恋するきもち&マイ・サンダーボルト

西 聖

第1話

 わたくしは高原の広野にねそべり、じっと全身の濡れていくさまを感じておりました。

 しとしと降る夏の雨は心地良いものですが、あまりそうしているとお母さまやお父さまに叱られてしまいます。けれど、どうにも体は動きません。指先から足のつま先までがひりひりと熱く、全身が私を遠く離れてしまったかのようです。目にはただ曇天雨模様の空がうつるばかり。私を守ってくれていた雨傘は焼け焦げ、雨ざらしの野にたよりない骨を横たえております。お気に入りの、かわいい雨傘でした。じわじわと涙が浮かび、けれどもそれすらも雨と混じり合うと、あっという間に私のもとを去っていってしまうのでした。

「悲しむことはないよ」

 と、不意に呼びかけるものがありました。夕に響く寺の鐘のように凜然とした、でもどこか冷たさを感じさせる女声です。

「いいえ、悲しんでなどおりません」私はこたえました。でも、ことばにするほどやっぱり悲しみは募っていくものです。「悲しんでなんて……」

「ごめんね」

「なぜ謝るのですか」

「きみを傷つけてしまったから」

「傷ついてなどおりません」

「そうかな」

 私はたしかめました。

「ええ、そうです」

「お詫びにわたしの国へ招待しよう。手をとって」

 そのとき、ふしぎにも私の体は動きました。差し出された手をとると、その方のお姿がはっきりと見えてきます。

 冬宮ふゆみや様。

 彼女は私のかつて好んでいた、いえ、いまもかわらず好み、あこがれている少女雑誌の物語の人そのままの姿をしておりました。春宮はるみや様、夏宮なつみや様、秋宮あきみや様はその代に不在で、最後に冬宮ふゆみや様。私とは真反対、氷の下を音もなく流れる小川のように清らかな髪と、新雪の野のようにきめ細やかな白い肌。そして青っぽくきらめく氷晶のような眼をにっこりと細め、冬宮様は私を見つめてくださるのでした。

 すると私は宙を舞ってしまいます。実際に体が浮かび上がり、大地を遠ざかっていくのです。私は驚きのあまり冬宮様の袖を掴みました。でも、それでは折り目も美しい襟付ワンピースがくずれてしまいます。手を離そうとするのですが、次の瞬間にはもう、冬宮様は踊りのように私の腰を抱きとめてくださったのでした。

 体はどんどん空へ昇ってゆきます。

「わたしたち電人でんじんはね、雲の上に暮らしているんだ。あちこちを漂って、ときどきいかずちとなって落ちてくる。そこでこうして、きみのもとへ来たというわけだね。ところで、いつまでもきみというのももの寂しい。よければ名前を聞かせてもらえないかな」

 お父さまにも、お母さまにも内緒で、初めて。

「……ききょう」

「キキョウ。花の桔梗と同じでいいのかな」

「ええ。私を桔梗とお呼びください」

「そうか、桔梗。うん、よく似合った美しい名前だね。さ、もうすぐにわたしたちの国に着くよ」

 と言って間もなく、冬宮様は私を入道雲の内へみちびきます。そこではかの電人たちが暮らしているようでした。でも、その暮らしはとても親密なものと思えません。雲の濃淡を屋根や絨毯とし、ひとときそこにとどまったと思えば次の瞬間には雷光とともに消失する。手を振り合うのも一瞬、心を手向け合うのも一瞬。それは自由でありながら、私にはなんとも寂しいことのように感じられてしまうのでした。

「降りていったね」冬宮様は言いました。「わたしたちはお互いのすべてがわかるんだ。どこにいるとか、なにをおもっているとかね。わたしたちはいつもいっしょなんだよ」

「そうだったんですね」

「だから寂しくはないよ」

 私たちは入道雲の果てまでたどり着きます。眼下ではどこまでも続くまっさおな海が白銀の日を反射しており、上下かみしもには巨大な列島と大陸、それらに挟まれるようにして私の暮らす小島を占める森と田畑と、そして高原には私の住まう真四角の家が、いつか博物館で眺めた模型のように白々しく座しているのでした。

