。今日中に、ね」

 高台にはベンチが三脚ある。どれも石でできた背もたれのないつるつるとしたもので、長時間座っていたらお尻が痛くなるほどには硬いものだ。暑さと痛みがわたしの体を痛めつけても、灯との時間を無為にするほどの力はなかった。

「どうして今日?」

「……ほら、おばさん見てるかなって思ってさ。今日、十三回忌だったし」

 灯が言い淀みながら視線を落とす。せっかくこんなに綺麗な星々が輝いているのに、それとは対象的に公園に設置された一本の電灯で灯の顔には影ができていた。

 そういうことか。本当に織姫と彦星を期待していた内なるわたしが露骨にしょんぼりして恥ずかしくなる。そもそも今は八月だし、時期もずれていた。なんだか急に不謹慎で母に申し訳なくなってくる。でもそのくらい、灯と久しぶりに話せたことが嬉しかった。とはいえ、六年もの間連絡を取らなかったのはわたしのほうだ。だから再会するときは緊張や不安も大きかったけど、灯は最後に会った六年前と同じように接してくれたのが嬉しくて、同じように笑ってくれて、意固地になっていた自分が嫌になった。それと同時に、大学が忙しいとか理由をつけて帰って来なかったことも、もしかして灯がわたしに気を遣ってのことだったんじゃないかと不安になった。

「穂乃はもうすぐ受験じゃん。だから穂乃とここで会えるのももしかしたら無いかもって思って。穂乃の成績だったらここから出ていいとこの大学行くでしょ?」

「……そんなの関係ないよ。夏と春は長い休みがあるし成人もするし、ここじゃなくてもわたしが灯に会いに行くから」

「ありがとう……でも――」

 灯がわたしから目を逸らして、地面に視線を落とす。

「……そうだね」

 夜の静寂に包み込まれていなければ、その言葉を聞き逃していただろう。そのくらい小さな声を落とした灯は、どこか不安気で思い詰めた顔をしていた。

「どうしたの、灯」

 わたしの言葉に反応して顔を上げた灯は、寂しそうな笑顔を見せてから視線を夜空に向けた。

「何でもないよ。それよりほら、夏の大三角。都会じゃこんなにはっきりとは見えないよ。やっぱり綺麗だね」

 灯には灯の事情や考えがあるのだろう。それなら、ここでわたしが深く詮索するのは良くないかもしれない。いつか彼女が話したくなったら、その時に聞けばいい。

 灯が横で天体望遠鏡を組み立て始める。今日は六年ぶりに二人きりで過ごせるのだ。わたしは浮ついた気持ちを抑えることができないでいた。




 十二年前、父親もおらず母まで亡くなってしまったわたしは、母方の祖母に引き取られた。その時は灯たちの家族が祖母と一緒に住んでいて、六つ上の従姉妹である灯は幼い頃からわたしの面倒を見てくれていた。灯は綺麗で優しくて、わたしにとっては姉であり母のような存在だった。そんな灯に、いつの間にかキラキラした感情を抱いたのはいつ頃からだろうか。

「あら、おかえり。外暑かったでしょ? 交代でお風呂入りなさいね」

 天体観測を終えて家に帰ってきたわたしたちは、案の定汗で上着が背中に張り付いていた。

「灯、先に入ってきていいよ」

「いいの? ありがとう」

 そう言って灯は風呂場へ直行した。冷房の効いた部屋で汗をかいたままだと逆に風邪を引きそうだ。すぐに持ち歩いていたタオルで汗を拭いて、扇風機の風が当たらない位置に陣取る。特に目を引くテレビ番組もやっていなかったので、適当にスマホを開いた。ネットニュースで若手俳優が結婚したという記事が目から滑っていく。人の結婚なんて特に興味もなかった。

「穂乃ちゃんごめん、今手が放せないから灯に洋服持っていってあげて」

 おばさんの声でスマホの画面を閉じると、わたしは灯の鞄を勝手に開けて適当に部屋着っぽいものを選んで脱衣所へ向かう。

「灯、服置いとくね」

 シャワーの音にかき消されないように、少し声を張って呼びかけた。程なくして「ありがとう」と返事が来たのを聞いて、わたしはその場を離れた。

「もう美代子が亡くなって十二年経つのか……早いね」

 リビングに戻ると、おじさんとおばさんが母の話をしていた。

「穂乃ちゃんはお母さんのこと、覚えてるかい?」

 はっきりと覚えているのは、母の葬儀の日だった。はじめはもう母に会えないという実感も湧かなかった。だって棺を開けたら、そこには綺麗な顔で眠る母の姿があったから。またふっと起き出すんじゃないか。そしていつものようにその手でわたしの頭を撫でてくれるんじゃないかと思っていた。でもその後、母の体は仰々しい箱に入れられて再び開けた時には骨だけになっていた。その時初めて、母がいなくなったことを感じた。周りの大人が泣いている中、灯は涙をこらえてずっとわたしの手を握ってくれていた。あの時の嫌な熱気と少しの焦げ臭さを忘れることなどできない。

