第24話


 悠一の声に、カイリはちらりと視線を寄こし、すぐに夏樹に向き直って彼女を見上げた。


「……だ、ダメ」

「どけよ」

「どかない」

「…………」


 無言で、夏樹は刀を振り上げた。

 少しでも力を込めれば、簡単にカイリの身体は両断される。

 カイリにはそれを阻むだけの力など、本当はなかった。


「……ダメ」

「……ちっ」


 夏樹は刀を下ろした。

 そして視線を逸らし――悠一は、それを好機だと直感的に判断する。


「美翅!」


 駆け出し、倒れた美翅の背中とひざ下に手を差し入れて、脱兎のごとく逃げ出していく。


「ちっ、逃がす――」

「だめだって、言ってる!」


 両手を広げて、カイリがその行く手を阻んだ。


「邪魔だ――」


 刀を振ろうとして、躊躇する夏樹。

 それは、カイリの強い意志の籠った瞳に気圧されたからでは決してない。


 夏樹には、どうしてもこの場で"カイリ"を斬ることが出来ない理由があった。


「、……邪魔だって、言ってるだろうがっ!」

「――っ」


 夏樹は思い切り、カイリの腹部を蹴り上げた。


「がっ」


 大きく飛ばされたカイリはコンクリの壁に背中をぶつけ、何度か咳き込むと、少しの体液を吐き出し、お腹を抑えてその場にうずくまった。


「……ちっ、あいつらどこに――」


 夏樹の躊躇は二人に十分逃げるだけの時間を与えていた。


***


「――はぁっ、はぁっ」


 美翅を連れて逃げ込んだ先は、二人の出会った公園の、植樹された木々の間だった。腰を下ろし、息を落ち着けて、何処へ逃げるのかを考える。


 ――大丈夫だ。これまでだって、ずっとなんとかなった。だからきっと大丈夫。


 何度も、何度も心の中でそうやって自分を鼓舞する。


 運命は、この世界は二人に安寧をもたらすことがなかった。

 常に外敵からの恐怖に怯え、防除される危険を考える日々。


 それでも、そんな日々であっても、二人でいられたら良かった。

 二人でなければだめだった。


 ――だから、これからもきっと大丈夫。


「……とりあえず、街を出よう。……あ、でも夏菜子たちにも言わないとだめかな。……ううん。こんなこと、僕らには日常茶飯事のはずだ。だからきっと大丈夫。とにかく、今はあの人の手から逃げて、それから――」

「……もう……いいよ」


 美翅が小さく、絶え絶えな息と合わせてそんな声を絞り出す。

 悠一は目を見開き、美翅の方を向き直った。


「……美翅?」

「……"お別れ"」


 ――刹那。


 飛来した黒い蝶。

 咄嗟に悠一は真横に向かって飛んでいた。


 先ほどまで悠一が立っていた、その奥にあった樹に傷が入る。


 目を見開き、尻餅をついた悠一と……そして、そんな彼を見下ろす手負いの少女。


 黒枝美翅は、血の流れでる傷を片手で抑えながら、無表情に呟いた。


「ねえ、悠一くん」

「な、なんだよ……なあ、これ、はは……何かの――」

「どうして避けたの?」


 息が詰まるような感覚があった。

 それは、悠一自身が誰よりも理解していたことだった。


 美翅がそんなことをするはずがない。

 その想いが確固たるものとしてあれば、避けることなんてしなかった。


 そして、彼女の"攻撃"によって傷ついた樹の代わりに……悠一の身体が、裂かれていた。


「ダメだなぁ……悠一くんはさ、こういう時の為のものでしょ?」

「こういう、時って……」

「――非常食」


 不気味なほほえみだった。

 これまで、一度たりとも"見たことがない"、戦慄を覚えるような笑顔。


 いや、正確には見たことがあった。


 つい先ほど、あのビルで見た女性と同じだ。


 それは――"奴ら"が、獲物をみつけた時と同じ顔。


「じゃあね。悠一くん。わたし――」


 ――ガウン。


 その言葉は、最後まで続かなかった。

 遮ったのは発砲音。

 二発目の銃創が、美翅の身体に刻まれた。


「み、美翅っ!」

「……間に合ったか」


 顔をのぞかせた執行官を一度強く睨みつけ、しかし悠一はすぐに美翅に向き直った。「美翅!」そう言って駆け出そうとして、しかし――。


「どう、して……っ」


 悠一の脚は、コンクリで埋められてしまったかのように固く、動かず、ただその手が届くはずのない少女に向かって伸びるばかり。


 美翅の口が動く。だけど、音にならない。

 彼女はそのことに気がついて、薄く笑った。


 それは、見覚えのない醜悪な、悪辣なものではない。


 ――いつも見ていた、優しいあの微笑み。


「あ、ああ……」



 ……その身体から、一匹の蝶が空へと舞った。

 続くように、灰色の煙にまぎれて多くの蝶が空へと飛んでいく。


 その度に、美翅の身体が消えていく。


「あ、ま、待って――」


 残された身体に向かって、手を伸ばし、ゆっくりと近づく悠一。


「まだ、僕は、だって、僕はっ、キミのこと」


 しかしその願いは届かず……美翅の身体はその全てを蝶へと変化させて……夜の空に、消えていった。


 構えていた拳銃を下ろした夏樹。

 悠一は見えなくなっていく蝶々に手を伸ばして、


 ただ、声にならない声で――泣いた。

 朝日が登り始めた世界に。


 ひらひらと、無数の蝶が舞っていた。

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