世界は愛と優しさに溢れているから、今から一緒に殴りに行こうか

アソビのココロ

第1話

「この世は愛と優しさに満ち溢れているのです! 愛と優しさを尊重すべきです!」

「「「「「「「「わああああああああああ!」」」」」」」」


 群集の前で声を張り上げる大神官のアナクレト猊下。

 失敗した。

 大神官猊下のゲリラ辻説法に当たってしまうとは。

 馬車の流れが悪くなるから、家に辿り着く時間が遅くなるな。


 愛と優しさを尊重すべき、か。

 聖国教会の実務上のトップとしてもっともな主張だと思う。

 群集の歓喜も故あることだし、わたくしだって批判しようとは思わない。

 その主張までは。


「お尻は愛と優しさの象徴なのです!」


 問題はここからだ。

 唐突に登場するお尻。

 わたくしことジェシカ・ファインベリーが問題視しているのは、お尻についての言及が始まって以降の部分なのだ。


 アナクレト猊下曰く、特に女性のお尻は子供を育む生命と豊穣の重要な器官である。

 産めよ増えよ育てよとは聖典にも記されていることだ。

 我々は女性のお尻を敬い、愛でねばならない、と。


 全体から見れば女性より男性が優遇される社会で、女性を尊重するように聞こえる大神官芸猊下の言い分は、実は女性にもウケがよかった。

 大いに支障があるなのは『女性のお尻を敬い、愛でねばならない』の解釈の仕方だ。

 女性のお尻を撫で回していいなんて法があるだろうか?

 いや、お尻を触ってはいけないという法もないのだけれども。


 アナクレト大神官猊下が教会権力を握る以前、女性の扱いは男性の紳士的精神に委ねられていた。

 女性のお尻を触るなどという行為は白眼視されていたものだ。

 それが現在ではどうか?

 皆が皆、堂々とお尻にタッチしているではないか。

 自分が撫でられるのも不快だが、見るにも耐えない。

 どうしてこうなった?


『お尻くらい触らせてあげればよいのではなくて? それで全てうまく行くのなら』


 これが現在優勢な見解だ。

 そして腹の立つことに正しいのだ。

 大神官芸猊下の主張は完全に受け入れられているから、女性はお尻を触られる代わりにその人権は尊重されている。

 もし理不尽に女性を虐待しようものなら、神の名において厳罰が下されるのだ。

 国の司法機関もそれを善しとしている。


 つまりお尻を触られるのさえ我慢できるのなら……。

 好きでもない男に触られて我慢できるかそんなもん。

 一方で婚約者レナードはわたくしのお尻を触ろうとしないのだ。

 何故だ?

 思う人には撫でられず、全くうまくいかないものだ。


          ◇


「ジェシカ様?」

「聖女様。今日もお邪魔しております」


 聖国教会の王都聖堂図書館で調べ事をしていたところ、聖女マハーヤ様に話しかけられた。


「御熱心ですね。ジェシカ様は公爵令嬢でおありになるのに、聖堂図書館に日参なさるでしょう?」

「ここが最も宗教関係の書物が充実していますものですから」


 聖女様が柔らかく微笑む。

 大ぴらには言えないが、聖女様とわたくしは尻タッチに抗う同志だから。


「ジェシカ様は才女でいらっしゃいますから」

「いえいえ、そんな……」

「使えそうな記述はありましたか?」


 言葉が曖昧なのは仕方がない。

 周りはほぼ大神官派閥なのだ。

 聖女様もまた大神官と並び聖国教会の首座を占めているのであるが、今をときめく大神官に真っ向から逆らうことはできない。

 何故なら大神官アナクレト猊下の発言は、社会秩序の面でも教会勢力の伸張という意味でも結果を残しているから。


 ただお尻を触られるのが嫌だ、そんな根拠のないことでは賛成を得られないのだ。

 下手をすると聖女を解任されてしまうかもしれない。

 今や大神官猊下にはそれほどの支持が集中しており、聖女マハーヤ様が更迭されでもしたら、それこそ反撃の橋頭堡も失われてしまう。


「……あと、五〇日ですね」

「ええ」


 五〇日後に収穫祭が行われる。

 収穫祭は我が国の建国記念祭を兼ねているので、毎年大変大きな催しになる。

 そこで宗教者の代表である聖女様と俗世の代表であるわたくしが、大神官猊下にお尻を撫でられることになっている。

 何故俗世の代表がわたくしなのか?