「じゃあ行こうか」

 冬宮様は私の手を引き、あっという間もなく入道雲を飛び降りてしまいます。目のくらむような落下でした。見る見る島は近付いてくるのですが、地面に近付くほど落下の速度はゆるやかになってゆき、ついには島の木々や草むらを横切ると、私たちはうら青い水田へ降り立ったのです。

 そこはさながら樹林でした。うんと見上げたイネの茎は大樹のようにたくましく、白く可憐な花々さえ私ほどの丈に感じられます。

 それはつまり、この体がうんとちぢんでしまっているのでした。

「後ろを見てごらん。でも、大丈夫だよ」

 私は言われるまま振り向きました。するとそこには巨大な、いえ、いまの私には巨大と感じられる小さな水棲昆虫の姿があったのです。昆虫は水面下より興味のあるような、さりとてその心の感じられない澄んだ黒眼で私を見つめます。鎌状の口吻が小刻みに震動し、そのたび鋸刃のような突起がにぶく水を掻きました。それはいまにも私の血肉を吸い尽くさんとする、残酷な化生のさまだったのです。

 私は途端に全身がふるえあがり、身動きもとれなくなってしまいました。このままでは、ああ、そのおそろしい口吻をつきたてられるのも時間の問題です。「冬宮様」息もきれぎれ、私は呼びました。「大丈夫なんだよ」冬宮様はこたえました。水面にあてた掌からは、極小の稲妻のような青白いすじが水を這ってゆきます。それで化生は、か弱い昆虫は慌てて私たちのもとを去っていってしまうのでした。

「冬宮様と呼んだね」

 驚いてばかりの私へ、冬宮様は言います。

「間違えておりましたか」

「ううん。違うことなんてないんだ」

「それでは、冬宮様とお呼びしてよいのでしょうか」

「呼ぶといいよ」

「冬宮様」

「なんだい」

「私を呼んでください」

「桔梗」

「もう一度」

桔梗ききょう

 私たちの旅は続きます。水田より水路へ渡り、川に出ると水系をたどってやがて海へたどり着き、あたためられた水蒸気とともにまた雲のなかを泳ぐと、やがてふたたび地に落ちる。すべてはそのようにくり返しましたが、私には真新しい驚きの連続です。野に咲く花の精緻な造形の秘密、暗渠に満ちるまさしく暗黒というほかのない深い闇、ほんの一瞬だけ深林にたちあらわれる真実の静寂、真昼の月、幾千億の星星、海よりまた空へ昇るそのときの気持ちのよさはとても言葉にはあらわせない……。