「……あんまり覚えてないかも」

 それでもわたしは、見え透いた嘘をついた。その記憶が夢であればどれほど良かっただろう。でも、その記憶の中に残る灯の手の感触は冷えていたのにどこか優しかったことは鮮明に覚えている。たとえ死の記憶と結びついていても、その優しさだけは大切に取っておきたかった。

「まだ幼かったものね。でもここまで大きくなって、きっとお母さんも喜んでいると思うわ」

 わたしは曖昧な笑顔をした後、スマホを取って自室に戻った。この手の話は苦手だ。特に自分に関係のある話だから余計に。灯もおばさんたちも、わたしに優しく接してくれてここまで面倒を見てくれて本当に感謝している。母が生きていたら、こんなに長い時間を灯と過ごすことはなかっただろう。そう考えてしまう自分が嫌いだった。

『お風呂終わったよー』

 そんなことを考えていると、灯からメッセージが来た。それを合図に、わたしは洋服を取り出して風呂場へ向かった。十年前にリフォームしたこの家は二階建てで、わたしの部屋から風呂場へ行くには階段を下りる必要がある。一階に再び下りるとリビングから話し声が聞こえた。家族三人で世間話でもしているのだろうか。

「灯、そういえば奏汰くんとは上手くいってるの?」

 ふと、足が止まる。奏汰って誰、灯の彼氏? 初めて聞く名前に、わたしの心臓が跳ねた。手が急に冷えだして身の毛がよだつのがわかる。

「あー……まあ。今度挨拶に来てもいいかって言ってた」

「まあ、それって――」

 わたしは風呂場とは反対にあるリビングに直行してその扉を思い切り開けてしまった。驚いた三人の視線がわたしに集まる。

「灯、どういうこと……?」

「ごめん穂乃、今まで黙ってて……その、大学の時に出会った彼とまあ、そういう関係になりそうって話だよ」

 わたしは俯いたまま、灯の顔を見ることもできなかった。教えてくれなかった怒りと、知ってどうなるのかという気持ちと、灯が誰かのものになる寂しさで頭がおかしくなりそうだった。人の結婚なんて興味なかったはずなのに。

「……ごめん、ちょっと外の空気吸ってくる」

 灯がわたしを呼び止める声を振り払って、わたしは走り出した。ばか。灯のばか。ずっとわたしの手を握ってくれるんじゃなかったの? 違う、そんな日々が永遠に続くと勘違いしていたわたしのほうがばかだ。こんなのいくらでも想像できたじゃないか。

 どんどん息が上がっていく。胸が苦しい。足がもつれて転びそうになり、走るのをやめた。膝に手をついて肩で息をする。暑さとぐちゃぐちゃになった灯への感情が混ざって地面に落ちた。汗なのか涙なのかもう判断がつかなかった。

「穂乃!」

 後ろからわたしを呼ぶ声がした。振り向く気力も、振り向きたい気持ちもとうになかった。息を上げてはあはあと言いながら追いついた灯がわたしの隣に立つ。

「若い子ってこんなに体力あるの……」

「どうして……追いかけて、きたの」

 まだ整わない呼吸の間にわたしは言葉を差し込む。灯は右手を開いて手首を直角に曲げ、わたしに向けて突き出した。灯の息が整うを待つ。

「つい、この前なの……彼と結婚の話になったのは」

「でも、ずっと付き合ってたの……黙ってた」

「それについては、謝るよ、ごめん……」

 二人とも少しずつ呼吸が整っていく。それと同時に、わたしの中のぐちゃぐちゃな感情も整理がつき、言いたいことがはっきりしていった。

「どうして、わたしに教えてくれなかったの?」

「お母さんから聞いてると思ってた。それに穂乃、あの日からずっと連絡くれなかったし」

 それに関しては完全にわたしに落ち度があるので、詰問することはできなかった。

「……付き合って何年経つの」

「三年」

 わたしは大きくため息を吐いた。それは灯にというより、ずっと子どもだったわたしにだ。灯は六年前、大学に行くために上京した。小学生だったあの時も、わたしは灯にずっと側にいてほしくて駄々をこねた。でも灯は行ってしまい、わたしは拗ねて連絡を取らなくなった。あの日から何も変わっていないのはわたしだけだ。

 もう後悔も、駄々をこねるのも、終わりにしたい。灯へのこの感情にも、そろそろ名前をつけていい頃だ。

「……ごめん、穂乃。謝って許されるものじゃないと思うけど――」

「夏祭り」

「え?」

 灯が素っ頓狂な声を出したのが少しおかしかった。

「明後日の夏祭り、一緒に回って。わたしをエスコートしてよ」

 だから最後のわがままを、灯にねだった。




「まさか格好まで指定してくるとはね……」

 紺色を基調とした布地に青い花が咲き誇る浴衣を着た灯は、恥ずかしそうにそっぽを向いた。髪を後ろで結って花のかんざしを差した彼女のうなじが目に入る。一方のわたしは、白地にオレンジや黄色の花が咲いている浴衣を着て、灯と並んで祭りの会場へ向けて歩いていた。