 王妃様は身重で収穫祭に参加できないにしても、王太后様がおられるではないか。


 アナクレト大神官猊下曰く、敬うべきは今後子供を育むであろう女性のお尻である、と。

 要するにババアの尻に用はないということだ。

 ものは言いようだなあ。

 イコール若い女性のお尻を撫で回すべきという思想だから、世の男性の絶大なる人気を得ているし。


 去年は王妃様が犠牲になったが、わたくしは何としてでも回避したいのだ。

 それで聖堂図書館に通いつめて、対抗措置を考えてきたのだが……。


「ジェシカ様は何か思い付きまして?」

「……一つだけ。淑女らしくないので気は進まないのですが……」

「どれでしょう?」

「旧典のここの部分です」


 岩の精霊から恩を受けた民が、『自らの手を痛めてまで殴って感謝を伝えた』場面だ。

 硬い岩の精霊にはそうまでしないと感謝にならない。

 あるいは喜ぶ行為というものは各々異なるという訓話である。

 聖女様がニッコリする。


「やはりジェシカ様もそこですか」

「聖女様も気付いておられましたか。心強いです」


 本来暴力反対の立場である聖女様がその気なら怖いものはない。

 わたくしも淑女の仮面をどこかに放り捨てることにしよう。

 腹は決まった。


「聖女様、実際に手を傷めてはよろしくありません。訓練いたしませんか?」

「訓練、と申しますと?」

「拳闘の達人を手配しております。威力を出すためには腰の入ったパンチが必要ですので」

「さすがジェシカ様! 訓練までは思い及びませんでしたわ!」

「では、ファインベリー公爵家のタウンハウスにおいでください」


          ◇


 ――――――――――五〇日後、収穫祭当日。


「いよいよですわね!」

「いよいよですね」


 いよいよ収穫祭の日だ。

 わたくしはちょっと緊張しているのに、聖女様の鼻息が荒い。

 毎日みたいに大神官猊下と顔を合わせる立場の聖女様は、よほど鬱憤が溜まっているのだろうなあ。


「抉り込むように打つべし! 打つべし!」


 本当に聖女様楽しそうだな?

 従者にバンテージを巻いてもらい、それを大きめの手袋で隠す。

 控え室に連絡が来た。


「聖女様、ジェシカ様、入場でございます」

「行きますよ、聖女様」

「ええ!」


 さあ、今から一緒に殴りに行こうか。


          ◇


『愛と優しさに包まれし神の僕達よ』


 拡声の魔道具から朗々とアナクレト大神官猊下の声が響く。


『今年も豊作であった。豊穣の象徴をよく愛でたおかげである』

「「「「「「「「わああああああああああ!」」」」」」」」


 つまりよくお尻を撫でたからってこと?

 群集は興奮しているけど冷静に考えてよ。

 そんなわけあるか。


『今年の豊作を神に感謝し、来年の豊作を祈って聖女マハーヤとジェシカ・ファインベリー公爵令嬢のお尻を撫でよう』

「「「「「「「「わああああああああああ!」」」」」」」」


 どんな公開処刑だ。

 恥ずかしい。

 でも我慢我慢。

 力強く尻を揉まれる。

 うはー、ぞわっとする。


「アナクレト猊下」

「ん? 何であろう、聖女マハーヤよ」


 聖女様ものすごくいい笑顔してるわ。

 お任せしよっと。


「旧典の第一三の挿話ですが」

「旧典の第一三の挿話? ああ、岩の民の慈悲と民の感謝の話であるな」

「はい」

「それが何か?」


 聖女様が拡声の魔道具を受け取り、群衆に向かって語りかけます。


『神の僕の女達よ。あなた達はお尻を撫でられ、そのままでよいのですか?』


 あっ、微妙な顔をしている女性が多い。

 大神官猊下の愛と優しさを尊重すべきという主張には賛成していても、やっぱりお尻触られるの嫌な人が多いのではないか。

 信仰の下という謳い文句で不平も言えず、我慢してるだけなんだ。


『旧典の第一三の挿話にこうあります。岩の精霊から恩を受けた民は、自らの手を痛めてまで殴って感謝を伝えた、と』


 大神官猊下の顔色が悪くなってきた?