 それはまさにお伽噺、千日千夜を巡るほどの大冒険だったのです。

「疲れてしまったんだね」

 と、冬宮様が言いました。たしかにすっかり疲れ果て、お城のような入道雲で休憩をしていた折のことです。

「まだ、どこへだって行けます」

「聞いてごらん」

 私は耳を澄ませます。すると聞こえてくるのは懐かしい、久しく聞かなかったお母さまたちの呼び声なのでした。

「わかったね」

「私、帰りたくなんてありません」

「きみは帰るんだよ」

「だって、お母さまたちもお父さまたちも、私をひどくしつけるんです」

「ならずっとここにいようか」

 はっと顔を上げると、冬宮様のまなざしはそのお言葉のようにやさしく手向けられており、すると、私にはわかってしまいます。

「でも、私……鼻もぺちゃんこです」

 入道雲がもろくも崩れ、夏の終わるのが。

「声もなんだかかわいくないし……」

 冬宮様の体が、雲とともにちぎれ崩れていくのが。

「こんなに傷だらけで、髪の毛だってない……」

 そして桔梗が、また私へと戻っていくのがはっきりとわかってしまったのです。

「悲しいことはないんだよ」冬宮様は言いました。「この空の星と同じ数だけ雨粒が落ちたとき、わたしたちはかならずまた会えるのだから」

 その声と、たなびく煙のような雲の尾をあとにして、私はまっさかさま地上へと落ちていきます。大いなる海原より小さな島へ、森や田畑を過ぎると真四角の白い家、その寝台で私は目を開きました。窓の外に広がる闇を雷鳴が轟いております。行かなければ。私は起き上がろうとするのですが、体がうまく動きません。見てみると、どこも棒きれのように痩せ細ってしまっているのです。やっとのことで寝台を降りると、いきおい転げ落ちて壁に頭を打ちつけてしまいます。目の前の半分がまっかに染まり、床につけた手を何度も滑らせ、それでようやく、立ち上がることのできないのは足首の折れているせいだと気付きました。それでも、それでもどうにか寝台の柵に背中を押しつけながら窓に手を伸ばします。錠には手が届かず、意を決して床頭台に置かれたグラスを叩きつけました。ガラスは砕け散り、激しい雨風が吹き込みます。外はまったく嵐なのです。見上げた空より落ちてくる真っ黒な雨のむこうを、おそろしくも美しい雷が切り裂いています。雷はその光でもって巨大な雷雲の形状をあらわにし、それはあの自由な電人たちがそのなかを踊っている、なによりもたしかな証左なのでした。

「いま、いきます」

 私は窓に手をかけます。ただ、思いきり外へ飛び出すだけでいいのです。「冬宮様」私は呼びました。「冬宮様。いま、いきますから」

 すると突然私の体は、窓の外とは反対の、部屋の中へと引き戻されてしまうのです。

 やめなさい! 誰か! お母さまの声が聞こえます。「助けて」私は必死に暴れます。しかしお母さまは、清潔な白衣で着飾ったお母さまやお父さまたちは次々と部屋へやってきて、私の体をきびしく取り押さえてしまうのでした。

「いやだ、いやです」

 私は叫びました。

「迎えにきて……」

 しかし、冬宮様はおとずれません。雨風は段々とおさまり、雷雲もいつか去っていくようでした。ちくんといった痛みに目を向けると、既に注射器は腕を抜かれており、あっという間に意識は薄れてゆくのでした。

 それで次に目を覚ますと、私はもうひとりで立ち歩くこともできなくなり、それからの長い歳月を過ごしました。

 時代は変わってゆきました。大きな戦争を契機にして私の家も没落し、預けられていた病院は閉鎖、ほんとうのお父さまやお母さまは列島の山深くにある施設に私を入れると、二度と姿を見せませんでした。

 そして山中の施設もまた、私の入居よりしばしののちには閉鎖が決定され、しかしどこにも行き場のない私は、ついにはそこに取り残された最後のひとりとなってしまったのです。

「どこへでも行っていいの」

 新たなお母さま――家にはもう私とふたりのお母さまが残るのみ――は言いました。

「でも、行くあてなんてありません」

「なら残っていてもかまわない。でも、忘れないで。あなたはどこへ行ってもいいの」

「私は、迎えを待っているのです」

「いいことね。なら支度を忘れないで」

「荷物なんてありません」

「いいえ。物ではないの」

「ではなんなのですか」

「支度です。いいですか、けして忘れないでいて」

 幸いにも、施設には温室が用意されておりました。車椅子をつかわなければ動くことのできない私も、そこであれば安全に散策をして過ごすことができたのです。温室はガラス張りの半球形で一周およそ百メートルほど。私は雨が地に落ちるたび、雷鳴が遠くどこかで轟くたびに暗い空をおもい、雨粒とそのむこうに隠れた天の星を数えながら、過ぎる日々の一瞬たりとて冬宮様を忘れることはありませんでした。