「かわいいよ、灯」

「お世辞はいいから。こんなおばさんの浴衣なんか見ても誰も得しないよ」

 本気で言ってるのに。しかもまだおばさんって歳でもないでしょ。言いかけた言葉を飲み込んで、わたしは灯の前に手を出した。

「ん。今日はエスコートしてくれるんでしょ?」

「……はいはい、何なりとお申し付けくださいませ」

 灯は諦めたように手を振り、そして右手でわたしの左手を握ってくれた。その手は少し汗ばんで冷えていた。

「もしかしてほんとに緊張してる?」

「悪い? 六年ぶりに再会した従姉妹がこんなに大きくて綺麗になってるなんて思わなかったし」

 灯は相変わらずそっぽを向いて答える。一瞬の間の後、わたしはすべてを理解してしまった。灯が照れているのは自身の浴衣姿が恥ずかしいからだけではなく、わたしの浴衣姿にも由来するもので、その、つまり。

「……じゃあ結婚なんてやめてくれればいいのに」

 その言葉が決して彼女に届かないよう、小さな声で呟いた。落ちた言葉はあっという間に喧騒にかき消された。祭りの会場が近づいている。

「さて、今日は楽しむぞ。あ、全部灯のおごりね」

「マジ?」

 そしてわたしは、灯にエスコートをねだったことをすっかり忘れて、灯の手を引いて子どものようにはしゃいだ。当たらない射的、すくえない金魚、お世辞にも美味しいとは言えない屋台飯も、二人で回るのはこれが最後だと思うとすべてが思い出になる。浮足立った周囲の熱気とそこに内包された寂しさで泣きそうになるのをこらえた。最後の思い出くらい、笑顔で終わりたかった。

「ふう、暑いね」

 会場で配っていたうちわを仰ぎ、二人であの公園の高台に上った。今日も星は輝いている。わたしが夜空にきらめく夏の大三角を結ぶより早く、灯がわたしに声をかけた。

「もうすぐ花火なのに思ったよりここ人少ないね」

 辺りを見回すと、三組ほどのカップルしかいなかった。石のベンチも空いている。まだ時間があるのだろうか。そのベンチが二人の特等席のように見えて、わたしはこの前来た時と同じ場所に座った。その隣に灯が腰掛ける。

「ちょっと早かったかな、でもいいや。ゆっくりしたかったし」

「灯は……楽しかった?」

「急にしおらしくなってどうしたの。楽しかったよ、ちゃんと」

 灯の横顔を見る。先日二人で来た時と同じように、灯の顔は電灯の逆光で影ができていた。

「また来ようよ、ふたりで」

「……それはダメ」

「どうして?」

「灯はもう、灯ひとりのものじゃないんだよ」

 うーん、と灯が唸る。少しの間腕を組み、口を開いた。

「私の意思で穂乃とまた来たいって言っても?」

「ダメ。わたしの……気持ちの問題でもあるから」

 わたしの言葉を咀嚼するような間を取ってから、灯は「そっか」とこぼして、わたしの瞳を見つめた。茶色がかった灯の瞳がこちらを覗く。

「じゃあ、私の気持ちは伝えておくね。まさか本当に六年も連絡くれないとは思わなかったけど、でも今日会えてよかった。誘ってくれてありがとう、穂乃。その……綺麗だよ」

 灯が笑う。その満ち足りた表情に、わたしは心の堤防が決壊してしまいそうになる。顔が少しずつ歪んで、前が滲んで見えなくなった。灯はそんなわたしの肩に優しく手を置いて、そっと抱き寄せてくれる。それが合図だった。わたしはあふれる涙を抑えられず、彼女の胸で子どものように泣きじゃくった。

「……ごめんなさい、ずっと連絡できなくて」

「ううん」

「ごめんなさい、わたしのわがままに付き合わせて」

「……ううん」

「ごめんなさい、灯を――」

 好きになって。

 そう確かに言葉にしたけど、声は夜空に咲く大輪の花の音にかき消された。色とりどりの花が、光となって上空に咲き乱れる。その音は心臓に響いて胸を内側から叩かれているようだったけど、それでも綺麗だった。花火も、隣でそれを見る灯も。

 灯は自身の肩にわたしの頭を手で誘導して乗せ、その上にこつんと自分の頭を重ねた。花火はどんどん大きくなっていって、最後には一番大きな花が咲き、散っていった。

「……結婚おめでとう、灯」

「ありがとう……ってまだ挨拶も終わってないけどね」

 そうして二人で静かに笑いあった。このときめきを、このきらめきを恋と呼ばないのなら、他にどんな名前をつけたらいいのだろう。

 初恋の灯火は、夜のしじまに包まれ消えた。

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