『撫でられっぱなしではいけません。宗教的行為に関しては聖典に則って感謝するのです。すなわち……』


 聖女様とアイコンタクト。

 大神官猊下の左右から二人でボディブロー!


「ぐぼおおおおおお!」


 苦悶の表情を浮かべる大神官猊下の頭が下がったところでストレート!

 聖女様とわたくしの拳でサンドイッチされた大神官猊下の顔が、一瞬ひしゃげて見えた気がする。

 大神官猊下は大の字に倒れた。


『自らの拳を痛めてでも思いきり放つパンチ、これが聖典に則った正しき感謝です!』


 あまりのことに沈黙が場を支配したが、やがて女性達から拍手が鳴り始め、ついには大歓声の中、収穫祭の神への感謝の辞は終わった。

 わたくし、やりきった!

 聖女様とハイタッチを交わした。


          ◇


「結局皆嫌だったのですね」

「言い出せないだけだったのでしょう」


 収穫祭の大神官猊下のノックアウトシーンは、衝撃的ではあったに違いない。

 でもそれだけでは女性のお尻を触る行為はなくならなかった。

 それはそうだろう。

 いいことだとされているんだから。


 しかし女性側に反撃、もとい感謝の行為が示されたことから、状況は確実に変わりつつある。


「アナクレト猊下は私の顔を見ると、恐怖の表情を浮かべるようになりましたよ。あれから二度とお尻を触られたことはありません」

「よかったです」

「ジェシカ様はどうです? 何か変化はありましたか?」

「学院で知らない下級生の女子から感謝されるようになりました」

「感謝ってパンチですか?」

「違いますよ」


 二人で淑女らしくもなく大笑いする。

 おっと、図書館では静かにしないと。


「ジェシカ様は目的を果たしたのに、まだ聖堂図書館にいらっしゃるのですね」

「ええ、農業関係の本も多いと知ったものですから」

「ああ、食は基本ですものね」


 無言で頷く。

 農業の何たるかを知らないわたくしが読んでも役立たないのかもしれないが……。


「知らないフルーツが記載されている本があるのですよ」

「そうなのですね?」

「気候的に栽培できそうなものを、公爵領に取り寄せてみようかと思いまして」


 新しい名産にできるかもしれない。

 わたくしは領のことも考えなくてはならないから。


「ジェシカ様は跡取りなんですよね?」

「そうです」

「婚約者様とはどうなんです?」

「それが……」


 わたくしの婚約者はキプリング伯爵家の次男レナードだ。

 性格が紳士だからなのか身分差に遠慮していたからなのか、わたくしのお尻を撫でようとはしなかった。

 レナードだけには触らせてもよかったのに。


「純情な方なんですよ」

「そうでしょうか?」

「ジェシカ様はレナード様のことがお好きなんですね?」

「……はい」


 聖女様は案外俗っぽい。

 宗教家なんて狭い世界で生きているからかなあ。


 一つ年上のレナードとは幼馴染だ。

 いつから好きだったかなんて覚えていない。

 婚約前からだったのは確かだ。

 わたくしにとっての愛と優しさは、常にレナードとともにあった。


「わたくしの学院卒業を待って結婚の予定です」

「おめでとうございます。全力で祝福させていただきます」

「えっ? ありがたいですけど、よろしいんですか?」


 聖女様の全力の祝福なんて、それこそ国事じゃないと行われないことなのに。


「ジェシカ様は戦友ですからね」


 戦友か。

 思わず苦笑する。


「……そういえば、王都の街中では収穫祭以降一つの流行があるんですよ」

「流行ですか? 何でしょう?」

「拳闘道場に女性が大勢訪れているんです」


 再び二人して大笑いした。

 聖女様とは長い付き合いになりそうだ。


          ◇


 図書館を辞す時にアナクレト大神官猊下に偶然出会った。

 『ひっ』と脅えた声がした気がしたけど、聖女様が拳を見せてニッコリしていた。

 『猊下にはたくさん感謝しなくてはいけませんね』だって。

 聖女様怖い。

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