 その間に、体はすっかり老いてしまいました。衰えた全身に古い傷痕の残る私は、さながら樹皮の剥がれた老木のようです。

 でも、冬宮様はそんな私にやさしいお声をかけてくださいます。寂しくはないと、悲しいこともないのだと、どれほどの歳月を経ようとけして私を拒むようなことはせず、それだから私は支度ということについて、時間をかけながら知っていったのです。

 そんな、冬宮様のやさしいお心のように、この日もまた私をなぐさめる雨が降りはじめます。ガラス張りの半球に玉を落とした一千八百三十二いっせんはっぴゃくさんじゅうに度めの雨はすぐに川となり、さながら天の涙といったふうに激しい流れへと変わってゆきました。

 遠くどこかで雷鳴が響きはじめます。

 雷雲は、見る見るこちらへ近付いてきます。

 ついに頭上までやってきた雷は、施設を貫くと温室の窓をすべてうち砕き、一瞬のうちに飛散したそれらガラスの破片は、無限とも思える電光をはじいて千々にひらめきました。

 私は、とうとうすべての星が落ちたのだと思いました。

 私は露天となった温室のへりを乗り越え、施設をあとにします。めざすのはひらけた高原の野です。茫々伸びた草むらに車輪が絡めとられると、車椅子を捨てて這いずりました。這いずるのはやがて歩くのへ変わり、ついには走り出します。「冬宮様」私は叫びます。「いま、いきますから」今度、私をさえぎる者はおりませんでした。「冬宮様!」

 そうしてたどり着いた広野にて、とてつもない衝撃とともに目の前がまっ白となり、次の瞬間には、あのあこがれの冬宮様が私の眼前に立ちあらわれていたのです。

「また、お会いできましたね」

 私は呼びかけます。

 冬宮様はあのころと――私と出会った三十年前と――すこしも変わりのないお姿のまま、その凜然とした声でこう問いかけました。

「連れていこうか」

 私はこたえます。

「いいえ。でも、あなたに伝えたくて、私はひとりでもゆけます」

 こたえます。

「私のもとへ来てくださって、私に語られてくださって、ほんとうにありがとうございました」

 すると冬宮様は、そのうつくしい眼をにっこりと細め、まっすぐに私を見つめてくださるのでした。

「うん。悲しむことはないんだね」

「ええ。悲しんでなどおりません」

「じゃあ、わたしは行くよ」

「待ってください、それとあと、私はほんとうはシヅというのです」

「知っているよ」

「冬宮様」

「なんだい」

「私のことを、呼んでください」

「シヅ」

「ありがとうございます」

「それじゃあね」

「ええ。さようなら」

「さようなら」

「さようなら」

 冬宮様は行ってしまいました。

 夏山の天気は変わりやすいものです。さっきまでざんざん降っていた雨は止み、雷は遠ざかり、雲の切れ間からは早くもあたたかな光が射し込みはじめておりました。

 それでは、私は行きましょう。

 痩せた体を車椅子まで引きずると、車輪に絡みついた草を引き剥がし、施設より伸びる坂道をくだりはじめます。山林の麓には野が、その向こうには白亜の街々が広がっており、私はそこを目印に進もうと決めました。すると林道を入ってすぐの茂みに、野イチゴの生えているのを見つけます。大発見。私は腕を伸ばして棘のある枝を指でかき分けると、まだすこし青い野イチゴの実を摘み取り、おそるおそる口へ運んでみます。

「わっ」

 その驚きといったら。

 私は野イチゴをべっと吐き出します。とても食べられたものではない、その強烈な苦みや渋さ、これまで味わったことのない不味さに覚えず笑みがこぼれると、おかしさは腹の底を湧き上がり、とうとう声になってあふれてしまいます。自分でも聞いたことのないような滑稽な声はさらにおかしな気分を連れてきて、私はばかみたいにいつまでも笑いながら、この永い初恋が満ちて、どこまでも広がっていくのを感じていたのでした。

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